SSブログ

ブリキの太鼓 第一部 [文学 ドイツ]


ブリキの太鼓 1 (集英社文庫 ク 2-2)

ブリキの太鼓 1 (集英社文庫 ク 2-2)

  • 作者: ギュンター・グラス
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 1978/09/01
  • メディア: 文庫



『ブリキの太鼓 第一部』を読み終わった。
私は、世界中の古典と呼ばれる本を全部読みたいと思っている。とはいえ、そういった類の本は数限りなく、名作と呼ばれるものは結構長かったりもし、全部読むなどは不可能だ。しかし、なるべく様々な作品に出会いたいとは思っている。昨年、色々生徒への推薦図書を色々な先生達と話し合って決めていた際、この本に興味を持ち(もちろん題名は知っていたが、読みたいと思ったことはなかった)、昨年購入し、ようやく読む機会が回ってきた。

物語は、生まれた瞬間から精神的に成熟しており、三歳の誕生日に自らの意思で肉体的に成長することをやめ、現在は精神病院に入院しているオスカルが、自分の過去を語るというものである。
自分の生まれたときからではなく、自分が生まれるにいたった過程、つまり自分の祖母が祖父と出会うところから語り始めているところが面白い。ユーモアを交えたその語り方が、プーシキンの『大尉の娘』を髣髴とさせた。

物語を読んでいて面白いと思ったところ。
①オスカルが自分の過去を語るとき、「ぼく」という表現をする場合と「オスカル」という表現をする場合があること。
②歳を重ねて、文字を習う部分が出てくるのだが、精神的に0歳のときから成熟していても、やはり文字を読むという行為は大変な作業なのだ、ということが分かること。

①に関して。これは過去を語る際、主観的かつ客観的に自分を見ているということがわかる。整っていない部分が、本当にその場で語っているような雰囲気を醸し出している。珍しい手法だと思う。
②に関して。おそらく、文字を読んだり書けたりしなくても普通に生きていける。これはパールバックのThe Good Earth『大地』を読んだときにも感じたのだが、結局読み書きが出来なくてもお金をもうけることが出来るし、幸せに生きることも出来るのだということ。しかし、この近代・現代社会においては、何かが足りない気がしてしまうということ。
文字を読み書きできるということが当たり前になってしまっている自分にとって、この②の描写はとても新鮮であり、色々と考えてしまった。

この見た目は子どものままである、ということにより、大人社会(ある意味において人間社会)に参加していない当事者が、他者の視点でその社会を見つめる、というこの手法、夏目漱石の『我輩は猫である』に近い気がして非常に興味深い。ある意味、先ほどの①の「ぼく(当事者性)」と「オスカル(他者性)」の混在と近いのではないだろうか。

色々と深く考えられたこの小説。まだまだ長いのでゆっくり楽しみたい。
nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。