プロタゴラス [哲学 プラトン]
プロタゴラスというソフィストの権化のような人物とソクラテスによる、「徳は教えられるか」ということに関する白熱した議論の書。
議論の最後で、ソクラテスが「徳=知」ということをプロタゴラスに証明し、プロタゴラスは逆に「徳≠知」であることを躍起になって証明しようとしている。
そして、もし「徳=知」であるならそれは教えられなければおかしいので、二人が自分の説と逆のことを証明しようとしていることになる、という形になってしまい、さらなる議論をしようというところで終わっているのが面白い。
プロタゴラスの様々な説は結構説得力があったりし、ソクラテスの方が詭弁を弄しているように思えてしまう場面もなくはない。二人が「徳を扱った詩」についてお互いの意見を出し合う場面があるのだが、ここも結構興味深い。
議論のありかた、対話の仕方を学ぶのにうってつけの作品であり、二人の感情や周りで聞いている人々の様子も描かれている場面もあり、かなり重層的で面白い作品となっている。
p.118
「君はいま、ほかならぬ自分自身の魂の世話を、あるひとりの男ー君の言うところによれば、ソフィストであるところの一人の男ーにゆだねようとしているということだ。では、そのソフィストとはそもそも何ものなのか、君がもしそれを知っているとしたら、ぼくは驚くだろう。だが、その点をもし君が知らないでいるとすれば、君は、自分が魂をゆだねる相手がいかなる人かということもー善いしろものかも悪いしろものかもー知らないでいるといことにある。」
ソクラテスの強烈な皮肉がこもっているセリフ。「徳」という魂の根本のようなものを教えるなどということ自体が不遜であり、そうした人にお金を払ってまで教えを請おうとしている人々もまずいのでは、という気持ちがこもっている。
p.135
「私としては、人間の特性というものが、ひとに教えることのできるものであるとは、考えられないのです。」
p.200
「あなた(プロタゴラス)の自信のすばらしさたるやどうでしょう。ほかの人たちはこの技術をかくしているというのに、あなただけは、あまねくギリシアの人々に公公然と自分を宣伝して、ソフィストとして名乗りをあげ、自分が教育をうけもち徳を教える教師であることを標榜したうえで、そのための報酬を受けとることを要求した最初の人なのですからね。」
凄まじく皮肉たっぷりの発言で読んでいて笑ってしまった。
読み応えのある結構面白い作品だった。
エウテュデモス [哲学 プラトン]
この巻は恐らく、ソフィストがテーマになっているもの。
ソクラテスとクリトンという盟友ふたりが登場し、ソクラテスがソフィスト達と話をした時の様子を語り、その対話について、ソクラテスとクリトンが対話をするという入れ子構造のようなものになっている作品。
ソクラテスとクリトンの対話はそれなりに面白いのだが、ソクラテスとソフィストたちの対話はとにかく退屈。ソフィストたちの話が全て詭弁であり意味がわからない。
p.105
「クリトン、しかし君はどの職業においてもくだらぬ人々は多くて一文の値打ちもないが、しかし立派な人々は少なくて値打ちの尊いものだということを知らないか。」
というソクラテスの言葉が全て。
残念な作品だった。
リュシス [哲学 プラトン]
ソクラテスの一人称語りの物語。
相変わらず老人が、若くて見た目の美しい若者リュシスに恋しており、このリュシスの友人メネクセノスといるところにソクラテスが行き、この二人と「友愛」について対話をするが結局結論に達しないというストーリー。こちらも50ページぐらいの短編。
①似ているものが似ている者に対して、似ているというそのことによって友となる
②反対の者同士が友となる
③無知という悪を持ってはいるが、しかしまだそれによって無知なわからずやになってはいず、自分の知らないことを知らないとまだ考えている人たち、こうした良くも悪くもない人たちが知(友)を愛するものになる。
そしてここから、「~のために友となる」みたいな話になるが、結局はここの「~」はあるが、結局その個々の「~」に通底する根本的な何かを求めるのが人間であり、そうすると
④欲望が愛の原因である
となる。
正直よくわからない。
まあまあではあるが、やはりもう一歩。
ラケス [哲学 プラトン]
戦争から帰ってきた人々が、「重武装」で戦うこと「勇気」とは何か、という事柄について話しており、その会話に呼ばれた若いソクラテスが対話に参加し、それぞれの人の意見をアポリアに陥らせる話。
この話も短く、しかもソクラテスの対話場面になるまでにかなりのページを要するので、対話場面はかなり薄い印象。
「勇気とは何か」
①戦列にとどまって敵を防ぎ逃げようとしない人
②忍耐力
③恐ろしいものと恐ろしくないものとについての知
プラトン作品のよくあるパターン、「Aとは何か」という問いに対して、「~という性質を持った人」というAの性質・特徴を持った具体的な人の例が挙げられ、そうではなくて全てに当てはまるような定義を求めるが、結局定義づけることができず終わる。
これもあまり面白い作品とは言えない。
カルミデス [哲学 プラトン]
ソクラテスが戦争から帰ってきて、そのことについて人々に話しているところから始まる。しかもソクラテスの一人称がたりで結構珍しい形態。そこへ美少年のカルミデスが現れ、彼と「克己節制」とは何かという議論をする。
そして
p.76
「それなら、克己節制(健全な思慮)の人だけが自己自身を知っていることになり、自分はまさしく何を知り何を知らないかをしらべあげることができることにもなる。さらに、かれだけが、ほかの人々についても同じようにして考察できることになる~」
という一定の結論に達する。
これは一見すると良いように思えるが、克己節制の人は様々なことが「良いのか悪いのを見極める知」しかないので、それぞれの知識を持った人にはかなわないので、結局は必要とされないのではないのか、という『テアゲス』でもなされた議論と同じような議論になる。
そのままあまり明確な結論もないまま終わる。
初めのうちはそれなりに楽しめたが、後半だれてきた。この作品も70ページ程度の小品で議論の展開も何となくいい加減な感じ。偽作か?
テアゲス [哲学 プラトン]
恋がたき [哲学 プラトン]
プラトン全集〈6〉 アルキビアデスI アルキビアデスII ヒッパルコス 恋がたき
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/06/24
- メディア: 大型本
この作品も、20ページ程度の偽作の疑いがある作品。
しかし、『ヒッパルコス』よりはましか。
ある高尚なことを話している二人の美男子がいる。そのうちの一人に恋する二人が近くにいる。
一人は、体育を得意とするもの
一人は、学問を得意とするもの
この二人にソクラテスが、
「知を愛し求めること」はみっともないことか否か、
「愛知の場合、学び知る度合いを多くすることが、知を愛することがどうか」などを聴く。
色々と話す間、なんでも度をすぎることは良くなく、適度が良いという結論に達する。
さらに愛知者はいろんなことに適度に通じているものというわけではなく、「自己自身を識る」人だという結論に達する。
イマイチ議論が乱暴でわかりづらい。この作品もイマイチだった。
ヒッパルコス [哲学 プラトン]
プラトン全集〈6〉 アルキビアデスI アルキビアデスII ヒッパルコス 恋がたき
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/06/24
- メディア: 大型本
この作品も、偽作の疑いがある作品らしい。
しかし、これも20ページ程度という短い作品でもあり、プラトンぽさのない内容で確かに偽作っぽいと思ってしまう。
登場人物はソクラテスと友人だけ。しかもその友人も名前がつけられていない。
でだしも唐突な感じ。話題は、「利得の愛求」「利得愛求者」について。
友人は、「利得愛求者」を「無価値なものごとから利得を得ることを期待する人々」「よこしまな、利得に目がくらみやすい人々」と定義し、マイナスの評価をする。しかしソクラテスは、「利得」とは「損失」の反対であり、「損失」は「悪」であり、「利得」は「善」であり、善なるものを求める人は良い人のはずだ、と主張する。
この議論の間に、友人がソクラテスの議論によってなんだかだまされているかのような気分になり次のように言う。
p.162
「反対にあなたがわたしをあざむいて、わたしにはどちらともわからぬままに、議論の中で上を下へとひっくり返しているのです。」
ここからソクラテスが、題名になっている「ヒッパルコス」という僭主ペイシストラトスの話を突然持ち出す。
ソクラテスの言葉遣いや議論の進め方も乱暴な感じで、あまりプラトンの作品っぽくない。読まなくても良い作品。
アルキビアデスⅡ [哲学 プラトン]
プラトン全集〈6〉 アルキビアデスI アルキビアデスII ヒッパルコス 恋がたき
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/06/24
- メディア: 大型本
この作品も、偽作の疑いがある作品らしい。
しかし、これも50ページ程度という短い作品であるが、プラトンらしい内容となっている。
『アルキビアデスⅠ』同様、ソクラテスちアルキビアデス二人の対話で、これから神に願い事をしに行こうとするアルキビアデスをソクラテスが止めて議論する。
神に祈ってその願いが叶えられる人と叶えられない人の違いはなんなのか、という話。
思慮ある願い事をする人は叶えられるが、思慮のない願い事をする人は叶えられない、という話になる。そこから思慮ある人とはどのような人か、という話になり、結論的には「最善についての知」を持っている人が思慮ある人と考えられる。
こうして外見ばかりを気にしていたアルキビアデスは内面に心を配ろうとし始める。
短いが結構興味深い内容となっている。
p.125
「われわれ自身が、無知のせいで、知らずに最悪のことをなしたり、あげくのはてには、それがわれわれに与えられるようにと祈願したりしているところを見れば、無知というものが人間にとってどんなに多くの悪しきことの原因になっていることか、ということです。」
p.145
「もし神々がわれわれのささげる贈り物や、犠牲には目をとめるが、ひとがまさに敬虔であるか、正しくあるかといった、魂のほうには目もくれないというのであれば、それはなんともたいへんなことになるかも知れないからねえ。」
この「神々」を「上司」や「権力者」に帰れば、何故日本の組織がこんなにひどい状態になっているかがわかるだろう。
アルキビアデスⅠ [哲学 プラトン]
プラトン全集〈6〉 アルキビアデスI アルキビアデスII ヒッパルコス 恋がたき
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/06/24
- メディア: 大型本
この作品は、プラトンが書いた作品ではない、つまり偽作だとする説もあるらしい。
しかし、ソクラテスとアルキビアデスという二人の対話で非常に分かりやすく、主張もほか作品と基本的には同じ題材を扱っているのでとても読みやすい。専門的にはよくわからないが、私はプラトンが書いた作品なのではないかと思う。
ストーリーは、家柄もよく、見目形もよく、多くの人から求婚されたり愛され、政界にも打って出ようとしているアルキビアデスに対して、昔から目をつけていたが、デルフォイの神託によって、ある時期が来るまでアルキビアデスとは接触するなと言われていたソクラテスが、遂に話しかけるというもの。
自分に自信があり傲慢なアルキビアデスが、ソクラテスとの対話により、自己の内面・心に目を向け、大切なのは金や肉体美ではなく、魂の美しさなのだとだんだん気がついていく様はとても美しい。
解説を読むとプラトン作品の入門書として昔は位置づけられていたらしいが、わたしもそれにぴったりの書だと思う。短いし、難解な部分は少ないし、是非岩波書店にはこの作品を文庫化してもらいたい。
アルキビアデスの傲慢さをソクラテスが指摘する場面
p.4
「きみの立場は、何事も世の人の助けは少しもいらないという立場なのだ。きみに具わっているものは、身体のことからはじめて最後は精神まで、何一つ不足がないほどの大をなしているからだ。きみの信ずるところでは、まず第一に美しいことも大きいことも、このうえなしのきみなのだからねえ。」
p.34
「なぜならきみは、気違いじみた企てをしようとしていたのだからね、このうえなくすぐれた人よ。自分の知らないことを教えようとするのだからね、学ぶことは怠ってさ。」
まさに、文部科学省・ベネッセ・多くの教育産業・多くの教員に当てはまる言葉だ。
p.89
「してみると、「自身を知れ」という課題を出している人は、われわれに「心を知れ」と命じているわけなのだ。」
p.90
「してみると、自分自身を知るということが、克己節制するということ(思慮の健全さを保つこと)だとすれば、これらの人たちは、その技術だけにたよっているかぎり、誰も思慮の健全な者はいないということになる。」
p.93
「その原因は、きみという人を愛したのはぼく一人だけで、ほかの人たちはきみの付属物を愛したに過ぎなかったからだということにある。そしてきみの付属物は最盛期を過ぎようとしているけれども、きみ自身の開花期はいま始まりかけているからだ。そして今となっては、きみがアテナイの民衆によって腐敗させられ、いまよりも醜くなるようなことがないかぎり、ぼくは決してきみを見捨てるようなことはしないだろう。」
この辺は『ソクラテスの弁明』を彷彿とさせる。
p.94
「心に気をつけ、たましいの面倒をみなければならぬ、そしてこれに目を向けるようにしなければならぬ~(中略)~身体や金銭に気をくばること(面倒をみること)は、ほかの者にまかせるほうがよいのである。」
p.101
「したがって、ひとは富んだからといって、不幸をまぬかれるものではないのだ、思慮の健全さを保つのでなければ。」
なかなか手に入りにくい作品だと思うが、プラトン入門書としてかなりオススメできる作品だ。
パイドロス [哲学 プラトン]
『パイドロス』を読み終わった。
パイドロスとソクラテスの対話。
パイドロスが、リュシアスが語っていたことをソクラテスに聞かせるところから始まる。
リュシアスは、「ひとは自分を恋している者よりも恋していない者にこそ身をまかせなければならない」という話ししているらしい。これに対してソクラテスは神憑りに状態になって反論する。
結局は、真なるものを求めるエロース讃歌となり、そこからさらに、弁論術を教えて金を取るソフィスト批判へとなる。
印象的な言葉
p.178
「自己自身によって動かされるものは不死なるものであるということ、すっかり明らかになったいま、ひとは、この〈自己自身によって動かされる〉ということこそまさに、魂のもつ本来のあり方であり、その本質を喝破したものだということに、なんのためらいも感じないだろう。~中略~〈自分で自分を動かすもの〉というのが、すなわち魂にほかならないとすれば、魂は必然的に、不生不死のものということになるであろう。」
pp.232~233
「話したり考えたりする力を得るために、この分割と総合という方法を、ぼく自身が恋人のように大切にしている~。ぼくは、このことを実行できる人たちのことを、~中略~哲学的問答法を身につけた者と呼んでいるのだ。」
いろいろな人と働いていて、結局この「分割と総合」ということができない。つまり演繹法と帰納法を活用して物事を考えられない人間が90%以上いる。特に、自分はできる人間だ、最先端の仕事をしていると思っている人間ほどできていない、独りよがりのものとなっていることが多い。そう言う人にこのソクラテスの言葉を聞かせてあげたい。
p.235
「彼ら(ソフィスト)は真実らしきものが真実そのものよりも尊重されるべきであることを無にいた人たちだが、一方でまた、言葉の力によって、小さい事柄が大きく、大きな事柄が小さく見えるようにするし~」
これも私の上司や同僚の大部分がこういう人間だ。結局本質的なところを問題にせず、見た目がよい、相手が受け入れやすいものばかりを訴える。彼らは真なるものを見ようとしないのだ。
p.241
「ある人々は哲学的問答法の心得がないために、弁論術とはそもそも何であるかを定義することができず、そして、そのように弁論術のなんたるかを知らないことの結果として、技術に入る前に予備的に学んでおかなければならない事柄を心得ているだけで、弁論術そのものを発見したと思い込むものだ。そして、この予備的な事柄をほかの人々に教えれば、それで自分たちは弁論術をすっかり自分完全に教えてしまったことになると信じていて~」
これも、どこかの学校の、日本で最高と言われている大学を出て世界史を教えている教師や、自分は作家だと自分で言っている国語教師の態度と全く一緒だ。本質を見ることなく、最先端のものを盲目的に追いかけ、自分たちが最高だと思っている輩、この本を呼んで、今でもソフィストはいるのだなあ、と思った。
p.242
「およそ技術の中でも重要であるほどのものは、ものの本性についての、空論にちかいまでの詳細な議論と、現実遊離と言われるくらいの高遠な思索とを、とくに必要とする。」
自分が何か高邁なことをやっていて進歩的だと考える連中は、自分と異なる意見を持つ人との議論を好まず、現実的に役に立つことだけをやり、偉そうにしている。ここでソクラテス(プラトン)が言っていることと真逆のことを行う。
以下のソフィストを揶揄した部分も圧巻だ。
p.250
「弁論の力をじゅうぶんにみにつけようとする者は、何が正しい事柄であり善い事柄であるかということに関して、あるいは、どういう人間がー生まれつきにせよ教育の結果にせよー正しくまた善い人間であるかということに関して、その真実にあずかる必要は、少しもないのだから。じじつ、裁判の法廷において、こういった事柄の真実を気にかける人なんか、ひとりだっておりはしない。そこでは、人を信じさせる力をもったものこそが、問題なのだ。人を信じさせる力をもったもの、それは、真実らしく見えるもののことであって、それにこそ、技術によって語ろうとするものは先進しなけれならぬ。」
結局何かまともなことをやろうとしたら、基本的な知識を得、そのことについて深く考え議論し、自分の内面を深くしてからでないと、できないのだ。創造的も同じだ。しかし最近は「アクティブ・ラーニング」という言葉だけで実態を伴わないものばかりがもてはやされ、基本的なことをおろそかにし、見た目に良いもの、何か賞が与えられるもの、人を争って勝ったことにより得られる名誉のようなものばかりを求める教育が行われ、上に立つ人間たちもそういったものが素晴らしいものだと評価する。
行き着く先は、中身のない無意味な技術を身につけた者たちばかりとなる。この本を読んで改めて日本の教育、自分の周りで行われている教育の危うさを実感した。
最後に素晴らしい祈りを紹介する。
p.267
「この私を、内なるこころにおいて美しい者にしてくださいますように。そして、私が持っているすべての外面的なものが、この内なるものと調和いたしますように。私が、知恵ある人をこそ富める者と考える人間になりますように。~中略~ぼくのほうは、これだけのことをお祈りしてしまえば気がすむのだが。」
饗宴 [哲学 プラトン]
久しぶりにプラトンの『饗宴』を読んだ。
かつて、「エロース」の神について、ソクラテスほか様々な人が酒を飲みながら賛美した言論を、後世の人が、語るという形態で叙述されたもの。
ソクラテスがエロースの神をたたえる前に、様々な人がエロースの神をたたえるのだが、その説が一つ一つ興味深い。
p.28
「つまり、他と無関係にそれだけでそのものとしてなされるときには、それ自信美しいものでも醜いものでもない、~中略~つまり、美しく正しくなされれば、美しい行為となり、正しくなされなければ、醜い行為となる。だから、恋をするということにしてもエロースにしても、それと同じことであって、全部が全部美しいわけでも賛美されるに値するわけでもなく、美しい恋をするようにしむけるエロースのみがそれに当たるのである。」
これはひどく同意する。世の中のカップルを見ていると、私は醜い姿を見ることがあまりにも多い。
p.33
「なお、よくない人とは、あの、低俗な恋を懐く者、つまり魂よりはむしろ肉体を恋する者のことである。そしてじつにそのような者は、その恋の対象が永続性のないものであるから、彼自身また永続性に欠けるのである。~中略~それに反して相手の人柄にーそれが立派な時のことであるがーその人柄に恋をする者は、永続的なものと融合するのであるから、一生を通じて変わらないのである。」
芸能人同士の結婚が破綻することが多いのもこのためであろう。
p.47
男ー男、女ー女、男ー女という組み合わせのそれぞれ球体があり、神の怒りに触れ、それぞれバラバラにされ、もとのパートナーを探すことになったのが、恋愛のはじまりとい説、
これは現在の性の多様性を先取りした説だと思う。
こうした色々な人が提唱する説はソクラテスによって批判されるのだが、さすがそれぞれが説得力があり、かなり今でも通用する説。
このあと、
p.82
「美しいものが自分のものになること」こそがエロースの真髄だということになり、ディオティマという女性の言葉を借りて、肉体に対する愛よりも、美しいもの真善美に対する愛というものは永遠であり、それこそがエロースの本質であることが語られる。さらにアルキビアデスというかつてのソクラテスの弟子であり、美少年である若者が、美少年愛があるギリシャ世界において、自分と夜二人きりになっても、決して肉体的に一体になるようなことはしなかったという。
現在、故ジャニー氏のジャニーズ帝国が問題になっているが、何千年も前から、このような本が書かれていることに驚きを禁じえない。
『ソクラテスの弁明』はじめプラトンが記した『饗宴』『国家』など、日本の権力の中枢にある人、ビジネス界の中枢にある人たちが読み、世の中をよりよいものにしようと考えてくれたら、日本はもっと良い社会になるのになあ、と思う。
久しぶりに読んだが現在の日本にも多くのことを教えてくれる、かなりの名著だ。
ピレボス [哲学 プラトン]
この世の中で最も「善」なるものは何か、ということに関する議論。
ピレボス は、「快楽」である と主張し
ソクラテスは、「知性」である と主張する。
議論を聞いている若いプロタルコスはピレボスの意見に賛成しているため、若いプロタルコスを相手にソクラテスが、「善」なるものに近いのは「知性」の方であると意見を変えさせていく。
はじめに、「善」に最も近いものである一等賞は、ここではなかなか見つけられないので、二等賞を決めようという話になる。一等賞は「イデア」ということか?
そして、「正しい思いなし」「間違った思いなし」という話になり、快楽にも「正しい快楽」と「悪い快楽」がある話とかになり、「善」に近いものは、「度を越していないか」「適度か」などの観点で言っても「快楽」ではなく「知性」であるし、最大の「快楽」とみなされる「男女の交わり」に関しても、人々はそこに滑稽なもの、醜悪きわまるものが付随するのを目にし、そのようなことを夜にふりむけること自体が、光が見てはならないものだ、と判断し、これおを退ける。
結局、「真善美」「真実性」に近いのは、「知性」であるとして議論は終わる。
正直、年齢のせいなのか、こうした文章を読むのがかなり億劫になってきた。最近疲れているせいなのかもしれないが・・・。
とにかく議論の流れを追うことするしんどかった。
パルメニデス [哲学 プラトン]
ケパロスという人が登場し、昔行われたソクラテス、ゼノン&パルメニデスの三人の対話を、ピュトドロスという人が語っているという形で記されている。何度読んでも、このはじめの部分の間接的な語りに導くところがよくわからない。
三人の対話部分になると、副題の通り、「イデア」に関する話になるが、『国歌』などで語られるイデア論ほど面白いものではなく、ほかの書物で語られたイデア論をただ説明しているに過ぎず、そのイデア論批判がなされる。
後半は、1があるのか、ないのか、他の物と異なっているのか、同じなのか、部分なのか、全体なのか、などなど、論理学的な精密さをもって語られていくのだが、論理学が大学時代から苦手だった私にはよくわからない部分が多く、とにかく読んでいて血が通っていない感じで退屈。
正直ただページをめくるだけ、といった感じの作品だった。
ポリティコス [哲学 プラトン]
ようやく『ポリティコス』を読み終わった。
ソフィストを定義付けようとした『ソピステス』に引き続き、エレアからの客人が対話を主導する。今回の対話相手は若いソクラテス。あのソクラテスとは基本的に関係ないらしい。あのソクラテスも初めに登場する。
『ソピステス』同様、初めに「政治家」とは何か、を対話を通して細かく定義付けようとする。この前半部は詳細な分類をするのが面白くはあるが、ストーリーとしてはつまらない。
後半、いよいよ話は盛り上がって行き、政治上の支配形態の話になっていく。
1.単独 支配政体
2.少数者支配形態
3.多数者支配形態
の3つに分類され、これがさらに二つに分けられていく。
1-1 君主支配政体
1-2 僭主独裁政体
2-1 上流者支配政体
2-2 少数者専制政体
3-1 民主政体
3-2 民主政体(ポピュリズムみたいな?)
ある程度法に従い、人民に対して善政を敷く場合と、自分勝手に悪政を行う場合だ。
普通であれば、多数支配形態の善政を敷く「民主制」が一番素晴らしいという結論になるのであろうが、『国歌』同様、プラトンは、頭の良い真に物事を見分けることができる人が支配する、単独支配政体が一番素晴らしいという結論に達する。
さらに言えば、本当の政治家とは、法をある程度は守るが、法にかたくなにこだわるのではなく、時と場合に応じて、最善の選択をし、決断が出来る人だと言う。このへんはかなり賛同してしまう。多くのトップに立つ人間はこれができない。結局法律やルールにこだわり、冒険しようとしない。失敗を恐るからであろう。そう思うと、ディズニーランドを運営するオリエンタルランドは、現場の人々の場合に応じた臨機応変の対応を認めて尊重しているという点で素晴らしい組織なのだろう。
p.314
「種々の政体についても、それらのうちでかくべつに正当であるとともにその名に値すべき唯一の政体とは、その政体のもとにある国家に支配者たちがたんに評判のうえにおいてではなくて真実の意味で知識をそなえている者であること、このことがしかるべき人の眼前に明示されるにいたりうるような政体のことだ。」
p.316
「法律の能力には、限界があるからだ。つまり、すべての人間にとって最善の理想になるとともにもっとも適切でもあるようなこと、これを厳密に網羅したうえで、最善の方策をひとときに全員に命令として与えるということ、このようなことは法律がぜったいに実行しえないところなのだ。
~中略~
いかなる問題にのぞんでも、単純不変の公式のたぐいをありとあらゆる時においてあらゆる事例に適用されうるものとして確定的に示すことは、総じていかなる技術にも許されていないのだ。
p.317
「だから考えてみれば、法律はどこかの強情で愚鈍な人間にそっくりなのだ。つまり、自分が布告した命令に反することは、なにひとつだれにもおこなうことを許そうとしない人間にそっくりなのだ。」
pp.325~326
「ほんとうはむしろ、統治者が、国民を説得しても説得しなくても、富裕であっても貧乏であっても、成文法に従っていても成文法を無視していても、ともかく有益なことをなしとげさえすれば、まさにこのことがあるいはこの種のことに近いことが、国家の正当な管理というもののなによりも真正な標準をなすべきなのでって、知恵を持った有能な人物がその配下の被支配者にかかわる諸問題を処理するにあたって準拠とされるものは、ひとえにこの標準にほかならないのだ。」
これは「哲人政治」を言っているのであろう。さらに対話を重視したソクラテスープラトンならではの、主張だと思う。
p.339
「およそ多数者というものはけっして技術というものを、その種のいかんにかかわらず、習得することができないのだ。」
これも人間を金銀銅に分けたプラトンらしい主張だ。
p.348
「この民主政体というものは、いまここで問題にされているすべての政体が法律遵法的であるばあいには、それら全部のうちでもっとも劣悪な政体なのだ。ところが、これら全部の政体が法律軽視的であるばあいには、そのうちでは民主政体がもっとも優秀であるのだ。」
つまり、多数者は真なる知恵を獲得できない。だから、法律が守られている場合は、多数者が支配する民主政体が最悪となる。だが、法律が守られていない、つまり道徳的に見てひどい支配者が統治する場合は、なるべく多くの人が支配者になる民主政体が一番良くなる。つまり現在の世の中は、人々が法律をあまり守らないことを前提に最善の政体を選んでいるということになる。
後半、『国歌』を彷彿とさせる議論が展開されかなり面白くなるが、全体的にはやや冗長な印象。
ソピステス [哲学 プラトン]
副題は「〈あるもの〉(有)について」となっているが、基本的には、当時「知」を教えて金をもらっていたソフィスト達に対する批判の書。
この作品は、ソクラテスが初めに登場はするのだが、本格的な対話には参加せず、『テアイテトス』のソクラテスの対話相手だったテアイテトスと、エレアからの客人との二人の対話で議論は進む。当時恐らく、ソフィストは相当幅を利かせており、ソクラテスが対話を主導するかたちでソフィスト批判をするのは少し憚られたのかもしれない。
本来は
1.『ソピステス』 ソフィストについて
2.『ポリティコス』政治家 について
3.『ピロソポス』 哲学者 について
という三部作にする予定だったらしいが、最後の『ピロソポス』は書かれなかったらしい。しかしこれは『国家』の後半がまさに哲学者について語ったものな気がするので、『国家』をもってプラトンの計画は達成されたきがする。
初めに、ソフィストの定義づけをしようというところから議論は始まる。ソフィストの様々な側面が細かく定義づけられていく。その後、「有る」「ない」「同じ」「異なる」などの定義づけなどがされ、最終的にソフィストを「知者を物真似る者」と定義する。
かなり緻密な議論がなされており、結構論理を追っていくのがしんどいが面白かった。
p.54
「思うに、ソフィストたちは、彼らが反論して渡り合うその当の事柄にかけては、自分でもちゃんと知識を持っているというふうに思われているからなのだ。
~中略~
してみると彼らは、あらゆる事柄について知者であるように、弟子たちには見えるわけなのだ」
p.58
「ソフィストとは実物を真似てその似姿を作るところの、一種のいかさま師であるということは、もはや明らかだろうか?
~中略~
ソフィストとは、(遊びごと)にたずさわっている者たちのひとりであることは、もはや明らかだと言ってよいでしょう」
イデア論なども出てきてそれなりに興味深い本だった。
テアイテトス [哲学 プラトン]
『テアイテトス』ー知識についてー、という副題がついており、「個々の人間の知覚こそ、真理の基準であり、絶対的な真理は存在しない」という意味であると考えられている、ソフィストのプロタゴラスが言ったとされる「万物の尺度は人間である」という考え方を対話を通して否定しようとした作品。
プラトンは、イデア論で有名であり、その思想からわかるように、絶対的な真理というものがあり、そのイデアを分有しているのが、この世で感覚されているものなのだ、という考えを持っていた人で、まさにプロタゴラスと正反対の考えを持っていた。
ソクラテスが亡くなった後、エウクレイデスという人とテルプシオンという人が、死んでしまったソクラテスを思いだし、彼が死ぬ前に行ったとされる対話を書き残したものがある、というのでその書物を読んでいるという設定になっている。
ソクラテスの対話相手は基本的に若いテアイテトスがつとめており、そこからこの対話篇の題名は取られている。
初めは、プロタゴラスの「万物の尺度は人間である」という言葉に沿って、知識とは何か、ということを考える。テアイテトスは「知識=感覚」と答えるのだが、その考えを、ソクラテスが巧妙に論理的に論破して行く。
最終的に、「正しい思いなしに言論の加わったものが知識であり、さらにさらにその言語化したものの背後にある行程も知識であり、そのものとそのものではない他の物との違いこそが知識である」と定義しようとするのだが、それでもやっぱり定義しきれない。
つまり、結局人は知識というものを定義しきれない。だから、「知らないものを知っていると思ったりしないだけの思慮深さ」つまり「無知の知」こそが重要なのだ、という結論に達する。
かなり、複雑な対話で論理を追うのがしんどいし、その論理を人に説明するのは不可能に近いのだが、ゆっくりこの対話と向き合うだけでも、頭の体操にもなるし、物事に対して真摯に向き合う姿勢が大切だということを思わせてくれる。
大学時代に読んだ時も難しいと思い、どんな話だったか印象の薄い本だったのだが、今回再読(4回目)してみてその理由が改めてわかった。
p.283
「真の意味の自由と時間の余裕とをもって。その中に育てられた人の流儀なのでして、こういう人こそあなたは好学求知の士と呼ばれることでしょう。かかる人にあっては、かかる人にあっては、たとえば夜具類の荷ごしらえをどうするか知らないとか、うまいお菜を作ったり、うまいお世辞を言ったりすることを知らないとかいうふうで、奴隷奉公の仕事に当っては、のろまであるとか無能であるとか思われることがあっても、それはべつに落ち度にはならないのです。」
p.318
「したがって、かの[身体を通して]受け取られるだけのものの中には知識は存しないわけなのだ。むしろそれらについての思量(勘考)の中に知識があるのだ。」
ここに、イデア論の萌芽が見て取れる。
かなり頭を使う本ではあったが、面白かった。
クラテュロス [哲学 プラトン]
ソクラテスとヘルもゲネス、クラテュロスが、「名前の正しさというものは、それぞれの有るものにたいして、本来本性的に[自然に]定まっている」かどうかを論じた作品。
今回再読なのだが、前回も感じたのだが、やはりあまり面白くない。
あるものに対して、名前がついているのだが、そもそも言語が違えば付いている名前も違うわけであって、それが本性的に定まっているのかどうかを論じること自体がナンセンスな気がするのだ。この辺の言葉の違いなどにも触れてい入るのだが、正直良くわからない。
議論は、ギリシア神話の神々に付けられた名前はそれぞれの神の特性を表しているかどうか、といった話になり、この名前はこの語源を持っているなどとなるのだが、ではその語源がそもそも何でそういう名前になったのか、ということには言及されない。これは「神の存在証明」であったり、「卵が先かにわとりが先か」とか『ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環』で論じられたものと同じで、結局は証明されようがないというか、議論の行き着く先がないものである。名前を付けるのは法律家である、といった話も出てくるのだがそれもよくわからない。
最後はイデア論的なことになっていくのだが、あまり成功しているとは思えない。
とてもchallengingなテーマを扱っているとは思うのだが、はっきり言って議論が空回りしてしまうテーマで面白くないと思う。
プラトンの中ではかなり残念な作品と言える。
パイドン [哲学 プラトン]
プラトン全集〈1〉エウテュプロン ソクラテスの弁明 クリトン パイドン
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/01/25
- メディア: 単行本
ソクラテスが刑の執行をされ殺される直前の仲間たちの対話を、後にエケクラテスという人にパイドンが語ったという形を取った作品。
テーマは、魂と肉体の二元論、そこから転じて魂の不死、魂の想起説、エイドス(イデア)論、などプラトン思想の根幹となるようなテーマがコンパクトにまとめられている。
結構どんどん話が進み、何となくうまく言い含められているような部分もなくはないし、じっくり考えてもイマイチよくわからない部分も多いし、後半の神話的な部分は読むのが辛かったりするのだが、全体的には読みやすく面白く興味深い。
p.179
「知を求めるひとというのが、とくに他の人間たちとはきわだって、魂を、できるだけ肉体との交わりから解きはなそうとしていることが、あきらかとなるのではないか」
p.185
「まさしくこのからだのおかげで、世にいうように、まことわれわれには考える機会すら何ひとつ片時も生じないのだ。というのもじじつ、戦争にしても内覧にしてもいろいろの争闘にしても、それらは、ほかならぬ肉体と、それのもつ欲望が生じせしめているのだからねえ!なぜなら戦争はすべて財貨の獲得のためにおこるのだが、その財貨を手に入れよ、と強いるのは肉体であり、われわれはその肉体の気づかいにまったく奴隷のように終始している以上は、どのみちそうせざるを得ないからだ。」
p.188
「魂の、肉体からの開放と分離が、死と名付けられている、のではないのか」
p.190
「死にのぞんで嘆きかなしむ男を、もし君が目にしたならば、そのことは彼がじつは知を求める者ではなかったのであり、むしろ肉体をこそ愛する者であったことの十分な証拠となるのではないか。でまた、そのおなじ男は、まさに金銭を愛する者が名誉を愛する者のいずれか一方であるか、或いはその両方をかねそなえた者でおそらくはあることだろう」
この辺は魂(知)が肉体より優れたものであり、逆に肉体のせいで知を求めることを妨げていると言っている素晴らしい箇所だ。
p.206
「いまわれわれが想起する事柄は、いつかそれ以前の時に、われわれによってすでに学び知られたものであることに、必然的になるでしょう。ところでそのことは、われわれの魂が、この人間というもののうちに生じてくる以前に、すでにどこかに存在していたのでなければ、不可能なことです。したがって、この途をたどっても、魂は不死であることにどうやらなりそうですね」
これが有名な魂の不死説であり、想起説だ。
p.236
「この物体的なものは重たくて、土の性をもち、可視的なものとされねばならない。じっさい、いまのべたような魂は、たしかにこれを帯びるがゆえに、それ自身の軽ろやかさを失い、かの見えざるところ、ハデスをおそれて、ふたたびこの目に見えるところへと引き戻されてしまうのである。ーあの、牌や墓のまわりを転々とすると世間でもいわれており、じじつ、そのあたりでは魂のかげに似たまぼろしが見られるのだが、それはいまのべたような魂が、つまり清浄ならざるままに肉体から離別し、可視的なものをみずからにあずかりもつ魂が、つくりだす幻影なのである。だからこそ、また見られもするというわけだ。」
この説明はお化けを説明する説としてかなり面白いし、説得力がある説な気がする。
p.320
「魂がハデスに赴くときに、伴いうるものは、ただみずからの学びと養いのしるしだけであり、それこそが、かの世への旅の当初から、とりわけ死者たちを益し、あるいは害するものと、言い伝えられているのだ。
魂を出来るだけ良いものにするために、知を追い求めることの大切さを改めて考えさせられた。やはり面白い作品だった。
クリトン [哲学 プラトン]
プラトン全集〈1〉エウテュプロン ソクラテスの弁明 クリトン パイドン
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/01/25
- メディア: 単行本
前作『ソクラテスの弁明』で死刑判決を受けたソクラテスが、死刑の執行を待つ間、クリトンが牢にいるソクラテスのところへやってきて、彼に国外逃亡を勧めるが、ソクラテスがそんなクリトンを説得する物語。
『ソクラテスの弁明』とともに、ほぼひとりがたりのこの作品だが、素晴らしい内容で、グイグイひきこまれる素晴らしい作品。
p.133
「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだというのだ。」
p.136
「たとい不正な目にあっても、世の多数の者が考えるような、不正の仕返しをするということは、とにかく、どんなにしても、不正を行ってはならないのだとすると、そういうことも許されないことになる。」
p.148
「しかしお前は、老人の身で、余生も残り少ないと多方は見られるのに、最も大切な法を踏みにじってまで、こんなに執念深く、ただ生きることを求めて憚らなかったのだというふうに言う者が一人もいないだろうか。~中略~しかもその生とは、テッタリアでは、ご馳走でも食べるよりほかに、何をすることがあるのだ。まるでテッタリアでは、御馳走でも食べるよりほかに、何をすることがあるのだ。まるで食事のために、テッタリアまで逃げていったようなものではないか。これに対して、あの正義、その他の徳についての議論は、どこにあることになるのか、ひとつ教えてもらいたいものだ。」
p.150
「まあ、いずれにしても、いまこの世からお前が去って行くとすれば、お前はすっかり不正な目にあわされた人間として、去っていくことになるけれども、しかしそれはわたしたち国法による被害ではなくて、世間の人間から加えられた不正にとどまるのだ。ところが、もしお前が、自分で私たちに対して行った同意や約束を踏みにじり、何よりも害を加えてはならないはずの、自分自身や自分の友だち、自分の祖国とわたしたち国法に対して害を加えるという、そういうみにくい仕方で、不正や加害の仕返しをして、ここから逃げていくとするならば、生きているかぎりのお前に対しては、私たちの怒りがつづくだろう」
「ただ生きる」ことではなく「よく生きる」ことを求めたソクラテス。そして「よく生きる」ために自ら進んで「死」を選んだソクラテス、おそらくこの思想は上野千鶴子は否定するものなのだろうが、私はどうしても共感してしまう。
ソクラテスの弁明 [哲学 プラトン]
プラトン全集〈1〉エウテュプロン ソクラテスの弁明 クリトン パイドン
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/01/25
- メディア: 単行本
今まで何度この本を読んできただろう。大人になってから読んだ本でもっとも読んだ回数が多い本かもしれない。長さもちょうどよく、内容は凄まじく濃く、深く、考えさせられ、読後に「善く生きなければならない」と自分を奮い立たせることができる古今東西の中でも一位二位を争う名著だ。
ある意味、先日読み終わった上野千鶴子の思想「生き延びるための思想」と逆を行く発想を持った作品と言える。「自分の信念のために、正義や徳のために死ぬ思想」書と言えるかもしれない。
矛盾に感じるかもしれないが、上野千鶴子にもプラトンにも私は共感する。そして上野千鶴子にもゲバラにも共感する。そうした意味ではイエス・キリストという人はとても偉大だったのかもしれない。
p.79
「多くの人たちの中傷と嫉妬が、~中略~ 他にも多くのすぐれた善き人たちを罪に陥したものなのでして、これからもまた罪を負わせることになるでしょう。それがわたしで終りになるようなことは、おそらく決してないでしょう。」
p.84
「世にもすぐれた人よ、君はアテナイという、知力においても、武力においても、もっとも評判の高い、偉大なポリス(市民国家)の一員でありながら、ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことに気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮と真実には気をつかわず、たましい(いのちそのもの)を、できるだけすぐれたよいものにするように、心を用いることもしないというのは、・・・」
pp.84~85
「つまりわたしが、歩きまわっておこなっていることはといえば、ただ次のことだけなのです。諸君のうちの若い人にも年寄りの人にも、誰にでも、たましいができるだけすぐれたよいものになるよう、ずいぶん気をつかわなければならないのであって、それよりも先に、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことをきにしてはならないと説くわけなのです。」
p.88
「もしわたしが、もっと前に、政治上のごたごたに手をそめようと企てたのならば、わたしはとっくに身を亡ぼし、あなたがたのためにも、私自身のためにも、なんら益することがなかったでしょう。~中略~ 諸君なり、あるいは他の大多数の人たちなりに、正直一途の反対をして、多くの不正や違法が、国家者家のうちに行われるのを、どこまでも妨げようとするならば、人間だれも身を全うするものはないでしょう。むしろほんとうに正義のために戦おうとする者は、~中略~ 私人としてあることが必要なのでして、公人として行動すべきではないのです。」
p.106
「わたしが敗訴になったのは、不足は不足でも、言葉のそれではなくて、厚顔と無恥の不足したためなのだ。」
今でも十分に通用するこれらの言葉。日本の腐りきった政治家、経営者たちに読ませたい。
エウテュプロン [哲学 プラトン]
プラトン全集〈1〉エウテュプロン ソクラテスの弁明 クリトン パイドン
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/01/25
- メディア: 単行本
ソクラテスが、メレトスを中心とした人々に「若者たちを誤った方向へ導いた、不敬である」として公訴され、役所へ向かう途中で、エウテュプロンなる人物と出会い短い対話をする。
エウテュプロンは、自分の父親を殺人罪で訴えようとしている。父の使用人の一人がほかの使用人を殺してしまったので、父はそのものを縛り上げ、どのように扱えば良いか、聖法解釈者に訪ねさせているあいだに、縛り上げられているものが死んでしまった。そこでエウテュプロンは父親を殺人の罪で訴えようとしている。これに対してソクラテスは異を唱え、「敬虔」とは何なのか、という対話を始める。
訴える理由を述べるエウテュプロンの言葉に、私はどうしても共感してしまう。
p.14
「敬虔とは、私が現在行っているまさにそのこと、すなわち、問題が殺人であれ、聖物窃取であれ、~中略~罪を犯し、不正を働く者を、それがたまたま父親であろうと母親であろうと、あるいは他の誰であろうとも、訴え出ることであり、これを訴えでないことが不経験なのです。」
これに対して、ソクラテスは、父親がなした程度のことで、父親を訴えることは、敬虔な行為ではない、ということを色々な方法で説得しようとする。
私はプラトンのソクラテスを主人公とした対話篇が大好きで、その思想に共感し、多大なる影響を受け、自分の行動に活かしているつもりだ。しかしここでのソクラテスの議論はどうしても納得いかない。この作品が、あまり一般的でないのもわかる気がする。