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パイドロス [哲学 プラトン]


プラトン全集〈5〉 饗宴 パイドロス

プラトン全集〈5〉 饗宴 パイドロス

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2005/05/26
  • メディア: 単行本



『パイドロス』を読み終わった。
パイドロスとソクラテスの対話。
パイドロスが、リュシアスが語っていたことをソクラテスに聞かせるところから始まる。
リュシアスは、「ひとは自分を恋している者よりも恋していない者にこそ身をまかせなければならない」という話ししているらしい。これに対してソクラテスは神憑りに状態になって反論する。

結局は、真なるものを求めるエロース讃歌となり、そこからさらに、弁論術を教えて金を取るソフィスト批判へとなる。

印象的な言葉
p.178
「自己自身によって動かされるものは不死なるものであるということ、すっかり明らかになったいま、ひとは、この〈自己自身によって動かされる〉ということこそまさに、魂のもつ本来のあり方であり、その本質を喝破したものだということに、なんのためらいも感じないだろう。~中略~〈自分で自分を動かすもの〉というのが、すなわち魂にほかならないとすれば、魂は必然的に、不生不死のものということになるであろう。」


pp.232~233
「話したり考えたりする力を得るために、この分割と総合という方法を、ぼく自身が恋人のように大切にしている~。ぼくは、このことを実行できる人たちのことを、~中略~哲学的問答法を身につけた者と呼んでいるのだ。」

いろいろな人と働いていて、結局この「分割と総合」ということができない。つまり演繹法と帰納法を活用して物事を考えられない人間が90%以上いる。特に、自分はできる人間だ、最先端の仕事をしていると思っている人間ほどできていない、独りよがりのものとなっていることが多い。そう言う人にこのソクラテスの言葉を聞かせてあげたい。

p.235
「彼ら(ソフィスト)は真実らしきものが真実そのものよりも尊重されるべきであることを無にいた人たちだが、一方でまた、言葉の力によって、小さい事柄が大きく、大きな事柄が小さく見えるようにするし~」
これも私の上司や同僚の大部分がこういう人間だ。結局本質的なところを問題にせず、見た目がよい、相手が受け入れやすいものばかりを訴える。彼らは真なるものを見ようとしないのだ。

p.241
「ある人々は哲学的問答法の心得がないために、弁論術とはそもそも何であるかを定義することができず、そして、そのように弁論術のなんたるかを知らないことの結果として、技術に入る前に予備的に学んでおかなければならない事柄を心得ているだけで、弁論術そのものを発見したと思い込むものだ。そして、この予備的な事柄をほかの人々に教えれば、それで自分たちは弁論術をすっかり自分完全に教えてしまったことになると信じていて~」
これも、どこかの学校の、日本で最高と言われている大学を出て世界史を教えている教師や、自分は作家だと自分で言っている国語教師の態度と全く一緒だ。本質を見ることなく、最先端のものを盲目的に追いかけ、自分たちが最高だと思っている輩、この本を呼んで、今でもソフィストはいるのだなあ、と思った。

p.242
「およそ技術の中でも重要であるほどのものは、ものの本性についての、空論にちかいまでの詳細な議論と、現実遊離と言われるくらいの高遠な思索とを、とくに必要とする。」
自分が何か高邁なことをやっていて進歩的だと考える連中は、自分と異なる意見を持つ人との議論を好まず、現実的に役に立つことだけをやり、偉そうにしている。ここでソクラテス(プラトン)が言っていることと真逆のことを行う。

以下のソフィストを揶揄した部分も圧巻だ。
p.250
「弁論の力をじゅうぶんにみにつけようとする者は、何が正しい事柄であり善い事柄であるかということに関して、あるいは、どういう人間がー生まれつきにせよ教育の結果にせよー正しくまた善い人間であるかということに関して、その真実にあずかる必要は、少しもないのだから。じじつ、裁判の法廷において、こういった事柄の真実を気にかける人なんか、ひとりだっておりはしない。そこでは、人を信じさせる力をもったものこそが、問題なのだ。人を信じさせる力をもったもの、それは、真実らしく見えるもののことであって、それにこそ、技術によって語ろうとするものは先進しなけれならぬ。」

結局何かまともなことをやろうとしたら、基本的な知識を得、そのことについて深く考え議論し、自分の内面を深くしてからでないと、できないのだ。創造的も同じだ。しかし最近は「アクティブ・ラーニング」という言葉だけで実態を伴わないものばかりがもてはやされ、基本的なことをおろそかにし、見た目に良いもの、何か賞が与えられるもの、人を争って勝ったことにより得られる名誉のようなものばかりを求める教育が行われ、上に立つ人間たちもそういったものが素晴らしいものだと評価する。

行き着く先は、中身のない無意味な技術を身につけた者たちばかりとなる。この本を読んで改めて日本の教育、自分の周りで行われている教育の危うさを実感した。

最後に素晴らしい祈りを紹介する。

p.267
「この私を、内なるこころにおいて美しい者にしてくださいますように。そして、私が持っているすべての外面的なものが、この内なるものと調和いたしますように。私が、知恵ある人をこそ富める者と考える人間になりますように。~中略~ぼくのほうは、これだけのことをお祈りしてしまえば気がすむのだが。」
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