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詩をどう読むか 第二章 詩とは何か [学術書]


詩をどう読むか

詩をどう読むか

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/07/13
  • メディア: 単行本



この章は、詩というものを大きく捉え、定義付けようとしたもの。

1. 詩と散文
2. 詩と倫理
3. 詩とフィクション
4. 詩と実用性
5. 詩的言語

章の最後に見事に「詩」とは何かが要約されている。
p.120
「これまで見てきたように、テクストがページ上で行分けされている(詩と散文の違い)ことは、それをフィクションとして受け取るよう(詩は経験、事実に基づいたものであろうとあくまで皆に解釈を委ねてるという意味でフィクション)にという合図だ。 だが行分けはまた、言葉自体に格別の注意を払うようにー言葉を素通りして意味ばかりを見つめるのではなく、言葉をぶっして打てきな出来事として経験するようにーという支持でもある。とはいえ、たいていの詩で大切なのは、意味よりもむしろ言語の方を経験するといったことではなく、ひっくるめてその両方に反応すること、あるいは両者の内的な結びつきを感じ取ることだ。」
( )内は私が書き加えた。形式にも内容にも気を配ろうと思うが、やはり詩というものは難しいとこの章を読んであらためて思った。


印象に残った数節を・・・。
p.74
「詩とは、ひろく世に公開されて、われわれがどう受け取ってもいいというたぐいの発言だ。だからそもそもの定義上、ただ一つの意味をもつことなど決してありえない書きものなのだ。それどころか、それは読者が妥当なやり方で読み取る限り、どんな意味ももつことができるーただし、「妥当なやり方で」とはどういうことか、そこが大問題なのではあるが。じつは、これは「架空」であろうとなかろうと、ある程度まで、すべての書き物について言えることだ。書き物とはまさに、筆者本人がその場にいなくても十分にその役目を果たす言語なのだ。」

こういう解説を読むと詩を読むことに少し自身がわいてくる。

p.84
「文学の発するメッセージは曖昧(両儀的)だー「これを事実と思え、だが事実と思うな。」ある意味で詩、ことにポスト・ロマン主義の詩は、色あせて抽象過多の日常世界に比べて、より生き生きとした存在感を帯び、より感覚に訴えて具体的であり、より感情的に強烈だという点で、よりリアルだと見えるかもしれない。だが別の意味では、すでに見たように、それらはほかのたいていの形式の書き物に比べて、より経験的でない分、よりリアルさに欠けるのだ。」

とりあえず二章まで読みきれてよかった。恐らく全部は読まないだろうが、なるべく読み進めようと思う。
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なぜ男女の賃金に格差があるのか [学術書]


なぜ男女の賃金に格差があるのか

なぜ男女の賃金に格差があるのか

  • 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
  • 発売日: 2023/05/01
  • メディア: Kindle版



慶應から定期的に送られてくる雑誌に紹介されていて興味を持った本。
図書館で借りようとしたらかなりの予約待ちで3~4ヶ月してようやく届いた本。
こんな難しそうな本を何故市立図書館でこんなにみんな読むのだろうと思っていたら、2023年の10月に彼女はノーベル経済学賞を受賞していたらしく、そのせいだったんだ、と納得。

届いてみたら300ページ以上ある本で、返却期限の2週間で読み終えられるか、と思ったのだが、とりあえず通勤の行きに、洋書の代わりに読んでいたら1週間で読み終えられた。

ここ120年くらいのアメリカの女性たちの、仕事と家庭について論じた本で、この120年間を5つのグループに分けている。ちなみに、ここで出てくる「家庭」の定義は、「配偶者がいる」ではなく(基本的には)「子供がいる」というもの(だが「配偶者がいる」の場合もある)、キャリアの定義は「長く働けて、人気の高い職種、自分のアイデンティティを形作ることが多い」というものだ。仕事は「収入を生み出すだけのためにやるもの」。基本的には大卒の高学歴の女性たちを研究対象としている。

①生まれ1878年~  大学卒業(およそ)1900年~
②生まれ1898年~  大学卒業(およそ)1919年~
③生まれ1923年~  大学卒業(およそ)1945年~
④生まれ1943年~  大学卒業(およそ)1965年~
⑤生まれ1957年~  大学卒業(およそ)1979年~

①は「家庭 or キャリア」
②は「家庭 after 仕事」
③は「仕事 after 家庭」
④は「家庭 after キャリア」
⑤は「家庭 and キャリア」

初期は、封建的考え方もあり、「家庭を選ぶ」か「自分の好きな道を選ぶ」かの二者択一。
次の時期は、仕事を行いお金を設けた上で家庭に入るというもの。仕事をしたあとに結婚なので子供がいない人も多かった。
次の時期は、前の時期の反省を生かし、先に子供を作ってそれから仕事というもの。しかし大学での自分の研究分野と全く違う「仕事」についたものが多い。
次の時期は、前の時期の反省を生かし、避妊法の進歩なども手伝って、キャリアを積んでから子供を、と願ったが、この頃はまだ科学が進歩しておらず、35歳以上になると子供が出来づらく、いろいろな問題も置きやすいということが分かっていなかった。
最後の時期は、科学も進歩して、「家庭もキャリアも」を目指す人が増えた、ということ。

こうした大きな流れを説明した上で、題名の「なぜ男女の賃金に格差があるのか」の答えとしては、女性は出産・育児の際にキャリアを一度断念せざるを得ず、しかも子供が大きくなるまでは、働ける時間に制約があり、それが賃金の差となる、ということだった。

そして今後は、コロナによって生まれたリモートなどの新しい働き方が、この差を埋める一因となりうるのか、という問題提起で終わる。

正直私はキャリア志向もなく、お金をたくさん儲けたいなどという考えもないので、なるべく時間的に短い時間で仕事をしてきたし、そもそも一緒に生活するうえでどちらが働いていようが、家のことはお互いやるべきだと思っているので、妻が非常勤の時も、専業主婦の時も、専任になってからも、おそらく家事の50%~80%は私がやってきたし、育児も40%~70%はやってきた(ている)と思う。だから、ここに出てくる人々は、周りの人の状況を聞いていると正直何故男は家でダラダラしているのか、全く理解できない。

とはいえ、二人の子供を育ててきたから言えるが、やはり生後1~2年は、女性の方が子供にできることは多く、この長男が生まれた後二年間に関しては、妻が完全に働いていなかったこともあり、育児の割合は妻の方が多かった。上記の40%というのはこの2年間。それでも、他の家事(おむつ洗いなども含め)は私がやることが多かったきがする。そう言う意味で、この2年間も、育児と他の家事のバランスを男女でうまく取れれば、かなりうまく回るのではないか。

結局、この本にも少し触れているのかもしれないが、世の中全体として、資本主義的な考え方、お金をたくさん稼ぐことが良いことなのだ、という価値観から解放されない限り、「男女の賃金の格差」というものは埋まらないのでは、とこの本を読んで&自分の経験から思った。
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詩をどう読むか 第一章 批評の役目 [学術書]


詩をどう読むか

詩をどう読むか

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/07/13
  • メディア: 単行本



昔から「詩」というものが好きだった。子供の頃「朗読教室」のようなところに行っていたことがあり、そこで工藤直子さんの『のはらうた』の中から結構多くの詩を朗読していたし、学校で習う詩も結構好きで、小さい頃は自分で書いてみたりもしていた。

しかし成長するにつれ散文、普通の小説を読むようになり、「詩」というものをどんどん読まなくなっていった。しかしずっと憧れがあり、英詩も、イギリス文学や映画で引用されたり使われたりすると、是非読んでみたいと思い、名詩選のような本を買ったりするのだがやはりほとんど読まず終わってしまう。

10年前くらいに、イーグルトンの書いたこの『詩をどう読むか』を偶然近くの図書館の新刊コーナーで発見し、借りてみた。

全く歯が立たなかった。全く内容が入って来ず、すぐに諦めてしまった。

それからずっと英詩を読みたいと思いつつもここまで来て、ことし偶然この本を思い出しもう一度読んでみようと思った。

イーグルトンの本は何冊か読んでいたし、原書でも一冊読んでいたので読めるかと思っていたがやはり甘かった。かなり難しい。しかも長い。

とりあえず第一章だけ読みたので、心に残ったフレーズを何個か書いておきたい。

p.21
「偉大な文献学者フリードリヒ・ニーチェはものをきちんと読み取る能力の価値を説いてやまなかった。彼は「遅読」の教師を名乗り、これはスピードにとりつかれた時代の本性に刃向かうことだと考えていた。ニーチェにとって、精読は近代性に対する批判なのだ。言葉そのものの感触や形に注意を払うことは、言葉をただの道具として扱うのを拒むこと、ひいては、言語が商業と官僚主義のせいで、薄っぺらな紙のように磨り減った時代を拒むことだ。」

p.37
「「経験」そのものが世界から消滅しかかっているという警告は、ハイデッガーからベンヤミン、さらにはその後の世代に至るまで、たえず発せられてきた。仰天すべきことに、この惑星で危機に瀕しているのは、環境や、病気と政治的弾圧の犠牲者や、企業のパワーに抵抗する命知らずの人々だけではない。経験そのものが、存亡の機に直面しているのだそうだ。こうした絶滅の脅威は比較的最近のもので、チョーサーやサミュエル・ジョンソンには、ほぼ無縁だっただろう。この理論にしたがえば(すぐあとで見るように、これはまったく一面的な見方だが)、近代は人間から多くのものー神話、魔法、血縁関係、伝統、連帯などーを奪い去ったばかりか、今ではついに、人間から人間そのものを剥ぎ取るに至ったという」

pp.38~39
「経験はもう目の前に置いてあるーピザのように出来合いの経験、大岩のようにごろりと「客観的」な経験が。われわれは、それをただありがたく頂戴すればいいのだ。いわば、経験がふわりと空中に浮かんでいて、人間主体がやってきてそれを受け取るという格好だ。ナイアガラの滝やダブリン城、万里の長城が、自分で我々の経験を代行してくれる。どれも解説とセットになっているので、面倒や手数が大いにはぶけるというものだ。大切なのは、その場所ではなく、それを消費すること自体である。」

pp.39~40
「パックツアーに組み込まれたこれらの場所すべてに共通するのは、ただそれらが「体験」されるという事実だけなのだから、それらは商品と同様、たがいに平気で取り替えがきくことになる。かつて経験は、その豊かな独自性、一回性のすべてを挙げて商品形態に抵抗する方法だったのに、今では、たんなる新手の商品形態に成り下がってしまった。」

p.47
「詩の目的の一部は、そうした失われたものの回復に努めることにある。何でも瞬時に読み取れてしまう世界にあって、われわれは言葉自体の経験をなくしてしまっていた。そして、言葉の感覚をなくすということは、言葉よりずっと多くのものとの接点を失うことだ。われわれは言葉をおおむね実用的な目的で使っているために、言葉の新鮮味が失われ、その力が殺がれてしまった。~中略~詩は、言葉をただ消費するだけではなく、それと格闘することを求めるのであって、このことはとくに近代詩にあてはまる。近代詩の悪名高い難解さは、詩がするりと喉を通りやすいことに対する詩の側からの抵抗と、大いに関係がある。」

「英語は、ただのコミュニケーションの道具だから」「文法なんか気にせず、だいたい分かれば良い」「自分の必要とする情報だけを取り出せれば良い」などという言葉をよく英語教育で耳にするし、最近の「大学入試共通テスト」はまさにこの哲学のもと作られている。わかい英語教員も見事にこの思想を肉体化させている。

どこかの学校の校長が、修学旅行前の朝礼で「修学旅行に行って素晴らしい感動体験をしてきてください」と言っていた。非常に違和感があった。感動とは、個人がするものであり、「どこかに行く」という行為は、用意されているものを「感動」するためにするものではない。イーグルトンのこの部分を読み、その校長の話が蘇ってきてしまった。

これらを読んだだけでもイーグルトンは素晴らしいなあ、と思う。

今回は最後まで読みきれるのだろうか・・・。

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オリエンタリズム 下 [学術書]


オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)

  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1993/06/21
  • メディア: 文庫



『オリエンタリズム』を読み終わった。最近かなり疲れており、普通の本を読むのも億劫だったので、このような学術書が読めるのか、と初めは心配だったが文体的にかなり読みやすく、思っていたよりも速く読み終えられた。

p.17
「すべてのヨーロッパ人は、彼がオリエントについて言いうることに関して、必然的に人種差別主義者であり、帝国主義者であり、ほぼ全面的に自民族中心主義者であった、といってさしつかえない。」

p.75
「オリエントの人間は、何よりもまず東洋人であって、人間であることは二の次だった。」

p.279
「この地域(アラブ地域)には広汎な嗜好の画一化がおこっており、その象徴となっているのが、トランジスタやブルー・ジーンズ、コカ・コーラばかりでなく、合衆国のマス・メディアが提供し、大量のテレビ視聴者が考えもなしに消費する、オリエントに関する数々の文化的イメージである。~中略~西洋の市場経済とその消費志向のおかげで、市場の需要をみたすべく教育されたひとつの知識人階級が生み出されてきた(そして、現在なお加速度的に生まれつつある)ことを指摘できる。」

p329に、
「女性のみが女性の立場に立って、女性のためにものを書くことができ~」
という文章を読んだとき、上野千鶴子が「女性学」というものの説明をする時に同じようなことを言っていたなあ、と思い出した。

上に引用した文章の「オリエント(の人間)」を「女性」に変えて、ヨーロッパ(西洋)人などを「日本人の男たち」に変えて読むと、違和感なく読めてしまうことに気がつく。

オリエンタリズムにしても、女性に対するいろいろな見方にしても、結局そこに自分の方がえらく、相手を従属させる、人間としてみない、という視点があるのだろうなあと思うのだ。

あとがき等にもあるように、いろいろな点で不備な点や曲解がある作品なのかもしれないが、問題提起の書としては非常に優れた作品だと感じた。
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オリエンタリズム 上 [学術書]


オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)

  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1993/06/21
  • メディア: 文庫



ずっと読まねば、と思ってはいたが長そうだし難しそうだし疲れそうだしということで敬遠していた本。
高3の英語のテキストでこのテーマを扱った文章が出てきて、昨年扱ったので、今年は少し読んでおこうと思い購入。

一般的に言われている通りのことがひたすらつらつらと書かれている本だった。

p.226
「オリエンタリズムとは、西洋が東洋の上に投げかけた一種の投影図であり、東洋を支配しようとする西洋の意思表明である」

この言葉が全てな気がする。サイードは、西洋で書かれた本は、オリエントをそのまま描いたものはない、とこの本の中で繰り返し言うのだが、はじめはなるほど、と思いながら読んでいたが、すべての本は、その作者のフィルターを通して何かを描いた本であり、なにかをそのまま描くということ自体が無理なのではないか、と思い始めた。

せっかくここまで読んだので、とりあえず下巻まで読みきろうと思う。
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ナショナリズムの狭間から [学術書]


新版 ナショナリズムの狭間から: 「慰安婦」問題とフェミニズムの課題 (岩波現代文庫 学術 443)

新版 ナショナリズムの狭間から: 「慰安婦」問題とフェミニズムの課題 (岩波現代文庫 学術 443)

  • 作者: 山下 英愛
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2022/02/17
  • メディア: ペーパーバック



昨年の2月に岩波現代文庫から出版され、ずっと気になっていたのだが、硬い本を読むことから遠ざかっていて、こうした問題と向き合うのが億劫だったために買わずにいた。

昨年、何故だか覚えていないが、上野千鶴子の本を読みあさることになり、その流れでこの本を購入。上野千鶴子の本が一通り読み終わったのでこの本に取り掛かった。

作者は在日2世、というのだろうか。お父さんは朝鮮人、お母さんは日本人。
小学校は朝鮮学校、中学校からは日本の公立で過ごしたらしい。
韓国に留学し、「慰安婦」「挺身隊」問題に取り組み、活動を続けてきたひとのようだ。

自分の生い立ちから始まり、韓国留学中のフェミニズムや「慰安婦」問題の活動、日本に対する責任追及だけでなく、韓国における家父長制的伝統による、女性差別や蔑視の問題も取り上げており、「慰安婦」や「挺身隊」含め過去から現在における様々な女性をめぐる問題を、様々な観点から考え解決策を探ろうとしている本。

日本が韓国人慰安婦に問題解決として提示した「国民基金」の問題は、上野千鶴子も取り上げて詳しく論じており、上野千鶴子の日本側から見た問題点、山下英愛の韓国側から見た問題点、と二つの視点がわかって結構面白かった。

日本だけでなく、韓国の正差別的な、パワハラ・セクハラ状況も細かくわかり、結構勉強になる本だった。

p.191
「韓国であれ日本であれ、このように人を不当に差別し排除するあらゆるものに抗する立場(視点)に身を置き実践することが大切だと考えるようになったのである。私はその手がかりをフェミニズムから与えられたと思っている。」

p.194
「「慰安婦」問題が私たちに重要なのは、女性を兵士の性的慰み者にすることの問題性から発して、性的自己決定権を含めて、人権を尊重する社会を地球上にいかにつくってゆくのか、ということであろう。」

世界はかなり性差別を解消する方向へ向かっている。しかし日本は相変わらず、LGBT、夫婦別姓、税金の問題含め、いろいろな差別を解消しようとしない国家のままである。なんとか日本もより良い社会になり、皆が行きやすい社会へと変わっていって欲しいと切に祈る。
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生き延びるための思想 [学術書]


生き延びるための思想 新版 (岩波現代文庫)

生き延びるための思想 新版 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2012/10/17
  • メディア: 文庫



アメリカの9・11、日本の3・11を受けて、女性兵士の問題、対抗暴力の問題、原発の問題などをフェミニズムの視点から扱った、論文や講演集。

はじめに、に記された次の文章がこの本の全てだと言えるし、私が非常に共感する考え方でもある。

p.ⅵ
「戦争を含めてあらゆる暴力が犯罪だ、と言うことができなければ、DV(ドメスティック・バイオレンス。夫や恋人からの暴力)すら解決することができない。そしてもし、DVをなくすことに、わたしたちが少しでも希望を持つことができるなら、国家の非暴力化に希望を持ってはいけないだろうか。」

絶対的平和主義みたいなことを言うと、暴力に対してはどう対抗すれば良いのか、戦争を仕掛けられたらどうするのか、という質問を必ずしてくる人がいる。それは逃げるしかないし、そもそも誰もが暴力を振るわない世の中、世界にしていく努力を重ねることが人間的な行為なのではないかと思う。理想論なのかもしれないが、理想を設定することからしか、進歩していかないのでは、と思うのだ。


p.113
「だが、暴力で破壊できるようなモノや肉体は、実際のところ制度の代理人にすぎず、制度そのものではない。革命左翼の政治経済分析から標的とされるグローバルな帝国主義という「敵」は、たとえ世界貿易センタービルを倒壊させたとしても、びくともしないシステムそのものだ。」

根本的なシステムを変えない限り、社会は変わらない。これは暴力に限らず、日本に巣食う家父長制などもすべてそうだ。言葉を少し改めさせたりしたところで、根本的な考え方やシステムを変えない限り世の中は変わらない。


p.146
「家父長制の聖域を侵そうとする動きは、かならず手痛い反撃にあう。とりわけ日本のように社会の変化の遅いところでは、新しい主張がじゅうぶんに理解され根づく前に、その足をすくうような反動的な言説がばっこする傾向がある。」


p.154  中井久夫さんという人の言葉。
「戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚感をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。戦争が要求する苦痛、欠乏、不平等すら倫理性を帯びる。
 これに対して、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むき出し、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和な時代は戦争に比べて大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。」

恐ろしい程に的を射た言葉だ。結局多くの人が刺激を求め、自分と違う人間を排除しようとする。こう考えると、現在のなんでもアリ、人を傷つけて何とも思わない人間がはびこる刺激を求め続ける人が集い、刺激を与え続けるネット空間などは戦争状態だとも言える。

p.156, 157
「平和とは日常茶飯事が続くことである。」
「過ぎ去って初めて珠玉のごときものとなる」(のが、平和だ、)

私がもっとも大切にしているものこそ、日常だ。


p.168
「「シンボルとしてのヒロシマ」とは、もちろん「敗戦のシンボルとしてのヒロシマ」のことである。「シンボルとしての」という言い方には不快感を持つ人もいるかもしれない。たとえば「配線のシンボルとしてドイツには何があったか」と比べてみると日本とドイツの違いが鮮明に浮かび上がる。敗戦ドイツのシンボルはアウシュヴィッツであった。したがって戦後ドイツは加害者性から出発するほかなかったが、他方戦後日本の出発点は「受難のシンボルとしてのヒロシマ」だったから、日本では「加害者性」の代わりに「犠牲者性」が構築された。
 背後にあったのは一億総懺悔の無責任体制である。」

これも私がずっと言い続けてきたことだが、どうしても日本の平和・戦争教育は、感情的な悲惨さを強調することに終始し、冷静に論理的に平和を構築することからかけ離れたものだが、その原因はこの辺にあるのではないだろうか。


p.196
「わたしの答えはハッキリしている。暴力に「よい暴力」も「悪い暴力」もない。暴力は暴力、認めることはできない、これしか答えはない。」

わたしもこの本を読んでこの考え方は強く持った。(それでもゲバラは好きだが・・・)


p.314 
米谷ふみ子さんの言葉「政府と企業とメディアがつるむと、その国は滅びる」
「そのとおり、この国は滅びへと向かっています。
 「原発安全神話」は最初から疑われていました。「神話」というのはもともと根拠のない信念集合のことをさします。原発は危険だと、誰もがうすうす知っていた。でなければ、なぜあんな辺鄙な土地に原発を立地するでしょうか。それだけでも安全神話を疑うには十分な理由でした。」

p.320
「原発の「絶対安全神話」は、「信州不滅神話」と似ています。「新風神話」とも呼ばれました。両方共思考停止と愚かさが招いた破局です。」

原発再稼働に動いている今、是非多くの人に読んで欲しい文章だ。


最後にとても勉強になった言葉。

p.347
「「先生、問題って何ですか?」という問いに対して、わたしはそのとき、こう答えました。「問題って、あなたをつかんで放さないもののことよ」と。」

そういえば、私のゼミの先生も同じようなことを言っていた気がする。
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不惑のフェミニズム [学術書]


不惑のフェミニズム (岩波現代文庫)

不惑のフェミニズム (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/05/18
  • メディア: 文庫



1980年代から2000年代までの30年間に亘る、上野千鶴子が各所で発言してきた発言を一冊にまとめたもの。新聞や雑誌等に掲載されたものが多く、一つ一つが短いので非常に読みやすい。しかもある程度大まかな年代順に並んでいるので、フェミニズムが社会でどのように受け入れられどのように批判され弾圧されてきたかがわかってかなり興味深かった。

私は1978年生まれで、この本に掲載されている一番早いものが1983年ということで自分の成長とともに、フェミニズムを振り返るような感覚で非常に楽しめた。

特に安倍が政権をとって超保守主義、超国家主義のまるで戦前・戦中のような様相を呈するようになる2000年代の発言を集めた、「3 バックラッシュに抗して 2000年代」が非常に読み応えがあり、2022年の現在もこの流れは続いていることを再認識させられた。

p.9
「わたしは啓蒙がキライだ。他人から啓蒙されるほどアホではないし、他人さまを啓蒙するほど傲慢でもない。フェミニズムの運動は、自己解放から出発したはずなのに、いつのまにか「すすんだワタシ」が「おくれたアナタ」を啓蒙するという抑圧に転化してしまった。」

前半は私も同じ気持ちだ。教師という仕事をしていてもこれは思う。後半も、よくある現象だ。キリスト教しかり、マルクス主義しかり、「~教」や「~イズム」と名前がつき、組織が確立されればされるほど、組織は硬直化し、抑圧的になる。


p.17~18
ここで、おんなの運動が実績を作り上げて要因をいくつか、上野千鶴子は挙げている。
①ピラミッド型からローリング・ストーン型へ
②直接・参加民主主義
③スモール・イズ・ビューティフル
④「いま・ここ」での解放
⑤同質性より異質性
⑥自発性と創意工夫
⑦情報の集中を避ける
⑧役割分担の流動化
⑨ハレの場をつくる
⑩仲よしクラブより苦楽を共にした仲間
これは全て素晴らしく、組織の硬直化を防ぎ、つねに組織を行動に駆り立て、前へ進ませるものだ。わたしも自分が属する組織ではなるべく上記のことを心がけているつもりだ。


pp. 46~47
「妙なもので、上司と部下、教師と生徒の間では、いつでも下位に置かれた方が上位にいる人間の状況や欠陥をよく見抜く。上に立ったとたん、まるで逆光で世の中を見るみたいに、周囲も自分のこともよく見えなくなるものらしい。いつも底辺にいる女は、スポットライトを浴びた権力者たちのみっともなさやこっけいさをよく知っているから、自分が同じ立場に立つかもしれないことに敏感だ。しかしこれは、よほど注意深くしていないと持続できる態度ではない。男たちの価値観は、まるで重力のようにそこら中に充満しているから、ちょっと気をゆるめるとすぐに巻きこまれてしまう。」

自分もこれから先、常にこのことは気をつけて生きていきたいと思う。


pp.128~129
「フェミニズムは、社会的弱者の運動である。女にとっくに「実力」があるなら、こんな運動をするまでもない。わたしは客観的にはエリート女だが(なにしろ大学助教授だからね)、自分が恵まれた特権的少数者の中にいることぐらい自覚している。自分がやれたから、あんたにもやれるはずだと言うのを、ほかならぬスーパーウーマン・シンドロームと言うのだ。エリート女とエリート主義者とはちがう。自分の立場とは違う人々に想像力を欠いた時にだけ、エリート女はエリート主義者になる。」

私の周りにいるエリート主義者も同じ考えを持ち、人の心を平気で踏みにじる。そして踏みにじったことに気がつかず、強者の論理をふりかざす。


pp.167~168
「女性に対する暴力と環境に対する暴力とはふかくつながっている、という事実であった。戦争と強姦という肉体に対する直接的な暴力、自然破壊という「体外環境」「体内環境」双方の汚染をつうじての生命への暴力、そして女性の「生存経済」からのひきはなしと労働市場からの排除という構造的な暴力・・・・・・。
 それらは「進歩と開発」の名において現在も進行中である。シンポジウムの最後に、「持続可能な発展」と「持続可能な社会」とのちがいについて、緊迫した議論のやりとりがあった。社会の「持続可能性」と「発展」とはあいいれない、「持続可能な発展」とは論理矛盾にほかならない、という指摘に、誰もが直面している問題の大きさに目のくらむ思いをした。」

あまり意識してこなかったがこれは非常にするどい指摘だと思う。日本が環境に意識した社会にならない理由は、日本のマッチョイズム、家父長制的体制のせいなのだと気づかされた。


p.205
「セクハラの定義の被害者基準(ある行為がセクハラであるかどうかは、被害当事者が判断するという基準)から言えば、加害と被害の深刻に置けるこのジェンダーギャップこそ、解き明かされなければならない問題といえよう。」

p.212
「ちなみに東京大学のある部局では、総長からの要請を受けてさっそく苦情相談窓口を設置したが、それは各研究室の長がそのまま相談窓口の担当者になる、というものであった。対応がおざなりだと言うだけでなく、これほどセクハラについての認識不足をあらわしているものもない。かれら組織の長こそがもっともセクハラ加害者になる蓋然性が高い人々であるというだけでなく、直接の利害関係のある上司に、セクハラ被害者が相談を持ち込むとはほぼ考えられないからである。」

p.215
「調査委員会は双方の当事者からの事情聴取にもとづいて、加害者・被害者双方の言い分のうち、一致したものだけを事実と認定するというおどろくべき報告をおこなった。したがって被害者が申告するような事実はない、としたうえで加害者と木される教官には処分なし、さらに教授会を会議という非公式の場に変えたうえで当該の教官に始末書を書かせるという「穏便な」処置をとった。

p.216
「第三は、調査結果の事実認定の問題である。加害・被害両当事者の言い分のうち、両者の一致した部分だけを事実と認定するという態度は、一見中立的に見えてそうではない。セクハラのような権力関係を背景にした被害については、「中立的」であることはただちに「強者の立場に立つ」ことを意味する。」

わたしの属する組織がまさに上記のようなパワハラ対策を行っている。私は何度も上記のようなことを提案しているのだが、全く聞く耳を持たない。何が問題かを理解できないのであろう。


p.337
「闘って獲得したものではなく、与えられた権利はたやすく奪われる。闘って獲得した権利ですら、闘って守りつづけなければ、足元を掘り起こされる。」

これも今の組織にいて、日本という社会にいて日々感じることだ。


p.411
「フェミニズムは論争をおそれない思想だった。それだけ多様で多彩だったからだと思う。フェミニズムが多様な解釈を許容し、一枚岩でなかったことは、フェミニズムの思想としての活力と成長の条件だった。だからこそフェミニズムには今日に至るまで、固定的な教理もなければ、正統・異端もなければ、除名も排除もない。」

これも素晴らしいと思う。

p.380
「女のひとは(女に限らず日本にひとは)早々と、安直にラクになりすぎるような気がする。身の丈の幸せと、お手軽に和解しすぎるような気がする。安直に手に入れたものは、それだけのものでしかないことに、あとになってわたしたちは気がつくだろう。」

これも良い言葉であり、多くの人に読んでもらいたい言葉だ。

とても読みやすく、今の自分を省みるのに良い本だった。
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差異の政治学 [学術書]


差異の政治学 新版 (岩波現代文庫)

差異の政治学 新版 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/11/28
  • メディア: 文庫



『岩波講座現代社会学』や『日本のフェミニズム』など、全集本のようなもののまえがきとして書かれてようなものが多く収められており、その学問の大枠を説明していたり、歴史的な発展のようなものを説明していたり、言葉の細かい定義づけをしていたり、結構読みづらい作品集で、自分でも書いていたが、彼女の著作の中ではあまり読まれていない本らしい。

しかし読んでいるうちに、面白い視点がやはりいくつも提示され、今まで彼女が何度も問題意識として取り上げていた「家父長制」「ナショナリズム」「ジェンダー」の話がされ、「男性学」や「ゲイとフェミニズム」の話などはかなり興味深く読めた。

p.34
「ジェンダーに限らず、差違化は必ず「われわれ」と「かれら」、「内部」と「外部」に非対称な切断線を引くことで、カテゴリー相互の間にも、またカテゴリーの内部にも権力関係を持ち込む。したがって、政治的でないような差違化は存在しない。「差別のない区別」のような一見中立的な概念も存在しない。」

これは激しく同意する。「これは差別ではない、区別だ」とよく強者や権力者は言うが、私には昔から意味がわからなかった。「差別」的なものを含まない「区別」などこの世に存在するのかと。だからこの一節を読んだとき、思わず感動してしまった。


p.238
「田中美津は七〇年に書かれた「女性解放への個人的視点」と題する文章の中でこう書いている。
  弱肉強食のこの世は、生産性の論理をもって成立している。車優先の歩道橋ー
  老人、子ども、病人「障害者」無視のそれを思い浮かべればよい。企業にとって
  役に立つか立たないかをもって、ヒトの生命の尊厳を卑しめていくその論理は、
  あたしの生活を、意識を日常的に蝕んでいく。今回の優生保護法改悪案(中絶禁止法)
  のその改悪の方向は、むろん生産性の論理、その価値観をより強く女の意識に
  植え付けようとするものだ。」

これも深く同意した。生産性の論理で動くことの多いこの日本社会。コロナ禍になりその傾向はさらに強まっている。


p.271
「山崎は「フェミニズム以後」の同世代の女たちの過渡期の中途半端さにふりまわされる自分たちの世代の男のとまどいと憤懣を、率直かつユーモラスに描く。「権利を主張するフェミニスト」と「女らしさから利益を貪ろうとする打算的な女」が「ひとりの女の中に同居している」というかれの指摘には、苦笑してうなずく女性も多いだろう。」

これも激しく同意するとともに思わず笑ってしまった。私のもっとも苦手な女性は「女らしさから利益を貪ろうとする打算的な女」だ。


p.303
「多くの異性愛者は、異性愛を選択したわけではない。それは社会化による刷りこみや、文化的な条件づけや、社会規範の内面化によって、「気がついたら異性愛者だった」と後になって自覚されるようなものである。」

これは新しい発見であり、確かになあ、と思う反面、じゃあ性欲と愛情は違うのか?などなど結構解ききれない問題が自分の頭の中でどんどん出てきてしまった。

p.319
「異性愛者は、相手の性別が異性だと認知されたときに、性的欲望の掛け金がはずれるよう、プログラムされている。愛するか愛さないかは、相手の性別を確認してから決まる、というわけだ。もちろん異性なら誰でも愛するわけではないが、相手が異性だというだけで、発情装置の水位はあがる。
 それを不自由と、強制と、呼んでもいい。異性愛のコードのために、人類の半分を性愛の対象から失うのは、大きな損失だ、と言ってみてもいい。」

これもかなり考えさせられた箇所だった。自分のことを省みると確かに異性だと認知されて性的欲望の掛け金がはずれている気がする。同性に性的欲望を感じないのもやはり文化的にプログラムされたものなのだろうか?


p.337
「わたしが嫌悪した二つのもの、ミソジニー(女性嫌悪)とホモソーシャリティ――異質排除のマッチョ志向、すなわちファシズムに至る病――この二つが、「敵は誰か」というとわたしの敵であり、フェミニズムの敵であった。」

特にホモソーシャリティの説明、異質排除のマッチョ志向、ファシズムに至る病の部分は同感だ。日本社会はどこでもこの二つが溢れている。しかもそれを自覚せず、肯定的に捉える「おじさん」が多いのも本当に嫌だ。

初めは結構厳しかったが、読み進めるとやはり色々刺激的な本だった。
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教育のリーダーシップとハンナ・アーレント [学術書]


教育のリーダーシップとハンナ・アーレント

教育のリーダーシップとハンナ・アーレント

  • 出版社/メーカー: 春風社
  • 発売日: 2021/01/08
  • メディア: 単行本




古本屋で見つけて、かなり悩んだ末購入した本。

ハンナ・アーレントには昔から興味があり、様々な本を読んできた。そして彼女の説を教育と絡めて考えられないか、ということは10年以上前から自分も思っていたことで、色々と考えるきっかけになればと思い購入。

「リーダーシップ」という言葉はプラスのイメージで語られることが多いが、ここではかなり否定的に捉えられている。ELMA(Educational Leadership, Management and administration)という、すごく簡単に言ってしまえば、教育行政において、指揮系統をピラミッド型にし、中間管理職のようなものを多くつくり、教育界に市場原理・資本主義原理を導入し、教師・子供たちを競争させ、目に見える教育の成果を上げていこうというものっぽい。

この言葉を私はこの本で初めて知った。この本はイギリスに関する本みたいだが、状況はもろに日本にも当てはまる。何故この本の日本語訳が出されたのかも理解できる。

p.47
「思うに、世紀の初めから私たちが生きてきた一連の危機が何かを教えてくれたとすれば、判断を間違いなく行う一般的基準などないという単純な事実である。何かしらの確からしさをもって特定の事例を包含していく一般的法則などないのである。」

これはベトナム戦争の真っ只中の1966年にアーレントが述べた言葉らしい。教育にまさに当てはまる言葉であり、恐らく半分以上の教員はこの非常に単純な事実が分かっておらず、これをやれば子どもは伸びるはずだし、結果を出すはずだと信じて疑わず行動している。

p.53
「テクストというのはそれ自体で価値はない。それを苦労して獲得し、読み、それを用いながら思考し、その結果として行動するという人間の政治的実践によって重要なものとなる。ある観念、ある本、ある講義というのは、それを重要と認識し、時間と注意を必要とみなす他者の賞賛によって、地位と特異性を得る。興味深いのは、アーレントがマルクス主義のような「主義」に至ることはなかったということである。」

イエス・キリスト、孔子、釈迦は皆、自分で書物を書き残さなかった。アーレントは書き残したとは言え、後にもあるが、自分の思考を文章化しただけであって、絶対的なものを示そうとはしなかった。まさにそこに、アーレントが教育の文脈で読まれる意味があるのだと思う。つまり、ゴールのない、思考し続けることの大切さ、行動し続けることの大切さをアーレントが教えてくれる。


p.84
「歴史的・政治的に思考する者は、証拠をただ集めるというよりも理解を追い求めようとする。
  理解とは、正しい情報や科学的知識を手に入れることとは異なり、はっきりとした結果を決して
  もたらさない複雑な過程である。それは終わりのない活動である。その活動によって、私たちは、
  絶えず続く変化と変動の中で、現実と自分自身との間の折り合いを付け、両者を和解させる。」
先に述べたことと同じだ。終わりのない活動を教育は行い続けているのだが、それが分からず教育に携わる人間がなんと多いことか。


p.89
「リーダーとしての研修と承認を受け、リードしたり、リーダーシップを発揮したりする人々や、「労働人員」一般から切り分けられたチームとして働く人たちを採用することが、教授と学習を改善するという嘘である。」
民間人校長というのがもてはやされて何年も経つが、やはり教育は教育のプロが行うべきであり、管理職であろうが、やはり教育的視点を持った人間が教員の中に入って行うべきなのだろうと思うのだ。


p.100
「思うに、問題解決の専門家は、ELMAが教授と学習を改善するもっとも重要な手段であるという考え方を追求しながら、子どもたちとその学習に対して貢献すると見せかけ、少数の選ばれた大人に目を向けて問題の対処にあたっていた。TLP(国境を超えたリーダーシップのパッケージ)を受け入れることによって確実となったのは、教授と学習が商品になったということである。」
最近の教育改革が全く子供の方をみず、産業界の意向ばかり気にしているのと全く同じ状況だ。教育も学習も子供もすべてが商品なのだ。


p.103
「市場の持つ魔力に学校を委ねるならば、アメリカの学校は改善することはないだろう。」
まったくその通りだ。教育とは市場原理に左右されないからこそ価値があるのだ。そのことをあまりにも現代社会は忘れてしまっているのではないか。


p.108
「私は、アーレントの歴史的・政治的な思考を「一つの原因にのみ基づく説明」を拒絶する手段として使用する。それによって「全体主義の支配とかつてないほどの罪へと向かう道筋についての理解を生み出す。」ことにもなるだろう。」
先にも書いたが、教育とは、「何かを行えば必ず予想した結果が出るものではない。」そんな単純なものであれば、人間の教師などいらない。


p.132
「私の課題は、全体主義がなぜある特定の時代にドイツやソビエト連邦で起こったのかを理解することだけではない。そうした状況がつねに存続しているということを認めることもまたー結晶化されていることが分かるときには、もう手遅れであるかもしれないがー私の課題なのである。」
それは私の課題でもある。そして自分の属する社会が全体主義的にならないよう、不断の努力を続けることも私のやるべきことである。


p.134
「教師と子どもたちは、みずからの言葉によって教育について語ることが許されていない。彼らは「改善」、「効果」、「付加価値データ」を前にして発言できないである。要するに、NPM(および新たに出現しつつあるニュー・パブリック・リーダーシップ)の再編と再培養によって、英国国家の中で潜在的な形で強行されている全体主義的な状況の結晶化が、イングランドの学校を方向づけ、全体主義の傾向を生み出しつつある。」
そして日本でも生み出しつつある。


p.141
「イングランドで公式に是認されているELMAへの取り組みは、諸々の人間関係を破壊するものである。その結果、職務や専門的経験に対して共有された道筋をたどることで人々を結びつけてきた非公式の紐帯が根絶やしにされている。ビジネスとしての学校では、あらゆる面で業績を配送し、それを身をもって示すということに全ての人が巻き込まれている。そのことが意味するのは、諸々の関係性が、信頼できる協力というよりもむしろ「協働」として知られるような取り引きや計算された交換関係に基づいているということである。」
私が教師を始めた20年ほど前は、教師たちが様々なつながりのもと、議論し協力して教育を作り上げていた。しかし今は決められたことをひたすらこなす機械のような存在になってしまっている気がする。


p.158
「だが実のところ、学校は学習者としての子どもたちよりも、市場化と利益追求型の発展の方を優先させる人々のなす決定に対して専門的な正統性を与えている。どちらの学校も学校改善に取り組んでいると思い込み、みずからの実行していることが子どもたちのためになると言い張るかもしれない。けれども実際は、教育の機会をテストと説明責任の体制に置き換えている。」
これもまさに日本の今の状況だ。東京都の高校入試に使用されるスピーキングテストなどもこれの代表だ。ベネッセにただ金を回すためだけに行っているに過ぎない。


p.161
「結局、ELMAが拠って立つのは、外的に是認された方法で物事を成し遂げているかどうかで賞賛のゆくえが決まってしまうということである。そこでは、外部から認知され是認されるということが、とめどなく続く決して満たされることのない生き残りの過程をつかさどっている。」
p.166
「子どもたちが世界を理解できるようになるための責任を大人たちは引き受けていない。それどころか、教育を経済上の生産性に関するものと捉えるような、狭く技術的な取り組みを大人たちは子どもたちに対して行っている。」
日本の数多ある私立の学校も同じ状況だ。


p.181
「英国の歴代政府は、イングランドのきわめて重要な政策戦略として、失敗に焦点を定めてきた。たとえば、学校の失敗、校長の失敗、教師の失敗、そして子どもの失敗である。様々な解決策が〈労働〉という形態をとり、そこでは教授と学習が、外部で設計された教室実践パッケージの配送や評価へと切り詰められている。そうした状況のなかで学校の労働人員を再構築することが意味しているのは、もはや正資格を有した教師たちがそうした配送を実行する必要はないということである。目標、テスト、情報入力、分析によってデータの豊富な学校を作り出すことは、成績不振を「あぶり出す」ような、業績管理体制を制作することによって、専門的実践が〈仕事〉となりうることを意味していうる。」

これも日本と全く同じ状況だ。次々と欠点を見つけ、その解決に乗り出し、さらに悪い状況を作り出す日本の教育政策。もはや「教育」と呼べるようなものではないのかもしれない。


p.198
「思考とは「まさに生きているという感覚である」がゆえに、人びとは引きこもることを必要とする。思考は〈活動〉との関係が中心となる。つまり、「思考とはつねに秩序から外れたものであり、あらゆる日常的活動を中断させもすれば、その日常的活動によって中断されもする。」
これは素晴らしい言葉だと思う。何でもかんでも実践的なものを求めるが、実践から離れた、秩序から離れた空間に、学校を置いておくことによって、生徒の思考は深まるのではないだろうか。


p.207
「リーダーシップは、公的データとしての全国基準を保護したり強化したりする手段となっており、それゆえに出世第一主義 とこれから排出されてくる次世代校長層の拡大が、明確な政策的戦略となっている。分散型リーダーシップが依拠しているのは、行為者がみずからの意見を述べることができるという印象操作である。しかし実際の権限は、専門的実践について意思決定する正統的な地位をその行為者に保証した者に追従することによって付与される。」
権力者におもねったものだけが出世していく日本のシステムと全く同じだ。これによって組織はどんどんと悪くなっていくのだ。

p.211
「NPM(ニュー・パブリック・マナイジメント)は、一般的には次のようなものによって特徴づけられる。すなわち、市場と競争へのはっきりとした選好があること、民間部門の経営様式を公共部門でもあからさまに推進すること、そして業績に関する明確な尺度と基準を利用することである。」
教育とは本来、ここに書かれているものと正反対のものであるはずだ。ここにかかれていることを推進してきたからこそ、現代の教育の問題が生まれてきてしまっているのではないだろうか。


p.289
「一九八八年教育改革法とは、サッチャー政権の教育改革の基本枠組みを示すために制定されたものである。一九七九年から一九九〇年まで続くサッチャー保守党政権時代には、経済停滞の原因の一つが学力低下による競争力の低下にあるとして、教育と社会、経済の関係が強く意識された。政府、地方教育当局、学校の非効率的な関係が学力低下を生んだとして、中央政府の権限が強化され、また、教育界への市場原理の導入により、学校感の競争を促進し、ここの学校の業績を高めることで教育水準向上を図り、それが英国経済の発展に寄与するという図式が鮮明に描かれる。」
日本はこの道を辿り、教育の混乱を招く。

かなり刺激的な本だった。
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ナショナリズムとジェンダー [学術書]


ナショナリズムとジェンダー 新版 (岩波現代文庫)

ナショナリズムとジェンダー 新版 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2012/10/17
  • メディア: 文庫



再読

偉そうだが、私が上野千鶴子という人を高く評価することになった作品。
慰安婦問題を中心に、女性の戦争責任など、様々な問題を扱った作品で、とても考えさせられ、自分の行動や言動を省みることを強いる作品。

p.84
「「女性」こそは近代=市民社会=国民国家がつくりだした当の「創作」である、と。「女性の国民化」ー国民国家に「女性」として「参加」することは、それが分離型であれ統合型であれ、「女性≠市民」という背理を背負ったまま、国民国家と命運をともにすることにほかならない。」

女性の軍隊参加を扱った部分だが、女性が、男性兵士と同じように兵士として働くのか(統合型)、後方支援のような形で働くのか(分離型)どちらにせよ、「二流市民」として働きながらも戦争に巻き込まれていることに変わりはないし、戦争に積極的に参加していることにほかならない。上野千鶴子氏も書いていたが、「戦争」というものすべてを否定することからしか、新しい社会は生まれえないのではないか。


p.140
「「慰安婦」との「交情」をなつかしげに語る元日本へにとっての「現実」と、「慰安婦」経験を恐怖と抑圧として語る被害者の女性にとっての「現実」とのあいだには、埋めがたい落差がある。関係の当事者の一方が、他方とこれほど落差のある「経験」を持っているとき、両者が「ひとつの経験」を共有していると言えるのだろうか。だが、そう考えれば、「真実」をめぐる闘いは、永遠に決着のつかない「神々の闘争」にしかならないのだろうか。」

これは現代のセクハラ・パワハラ問題と根は同じだ。結局裁かれるべき側が権力を持っており、判決をコントロールできる側にあるのだから、やられた方が不利なのは目に見えている。こうした構造を改善しようとしない日本社会の後進性は明らかだ。


p.161
「被害者が「わたしは性行為を強制された」「わたしは強姦を受けた」という被害の「現実」を証言する際に、物証をともなう立証責任が問われる。実証主義の考えかたでは、当事者の手記、日記、回想録、口述史等は、そのあいまいさや主観性、思い違いなどによって、文書資料を補完する二次的な資料価値しか認められていない。だがここで言う「文書資料」とは権威によって正当化された史料、支配権力の側の史料の別名である。支配権力の側が自己の犯罪を隠蔽したり正当化したりする動機付けを持っているところでは、この史料の「信憑性」もまた問われるべきであろう。」

上記にも書いたが全くその通りだ。私は何件かパワハラ事件に関わったが、結局権力者側の言い分だけを事情聴取し、「パワハラは認められない」ということになる。これは本当におかしいと思うのだ。


pp.199~200
「国民という集団的アイデンティティの排他性を超えるために呼び出されるのが、他方で「世界市民」や「個人」あるいは「人間」として、という抽象的・普遍的な原理である。あらゆる国籍を超えたコスモポリタン、普遍的な世界市民という概念もまた、危険な誘惑に満ちている。それはあらゆる帰属から自由な「個人」の幻想を抱かせ、あたかも歴史の負荷が存在しないかのように人をふるまわせる。「国民」でもなく、あるいは「個人」でもなく。「わたし」を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、人種、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。「わたし」はそのどれからも逃れられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特権化や本質化である。そうした「固有のわたし」ー決して普遍性の還元された「個人」ではないーにとって、どうしても受け入れることのできないのは「代表=代弁」の論理である。」

これを読んだときは感動的だった。わたしもぼんやり考えていたことが素晴らしいまでに言葉にされていると思った。


p.227
「クリスチャンは「神の国」の住人になることを約束されている。それが彼らの殉教を支える。どこの国でも、抑圧的な国家体制にもっともよく抵抗しえたのは「国家内国家」をつくりだしたキリスト教徒と教会であったことを、わたしは過去の歴史から知っていた。その点では、護国宗教と化した仏教は、あまり誇れる過去を持たない。」

p.244
「歴史のなかで、過去は選択的記憶になり、つごうの悪いことは忘却されがちだが、被害者はそれを忘れていない。和解は、被害者の嘆きと怒りを受け止め、それに向き合ったところからしか生まれない。」

本当にそう思う。

再読だったが、やはり素晴らしい本だった。是非多くの権力者に自分ごととして考えながら読んでもらいたい本だ。
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発情装置 [学術書]


発情装置 新版 (岩波現代文庫)

発情装置 新版 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/11/28
  • メディア: 文庫



「性的に興奮する」という状態はどうやったら起こるのか、この世にアダルト作品のようなものが存在しなかったら、友人に色々と話を聞くことがなかったら、相手と肉体関係を持ちたいというような気持ちは生まれてくるのか、高校生だか大学生くらいからずっと考えてきた。

ただ、アダルト作品のようなものがなかった時代から人間は性行為を行ってきたし、本能的なものなのだからある程度は、自然と沸き起こってきて、自然と完結するものなのだろうと、何となく思ってきた。

しかしこうした私の疑問を、この本は解決してくれた。
あらすじにあるように、
「ヒトはなぜ欲情するのか? 本能や自然ではなく、そうさせる「文化装置」ゆえ」
私のうっすら感じた通りのことが、かなりわかりやすく・丁寧に説明されていた。

そして援助交際や売春なども、自分が感じてきた何となくある違和感を結構すっきり解決してくれた。大学生時代にこの本を読んでいたら、大学生時代に、もう少し人生変わっていたかもと思う本だった。

p.85
「この世の中は男の性欲にはおそろしく寛大で、男の性欲に寛大な女が受け入れられるのだ。」

かつて普通に見られた電車の中の、週刊誌のつり革広告や様々な性的事件に対する判決、政治家や有名人の女性蔑視的な発言に対する言動を見ていると本当にそうだなあ、と思う。


pp. 166~167
「しかし、いつまでもこのふしぜんあ「禁止」がつづくわけはないだろう。ふつうの少年と少女が、ふつうにセックスをする時代がすぐそこまできているのだ。彼らを「身体の成熟と心の発達のアンバランス」の状態においておくことで大人の被害者にするよりも、現実を認めて、彼らにまともなセックスや避妊の知識を教えてやること、そして、シングル・マザーに対する社会的差別をなくすこと、セックスをふくめた子どもの人権を認めること、などが求められているのである。」

至極真っ当で、私が日頃モヤっと思っていることをはっきりとこどばにしてもらった感じがする。


p.173
「恋愛病は近代人の病だ。娘も妻も「恋愛したい」と渇くように思い始めた時、彼らはやっと「個人」になったのだ。男も「愛されたい」とグラグラした思いを持ち始めた時、やっと男という役割を脱ぎ捨ててタダの「個人」になったのだ。ここから「愛されても、愛されなくても、私は私」への距離は、どのくらい遠いだろうか。そして自立した「個人」を求めたフェミニズムは、女を「恋愛」の方へ解き放つのだろうか。それとも「恋愛」から解き放つのだろうか?」

完全に、「恋愛」の方へ解き放ち、日本の「家父長制」に取り込まれてしまっている感がある・・・。
「愛されても、愛されなくても、私は私」というところへ行くのは、雑誌や様々なメディアを概観する限り、限りなく先の話のような気がする。


p.195
「これは、ルネ・ジラールの言う「欲望の三角系」に似ている。市民社会では「第三者の欲望」が対象のねうちを認めてくれるのでなければ、対象に価値が発生しないのだ。「どこがいいの?」「みんながいいと言うから」とおいうメカニズムである。こうして、美貌の価値は、ますます一般性の高いものーつまり集団が一致して認めるものになる。だから、定義上、美には個性なんて存在しないのである。」

「いいね」「インスタ映え」などSNS時代となりますますこの傾向は進んでいる気がする。

長年違和感があったものを、かなりスッキリ整理してくれる本であった。

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近代家族の成立と終焉 新版 [学術書]


近代家族の成立と終焉 新版 (岩波現代文庫)

近代家族の成立と終焉 新版 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 文庫



前著『家父長制と資本制』の延長線にある問題意識のもとまとめられた、論文集のようなもの。
元々は1994年に出版されたものらしいが、その後の論文や講演なども収録されており、かなり分厚く、興味深い作品だった。

特に江藤淳を扱った、第Ⅳ章で、男流文学を論じたところで、

p.336
「男性批評家たちが高く評価してきた日本近代文学のカノンを女の目で読み直すと、評価がひっくり返ってしまうよ、と緻密な読みを経て提唱したのが『男流文学論』です。日本近代文学史の系譜を紐解くと、村上春樹に至るまで、男性作家によるミソジニー小説が累々と書かれ続けていることがよくわかります。」

私は村上春樹の小説があまり好きではないのだが、これを読んで何となく納得した。


p.91
「婚姻の安定性が離婚の自由のない抑圧によって維持されるよりも、離婚したいときに離婚する自由を行使できる社会の方が、女性にとってはまだましにちがいない。また、婚外の妊娠を中絶で闇に葬るというという選択を強いられる社会よりは、産みたければ婚外でも産める社会の方が、やはり女性にはのぞましいだろう。とはいえ、離婚の自由や婚外子出産の自由を行使した女性が、結果として貧困に陥るのは避けられない。それは家父長制の外で子どもを産んだ女性に対する、ペナルティとして作用している。」

これはかなり納得し、自分の考えがあまかったと認識させられた箇所だった。結局自分は結婚という制度の明の部分しかみていなかったんだなあと思った。日本の様々な文化構造を根本から考え、結婚というものをどういう形にしていくのかを考える必要があるよな、と藤岡陽子さんの小説なども思い出しながら考えた。


p.97
「養育費の支払い義務も、公的援助も、シングルマザーが再婚すればうち切られる。この規則の前提となっているのは、女は所属する男によって養われるべきだという通念であり、したがって所属する男が変われば、もとの男は扶養義務を免じられるのである。シングルマザーの詮索は、別れた妻がもとの夫に貞節を尽くす限りにおいて、その子の養育に責任を持つ、というあざといまでの家父長制イデオロギーのあらわれである。」

これもその通りだと思う。別れようが、相手が再婚しようが、本当は自分の子どもはずっと自分のこどもであり、扶養義務があるはずだ。こうしたこともあまり意識したことがなかった。


p.159
「伝統には地域や階層において多様性があり、歴史はその文脈が変わるたびに、多様な文化のマトリックスのなかから、時代に適合的な文化項目を、「伝統」として再定義するという営みをつづけてきたと考えるべきであろう。したがって「伝統」として生きつづけてきたものは、時代に応じて変化を経験してきている。「時代を超えた伝統」などというものは存在しない。」

日本は「伝統」という言葉が好きな社会だが、結局自分の権益を守るための言葉でしかないのだ。


p.174
「明治国家が天皇制の代理機関として「発明」した「家」はむしろ国家主義の一要素であった。」

だからこそ、権力者が是が非でも守ろうとしている、日本的差別の根源とも言える、「天皇制」も「戸籍」は、批判的に考えられてこなかったのであろうし、批判的に考えられることを抑圧されてきたのだろう。


p.232
「労働時間の短縮に関する調査の中で、性・年齢・職業別のあらゆるグループの中で、無業の主婦層は夫の時短をもっとも歓迎しない層でもある。」

これは読んでて笑えた。何で結婚したんだろうと思うし、家父長制的な力が様々なところにひずみを作ってしまっているんだろうなあ、と思う。


p.280
「夫婦とも有職者のケースでは、外食はもはや多忙な週日のための時間節約型の日常行動の一つにすぎなくなり、そのかわり週末家族そろって食べる手づくりの料理がハレの食事と化しつつある。「家族が全員そろう」ことが特別の意味を帯びてきた。」

これは悲しいがかなり現実を言い当てたものなのだろう。


この本も刺激的で学ぶことが多かった。
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家父長制と資本制 マルクス主義とフェミニズムの地平 Part2分析編 [学術書]


家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2021/10/28
  • メディア: Kindle版



Part2でも印象に残った部分をまとめておきたい。

p.231
「「家」制度を封建遺制と見なす考えは、第一に近代百年(正確には明治三十年代からせいぜい半世紀あまり)の「伝統」を、不変の歴史的伝統と錯覚するあやまちに陥っていることから、第二に、武家的な「伝統」を日本社会全体の「伝統」ととりちがえることから、来ている。第三に、近代を「個人主義」の時代と額面どおりにとらえる近代主義者の思い込みがる。「家」を前近代、「個人」を近代の産物と信じて疑わない人々は、「家と近代的自我との葛藤」を好んで近代人の心理的な主題にする。日本の近代小説が「私小説」の名のもとにくり返し描いてきたのはこの主題だった。~(中略~) 島崎藤村といい、太宰治といい、私小説作家たちはいずれも例外なく彼じしん家父長の立場にいる男性であって、その家父長の支配下で呻吟する女や子どもではない。彼らが主題にした「家」制度との葛藤とは、「家と近代的自我との葛藤」などではなく、実のところ「家長責任を背負いきれない弱い自我の悩みや煩悶」であった。そしてこの「家長責任から逃避する未成熟な自我」は、そのことによって家長支配のもとに置かれた妻や子どもをたっぷり傷つけており、かえって自分の加害性に無知かつ無恥であるという「目からウロコが落ちるような」発見に導かれる」

これは本当に「目からウロコ」であり、的確な分析である。戸籍制度のしろ、天皇制にしろ、日本社会というのは「家」制度を残したい社会であり、男が常に優位に立っていたい家父長制社会なのだと、ここまで生きてきて思う。本当に最近になって若干崩れつつあると思うが、政治の世界を見ているとそれが強固なのがわかる。


p.249
「高度成長期は、男にとってはいわば「一億総サラリーマン化」の完成、女にとっては、「サラリーマンの妻」=「奥さん」に成り上がる夢の完成であった。しかし誰もが「サラリーマンの妻」になった時、この成り上がりはその実、女性の「家事専従者」への転落を意味していた。六十年代の高度成長期をつうじて、日本の社会は、滅私奉公する企業戦士とそれを銃後で支える家事・育児に専念する妻、というもっとも近代的な性別役割分担を完成し、これを大衆規模で確立した。フェミニストはこれを「家父長制」と呼ぶが、この「家父長制」はまったく近代的なものであり、封建遺制の家父長制とは質を異にしている。」


p.271
「日本の資本制は、だからと言ってアジアの安い労働力を利用することをギブアップしたわけではない。彼らは、移民労働力を日本に入れる代わりに、外国人労働力を彼らの居住地で利用するという選択をした。それが合弁企業や多国籍企業による現地生産方式である。それによって、企業は現地の安い労働力と原材料を利用した上で、産業廃棄物による公害というコストを支払わずに製品だけを手に入れるという芸当をやってのけることができる。日本の資本制が採ったオプションは、コストをミニマムにしてプロフィットを最大にするという、まことに「合理的」な選択だった。」

ファスト・ファッションなどで、自分もこの恩恵を受けてきただけに非常に心痛む話だったが、本当に日本という国はあくどい国だなあ、と思う。


p.304
「今や、この「核家族の働く母親」を救済する究極の解決策は、伝統的な三世代同居への回帰にこそあると考える人々がふえている。三世代同居をしさえすれば、育児期の女性は後顧のうれいなく働きつづけることができるし、それどころか一家に主婦がふたりいる葛藤を避けるには、働きに出たほうが良い。他方将来の老親介護の心配もない。「三世代同居」は「家族の危機」の特効薬と信じられている。いずれにしても、この「解決策」の中で、二つの再生産労働、育児労働と老親介護労働とは、祖母という名の女と母という名の女の間の世代間交換として、ただ家族の女性メンバーの間でだけ、やりとりされている。大家族回帰派が、その万能解決策の中で示しているのは、再生産労働を女の肩にだけ背負わせるという、断固たる決意である。」

これも女性蔑視の発言を繰り返す政治家たちが、伝統回帰を進めようとする理由なのだろう。本当に無責任極まりない人たちだと思う。

pp.312~313
「あらゆる育児科学は、したがって科学の装いを持ったイデオロギーである。「子供の発達」をテーマにしたどんな学問的な研究もこのイデオロギー性から自由ではない。まったく対立した育児法や育児観が、「子どものため」という観点からともに正当化される。そしてそれは論者の立場によってバイアスがかかっている。母による専従育児がいいと思う論者はデータからそういう結論を導き出すし、逆に共同保育がよいと考える論者は、それを立証するようなデータを集める。」

これは育児に限らず、教育のすべての分野において言える。教育に直接携わっている私の周りにも「エビデンスを出せ」とか言う人がたくさんいるのだが、その「エビデンス」はあくまで自分のそうだと思う結論に導くために持ってきた偏ったエビデンスであり、しかも教育というものは何が成功か、などというものは短期的な視点でわかるものではない。それをわかった上で教育・育児は行うべきだし、科学的なデータを収集し活かすべきだと思うのだ。


p.328
「「主婦労働」とは「主婦がする労働」のことだが、必ずしも「家事労働」を意味しない。逆に「家事労働」は必ずしも主婦がする必要はない。つまりここでは、「家事労働」を当面たまたま担当している「主婦」という名の女の、労働力としての質の差がものを言う。高卒でスーパーの店員をやっている女性と大学院の数学科出でコンピューターのソフト開発をやっている女性とは、家事労働者としては等価だが、「主婦労働者」として市場に出たときには、労働力の価格に差がついてくる。~(中略)~ つまり、夫のシングルインカムで暮らし、伝統的な性役割分担を守る中流の家庭と、男女平等なーありていに言ってしまえば男も女も平等に家事労働負担から免れたーダブルキャリア=ダブルインカムの上流家庭とに分解する。」

p.351
「資本制社会は生活のために生産があるのではなく、生産のために生活があるという転倒化した社会であることを、まず確認してかかる必要がある。」

楽しく充実した生活をするために、皆(男女)が支えあってお互いを尊重して生きられる社会が作られて欲しいと心から願う。
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家父長制と資本制 マルクス主義とフェミニズムの地平 Part1理論編 [学術書]


家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2021/10/28
  • メディア: Kindle版



あとがきによると『思想の科学』編集部に「マルクス主義とフェミニズム」について書いて欲しいと頼まれ、14回にわたって連載したものをまとめたものらしい。かなりの大著であり、とても難しい本で、その主張を私にはとてもまとめられない。さらに言えば、マルクスの『資本論』はじめ、様々な著書を読んだのは読んだが、世間一般に言われているマルクス主義とはなんなのかイマイチよくわからない。しかし、感情的なフェミニズムではなく、非常に論理的で納得させられる部分が多かった。

とりあえずPart1理論編を読み終わったので、印象に残った部分だけをまとめておきたい。

p.10
「フェミニストが「市場」の外側に発見した「家族」という環境も、「自然」と驚くべき類似性を持っている。「自然」と「市場」との関係および、「家族」と「市場」との関係のあいだには、論理的なパラレリズムがある。「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている。「家族」という領域から「市場」はヒトという資源を労働力としてインプットし、逆に労働力として使い物にならなくなった老人、病人、障害者を「産業廃棄物」としてアウトプットする。ヒトが、「市場」にとって労働力資源としたみなされないところでは、「市場」にとって意味のあるヒトとは、健康で一人前の成人男子のことだけとなる。 ~(中略)~ 女は、これら「ヒトでないヒト」たちを世話する補佐役、二流市民として、彼らと共に「市場」の外、「家族」という領域に置き去りにされる。」

「市場」の外に、「自然」と「家族」という考え方はとても新鮮だったし、その外側からインプットし、外側へアウトプットするという考え方も、何故資本主義が、資本主義を突き進む(否定する人もいるとは思うが)現代日本社会が、環境問題や人権(女性)問題に対して意識を向けないのか、よく分かった気がする。


p.19
「解放の思想は、解放の理論を必要とする。理論を書いた思想は、教条に陥る。女性解放のために理論はいらない、と言う人々は、半主知主義の闇の中に閉ざされる。」

これは平和教育などにも通じると思う。感情に訴えた進めようとする運動は結局感情的対立で終わってしまう。この本がいまだに新鮮さを保っているということは、女性運動というものもいまだに半主知主義の闇の中に閉ざされている部分が多いのだろうと思う。

pp.32~33
「フェミニストの貢献は、性支配の現実を明らかにし、それに「家父長制」という概念を導入したことだが、マルクス主義フェミニストは、この家父長制の分析に、マルクス主義がーまだ!ー役に立つと考える。マルクス主義フェミニズムがマルクス主義的である理由は、家父長制がたんに心理的な支配や抑圧ではなく、それに物質的根拠があると考える「唯物論的分析」による。したがって性支配が、たんにイデオロギーや心理でなくーそれゆえ女が被害妄想を捨てたり男が気持ちを入れ替えれば解決するような心理的な問題ではなくーはっきりとした物質的=社会・経済的な支配であり、したがってこの抑圧を排気するには、この物質基盤を変革する以外に開放がないことを明らかにする。」

簡単に言えば、「家父長制」=「おじさん文化」である。この本だったが、ほかの上野千鶴子の作品だったか忘れてしまったが、彼女はそう書いていた。この部分本当に共感する。私も中学生の頃から、この「おじさん文化」「マッチョイズム」が大嫌いだった。少しずつ、本当に少しずつ、世界は変化しつつあると最近思うだが、やはり日本はかなり遅れていると言わざるをえない。それもこれも皆が心理的な問題にしてしまい、根本的な変革を求めないからなのだと思う。


p.49
「「愛」と「母性」が、それに象徴的な価値を与え祭り上げることを通じて、女性の労働を搾取してきたイデオロギー装置であることは、フェミニストによる「母性イデオロギー」批判の中で次々に明らかにされてきた。「愛」とは夫の目的を自分の目的として女性が自分のエネルギーを動員するための、「母性」とは子供の成長を自分の幸福と見なして献身と自己犠牲を女性に慫慂(しょうよう)することを通じて女性が自分自身に対してはより控えめな要求しかしないようにするための、イデオロギー装置であった。女性が「愛」に高い価値を置く限り、女性の労働は「家族の理解」や「夫のねぎらい」によって容易に報われる。女性は「愛」を供給する専門家なのであり、この関係は一方的なものである。女の領分とされる「配慮」や「世話」が「愛という名の労働」にほかならないことを、アメリカの社会学者フィンチとグローヴズは的確に指摘している。」

これはリベラルな思想を持つ人でも、そして女の人にも内面化されてしまっていてあまりにも当たり前な事実のような感じのものになってしまっているが、こうして書かれるとこれはイデオロギー装置以外の何者でもないと思う。


p.71
「ハートマンによれば、家父長制の定義は以下のようなものである。
  われわれは家父長制を、物質的基盤を持ちかつ男性間の階層制度的関係と男性に女性支配を可能に
  するような男性間の結束が存在する一連の社会関係であると定義する。」

p.72
「 家父長制の物質的基盤とは、男性による女性の労働力の支配のことである。この支配は、女性が
  経済的に必要な生産資源に近づくのを排除することによって、また女性の性的機能を統御すること
  によって、維持される。
 したがって家父長制の排気は、ここの男性が態度を改めたり、意識を変えたりすることによって到達されるようなものではない。それは現実の物質的基盤ー制度と権力構造ーを変更することによってしか達成されない。」


pp.82~83
「それは、家事労働という不払い労働の家長男性による領有と、したがって女性の労働からの自己疎外という事実である。家父長制は、この労働の性別原理によって利益を得ているから、既婚女性は、階級のちがいを超えて「女性階級」を形成し利害を共にする」


p.107
「再生産が生産に抵触するという考えの中には、人々がギリギリの生存ラインで総力を挙げて生産活動にいそしんでいる、という前提がある。「生産力水準の低い社会では」というこの前提は、事実上、石器時代の生産力水準にとどまっている「未開社会」が労働時間のわずかな「豊かな社会」であるという観察によってくつがえされた。技術も生産力も石器時代の水準にある狩猟採取社会の住人たちは、饑餓線上をさまよっているどころか、多くの剰余食物を環境の中に保存して資源を取り尽くさないように配慮しており、一日四時間ーこの労働時間は、何と偶然にも、マルクスが描いた来るべき共産主義社会の一人あたり平均労働時間に一致している!ー生存のための労働に費やすほかは、歌ったり踊ったりだべったりの「社交」や「芸術活動」で日がな一日をすごすことが報告されている。この「豊かな社会」の住人は、産業社会の住人のように資源利用や生産力水準を「極大化」しないように配慮する点で「豊か」なのだ。」

40代中盤になってから読み、こんなことをいうのも恥ずかしい限りだが、非常に学ぶべきことが多い名著だと思う。後半の「分析編」も楽しみだ。
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セクシィ・ギャルの大研究 女の読み方・読まれ方・読ませ方 [学術書]


セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 (岩波現代文庫)

セクシィ・ギャルの大研究―女の読み方・読まれ方・読ませ方 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2009/05/15
  • メディア: 文庫



上野千鶴子さんが世に出した一作目。
雑誌や広告などの写真やイラストが持つメッセージを、性的な側面から論じたもの。
●男=大、女=小
●人間だけが持つ唇(女性器のコピー)の意味
●口紅が何故、あの形(スティック型)でなければならないのかの意味
●写真の女性が、何故体をくねらせたり、寝そべったり、首をかしげたりしてるものが多いのかの理由
●女性が腕を組む理由、男性が腕を組む理由
●話をしている最中に、モノをいじったり、体の部分を触ってしまう理由
●男性の草食化の理由
結構いろいろなことが論じられており、それらの一つ一つに納得させられてしまった。
いろいろな媒体で写し出される女性の格好に非常に違和感を持っていただのが、その違和感の理由が、この本を読んで何となくわかった気がする。

特に最後の部分は印象的だった。

p.234
「たしかに、父性型支配と母性型支配は違う。父は力で支配するが、母は愛で支配する。「愛による支配」は、人類が何千年ものあいだ思い描いてきた至福のユートピアには違いない。そこには、争いがないかもしれない。争いのない社会とは、争いを抑圧する社会でもある。
 これに対して、「力による支配」は、葛藤をいつでも潜在化させている。息子は父におさえこまれ、服従しながらも、憎しみのこもったまなざしを父に向ける。だから父性型社会では、「面従腹背」がありうるし、許される。~中略~
 ところが、母の権力は、「面従腹背」を許さない。愛による支配は、息子や娘たちの内面にはいりこみ、すみずみまで支配しつくそうとする。」

pp.237~238
「気の弱い男の子と、しっかり者の女の子というカップルができあがれば、行く末は見えている。亭主にはやばやと愛想を尽かした女たちは、息子に入れあげるだろう。息子への過保護と過干渉が、自分自身の夫の雛形を作り上げているとも知らずに・・・・・・。」

1982年に書かれた作品だが、現在の状況を見事に言い当てている。後ろに付された「自著改題」でも書かれているが、この本は現在でも読まれるべき作品であり、学ぶところの多い作品だと思う。

この間読んだ『不倫と正義』で中野&三浦さんは、上野千鶴子に一定の評価をしながらも若干批判めいたことを書いていたが、彼女たちもかなり上野千鶴子に影響されているんだろうなあ、ということがこの本を読んでわかった。

本格的な論文ではないこともあり、非常に読みやすく短時間で読みきることができた。
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ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想 [学術書]


ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想 (岩波現代文庫)

ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想 (岩波現代文庫)

  • 作者: 光雄, 宮田
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2019/07/18
  • メディア: 文庫



作者の宮田光雄さんは、私が卒論を書く際、考えをまとめるうえで、非常に参考にさせていただいた人であった。その人が訳している、新教出版社から出ている『ディートリヒ・ボンヘッファー』という本をかつて読んだ事があった。正直、ヒトラー殺害を企てたものの計画段階で失敗に終わり、何もすることなく死んでしまった人、という以上の印象しかなかった。

しかし、宮田光雄氏本人が書いたこの本が、岩波現代文庫から出されたので、もう一度ボンヘッファーなる人物と向き合ってみようと思い購入し、遂に自分の中での順番が巡ってきて、この12月に読んだ。ボンヘッファーに対する見方が180度変わった。本当に素晴らしい人物であり、私が日頃生きる上で大切にしていることを大切にし、さらにそれを実践していた人なのだということがよくわかった。

あまりにも素晴らしい言葉が多いので紹介するのも大変だが、いくつか紹介したい。

p.10
「彼は、ナチのユダヤ人政策に反対して、教会の取るべき三つの行動可能性について論じています。
 第一に、その政策が合法的な国家にふさわしいかどうか、国家の責任を問いかけることです。
 第二には、国家の政策の犠牲となった人びとに対して、彼らを助けるために奉仕の義務を引き受けることです。
 しかし、彼が第三番目の可能性として、「車輪の下敷きとなった犠牲者を助けるだけでなく、みずから車輪の下に身を投じて」、車そのものを阻止することを教会の責任範囲に上げているのは、きわめて重要です。」

我々は言葉ではいろいろ言うが、結局行動に移せない。しかし、失敗に終わったとはいえ、彼は実際多くの人の命を救うために国家の転覆を図る行動に出た。ここに書かれている思想は、三浦綾子の『塩狩峠』にも通じる。キリスト者として人間として生きるとはこのようなことなんだと、改めて思った箇所である。

p.36
「重要なのは個別の真実の言葉ではなく、つねにその全体が問題なのだ。逆説的な言い方をするなら、正直な者が嘘をつく方が嘘をつくものが真実を語るよりも、いっそうベターなのだ。」

これも非常に含蓄に富んだ言葉である。若干曲解してしまえば、表向きの言葉よりも、それを語る主体つまり本質的な部分が美しいほうが遥かに良いということだ。形が重要なのではなく、中身こそが重要なのだということを訴えたかったのではないだろうか。

p.70~
ナチ支配下の知識人

ここからナチ支配下の知識人をあり方を批判するのだが、非常に非常に理解できるし、現代の知識人たちにも通じるものが多々ある。

①「理性的な人びと」=「最も良い意図を持ちながら、現実をナイーブに見誤り、支離滅裂に陥った世界を、いくらかの理性でふたたびつなぎ合わせることができる、などと考える。」ナチ政権と協力しながら、何とかそれを良い方向に導いて、カタストローフを防ごうとする。しかし、彼らは「眼力不足」のゆえに失敗する。「そこで彼らは諦めて脇へひっこむか、ふらふらして、いっそう強い方に屈服するのである。」

これは、よくあるタイプだといえる。「自分が組織を変える」などと言いながら結局時が経つにつれてその組織にどっぷり浸かってしまう人間たちである。

②「倫理的な熱狂主義者」=「このような人は「原理の純粋さによって、悪の力に対抗しうると考える。しかし、彼は牡牛のように、悪の力の担い手に向かう代わりに、赤い布切れに向かって突進し、そのために疲れ果てて倒れてしまう。」

いわゆる「原理主義者」。理想が高すぎて、そしてその理想だけを追い求めて現実と折り合おうとしない人間。これもよくいる。

③「良心的な者」=自分の良心に照らして、その時々に具体的な決断をしていこうとする人びとです。彼は「決断を要する緊急事態の圧倒的な力から身を守ろうとして孤独な戦いを戦う。」しかし、自分自身の良心によるほかには、どこからも支えとなる助言を与えられることがありません。~中略~「彼に近づいてくる悪の上品で魅惑的な無数の変装が、彼の良心を不安にし、不確かにする。」その結果、「良い両親」つまり、疚しくない良心の代わりに、「言い逃れる良心」を持つことで満足する。

一見良い人そうなのだが、日和見主義的で、結局状況に応じて対応するため本質的な解決が出来ない人たちだ。これも非常に多い。こうした人間に対してコメントした彼の言葉は我々の言葉を刺す。

p.73
「ボンヘッファーは、こう結論しています。「良心だけに自分の拠り所を置こうとする人は、悪しき良心(良心の疚しさ)の方が欺かれた良心よりもためになるし、力強くもありうるということを、決して理解できない。」

日和見主義であること自体が、良心の疚しさを伴っていない、ということを理解できない。つまり日和見主義であることが良心なのだと信じて疑うことなく生きている人たちなのだ。

④「「義務」に従うもの」=「とまどうほど多い」

これはまさにアイヒマンだ。そして日本の組織の中に何と多いことか。安倍首相の秘書や側近の官僚たちもまさにこうした人間たちだろう。

他にも二点挙げられているが割愛する。

p.78
「愚かさは悪意よりも、いっそう危険な善の敵である。悪に対しては抗議することができる。それを暴露し、やむをえない場合には、これを力ずくで妨害することもできる。悪は、少なくとも人間の中に不快さを残すことによって、いつも自己解体の萌芽をひそませている。愚かさにたいしては、どうしようもない。」
「自己の先入観に矛盾する事実は、端的に信じる必要はないとされる―このような場合に、愚かな者は批判的になる。―その事実が避けがたいものであっても、それは、単純に無意味な個別的ケースとして排除されうるのである。その場合、愚かな者は悪しきものと違って自分自身に完全に満足している。」
明白な事実をつきつけられても、例外的ケースとして切り捨て、あくまでも自分の正当性を信じ込む。その信念に矛盾する事実を指摘されると、かえって、「批判的」=攻撃的になる、というのです。

これは私が働く組織のトップである。あまりにも愚かすぎて何を言っても聞かないし、愚かなので自分が愚かであることに気がつけず、愚かさを指摘されてもその愚かさを認められないのだ。それを端的に言っている。

p.79
「愚かな者は、しばしば頑固であるが、だからといって、彼が自立的であるということはない。このことを見誤ってはならない。愚かなものと話していると、われわれは、その人自身、つまり、彼の人格と関わりをもっているのではなくて、彼の上に力をふるっているスローガンや合言葉などにたいしているような感じを受ける。」
 じっさい、この点に関連して、ボンヘッファーは「愚かさは本質的には知的な欠陥ではなくて人間的な欠陥である」という注目すべきテーゼを打ち出しています。

とりあえず、素晴らしい言葉が溢れているが、いろいろありすぎるので今日は時間がないので、この辺でやめておく。

p.216
「この課題は、イエス・キリストが到来したことを知っているすべての者に、無限の責任を負わせるものである。飢えている者はパンを、家なき者は住む家を、権利を奪われているものは正当な権利を、孤独なものは交わりを、規律にかけている者は秩序を、奴隷は自由を必要としている。飢えている者をそのままにしておくことは、神と隣人とにたいする冒涜である。」

この言葉は、チェ・ゲバラは、「社会で不正が行われていることに対して怒る人は、我々の同士である」という言葉を思い出させる。自分の幸せでなく、社会全体の幸せのために行動することこそがキリスト者であり、人間なのである。

p.220
「《自然的なもの》は、それが堕罪後の現実である以上、神との直接性の中に生きる原初のままの《造られたもの》とは同じではありません。他方では、神による《被造性》という事実にかわりない以上、一般的な《罪のもとにあるもの》として否定さられるわけでもありません。《自然的なもの》は、堕罪後も神によって保持されている生命のかたちであり、キリストの到来、すなわち、義認と救いと更新とに向かって開かれています。これにたいして、《不自然なもの》は、キリストの到来にたいして目を閉ざし、生命の形を否定するものです。」

これは非常に難しい言葉だが、キリストの存在を感じながら、キリストの示してくれた生き方(本質的な部分で)を実践していくべきだということなのだと思うのだ。

p.221
「ボンヘッファーによれば、《自然的なもの》を破壊する《不自然なもの》は、《生命主義》と生の《機械化》という二つの形をとって現れます。前者は、地上の生命を絶対化して自己目的とする中で、他の生命を破壊し、生命に仕える基準ないし限度を失い、ニヒリズムに陥ってしまいます。後者においては、生命は組織の中の利用価値という観点からのみ捉えられ、目的のための手段とされて、その自己目的性を失ってしまいます。いずれも、生命に対する《不自然な》破壊に至りつかざるをえないのです。」

これはまさに、神というバックボーンを失った現代人たちの人間破壊、環境破壊に警鐘を鳴らしている箇所と言えるであろう。

p.233
「善とは、現実性をもって存在する生命、すなわち、その根源・本質・目標において存在する生命であり、換言すれば、「キリストが私の生命である」という言葉の意味における生命である。善とは、生命の性質ではなく、《生命》そのものである。《善くある》とは《生きる》ことである。」

これは結構厳しい言葉である。逆に言えば、《善くない》状態とは《生きていない》状態と言えるからである。しかしこれほどの厳しさで常に人生に向き合いたいとは思う。

p.247
「責任を負う行動は、自分の行動が究極的に正当であるかどうかについての知識を断念する。神が人間となり、また神が人間となりたもうたということを見つめつつ、すべての人格的・客観的な状況を責任的に判断しながらなされる行為は、それを実行する瞬間に、ただ神にすべてを委ねる。~中略~」このいっさいの事故性とかを断念したものの謙虚さと自制、神を信頼するゆえの落ち着きと勇気―こうした逆説的な結びつきこそ、ボンヘッファーが責任を負う行動として抵抗運動に参加することのできた秘密なのでした。

結局人間には自分の行動が本当に正しいのかはわからない。しかしわからないからこそ、現実の状況を見つめ、自分の判断・行動に自分で責任をとり、実行していく。本当に素晴らしい人物は常に謙虚さがあるのである。


次は私がこの本の中で最も心に残った一節である。
p.288
「われわれはー《たとえ神がいなくとも》ーこの世の中で生きなければならない。そして、まさにこのことを、われわれはー神の御前で認識する!神ご自身がわれわれを強いて、この認識にいたらせたもう。このように、われわれが成人することは、神の御前における自分たちの状態の真実な認識へとわれわれを導くのだ。神は、われわれが神なき生活と折り合うことのできる者として生きなければならないということを、われわれに知らせたもう。」

現代の我々は神を実感することはほとんどない。しかし神がいない状態であるかのように強く生きることを神が我々に強いているのだ。この逆説的な考え方を心にもって神なき現代を生きるか否かは、我々が正しく生きられるかに大きく関わってくるのではないだろうか。この認識がない人間が神に頼ろうとすると、例えば新年だけに行く初詣、何故か行われる七五三のお参りなど、ボンヘッファーの言う次のような状態に陥ってしまうのだ。

p.293
「人間の宗教性は、困窮に陥った時に、彼をこの世のおける神の力に向かわせる。[そこでは]神は《機械じかけの神》なのだ。」

簡単に言えば、困った時の神頼みなど、神を信じての行動でも何でもないし、全く無意味だということだ。


そしてボンヘッファーは、パリサイ人的な宗教人、つまり形だけにこだわり中身を考えない人間を批判する。
p.309
「彼がナチ体制にたいする同調と妥協を認めるところには《宗教》があり、ヒトラーにたいする抵抗に加わったところで《非宗教性》に生きる人々に出会ったのです。ボンヘッファーが『獄中書簡集』において《非宗教的》な言語で将来に対話することを望んでいたのは、こうした人々ではなかったでしょうか。」
「《キリスト教的本能》のようなものが僕を宗教的な人間よりも無宗教的な人間の方に多く引きつけるのは何故か。しかも、まったく伝道的な意図をもってではなく、むしろ《兄弟として》と言いたいくらいなのだ! 僕は、宗教的な人間に向かっては神の名を口にすることをしばしば恥ずかしく思う。ーなぜなら、僕にはこの場合、神の名が何となく偽りの響きをもつように思われるし、自分自身がわれながら何かj不誠実に思われるからだ(とくにひどいのは、他の人たちが宗教的用語で話し始める時で、そのとき僕は、ほとんど口をつぐむ。何だかもやもやした感じになり、不快になるのだ)。ーそれに反して、僕は、無宗教な人に対しては、時折、まったく休んじて自明なことのように神の名を口にすることがある。」

これは私も実感する。仏教などはとくにそうだが、坊主ほど、言葉だけで、まったく行動が伴っていない。こうした人間を私は軽蔑する。

p.323
「自分が他者のために何か意味のある存在でありうると感じることほど、人を幸福にする感情はほとんどあるまい。」

本当にそう思うのだ。結局人は人なくして生きられない。そうした時最も幸せなのは、人が自分がいることによって幸せになってくれる時なのではないだろうか。

最後に感動的な言葉を紹介して終わりたい。

p.390
「われわれがキリスト者であるということは、今日では、ただ一つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと人びとのあいだで正義を行うことだ。」

これは先にも言ったチェ・ゲバラにも通じる言葉だ。常に社会の正義のために行動し、その正義感を絶対的なものとして振り回すことなく、謙虚に静かに真摯に行動したい。

本当に素晴らしい本であり、ボンヘッファーは素晴らしい人物である。
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不平等の再検討 [学術書]


不平等の再検討――潜在能力と自由 (岩波現代文庫)

不平等の再検討――潜在能力と自由 (岩波現代文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/10/17
  • メディア: 文庫



アマルティア・センの2冊目を読んだ。前回読んだ『貧困と飢饉』ほどの衝撃はなかった。
この本のテーマは、「はじめに」のはじめに書かれた以下の文章に集約されていると言える。

p.Ⅴ
「社会制度の倫理的アプローチの中でも歳月の試練に耐えて生き残ってきたもののほとんどは、何かについての平等、すなわち、その理論の中でじゅうような位置を占める何かについての平等を求めているという特徴を持っているという点で共通している」

おなじことを言っているのだが、第一章からも引用してみたい。

p.24
「ある変数における平等(それが伝統によっていかに神聖化されていようとも)は他の変数に関して半平等主義的になるということ、またその相対的な重要性は、総合的評価の段階で批判的に評価しなければならないということを認識しておくことは重要である。」

多くの人は、何かを決定する際、なるべくある面において平等性を保とうとする。しかし、あらゆる側面で平等性であることは不可能である。そうした時に、どの面に重きをおいて、平等性を求めるのかが重要になる。

正直、内容的には様々な点から色々なことが検討されているが、すごく興味深いものではなかった。だが、上記の視点は自分には全くなかったので、とても新鮮で、これから様々なことを考える際非常に重要な視点だと思った。そうした点だけからでもこの本はとても良い作品だった。
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貧困と飢饉 [学術書]


貧困と飢饉 (岩波現代文庫)

貧困と飢饉 (岩波現代文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/07/15
  • メディア: 文庫



岩波現代文庫の目録をなんとなく眺めていたら、面白そうなタイトルを見つけ、内容を読むと更に面白そうだったので購入してみた。
作者のアマルティア・センは、インドの経済学者でノーベル経済学賞も受賞しているらしいい。

この本の主張は、飢饉が起こるのは、ある地域に食料が絶対的に足りない、FAD(Food Availability Decline)が原因なのではなく、人が食料などにアプローチできる「権原」が不足していることが原因なのだということ。それを様々な場所で起こった大飢饉を例に取りながら論を繰り広げている。

自分も飢饉というと、食料が絶対的に足りていなくて、それを何らかの方法で送り、送られた政府がちゃんと考えて、うまく分配できればなくなるはずなのに、政府が間で搾取しているからなのだろうなあ、とぼんやり考えていたのだが、そうした部分をもっと詳細に、様々な観点から論じている感じだ。

センの言葉を引用しながらこの本を見ていきたい。

p.v (訳者まえがき)
「本書で用いられる「権原」とは、ある社会において正当な方法で「ある財の集まりを手に入れ、もしくは自由に用いることのできる能力・資格」あるいは、そのような能力・資格によって「ある人が手に入れ、もしくは自由に用いることができる財の組み合わせの集合」を意味する。」

すごく簡単に言ってしまえば、飢饉が起こるのは、確かに食料の絶対量が足りないせいもあるかもしれないが、存在するはずの食料にありつける能力や資格が足りない人が多く存在し、その人たちが飢饉に合うのだということ。つまりこれは政治・経済の問題であり、格差の問題なのだということだと思う。

p.12
「この研究で用いられる権限アプローチは非常に普遍的なものであるが、飢餓と貧困の分析には避けて通れないと私は主張したい。にもかかわらず奇妙で異例なアプローチに見えるならば、それは、誰が何を手にすることが出来るかではなく、何が存在しているかで物事を考える伝統にとらわれているためである。」

これは、飢餓問題に限ったものではなく、95%の人(権力者も含む、というより権力者はほぼ皆そうだが・・・)は、目に見えるもの、形あるものでものごとを判断し、「どのように」というようなことは問題にしないのだ。そしてその95%の人間の雰囲気で色々な物事が決まっていくから、社会はうまく回っていかないのだ。

p.p. 264~265
「食料供給と食料への権限とを媒介するものが法である。飢餓による死とは、その社会で何が合法であるかを極端な形で映し出していると言えるのである。」

つまり、権限を持っている者(権力者・金持ち)だけが食べ物にありつき、権限を持っていないもの(貧乏人)が死んでいく、それを社会の法が許しているということだ。

p.278
「公衆が基礎教育を得ていることは、地域の保健医療サービスや一般の医療施設を利用するうえで、重要な枠割を果たしうる。この点に関しては、とりわけ女性の教育が重要である。」

今となっては常識だが、女性の教育が、様々な問題を解決していくのである。

p.295
「権原保護のために最低限の所得を創出することは、様々な方法で可能である。中でも、現金賃金による公的雇用は、効果的な方法となる可能性がある。」

これは、かなり新しい発見だった。確かに、公的な資金を使って、困っている人に職を持ってもらい、稼いでもらうというのはとても良い方法だと思う。日本も考えるべきしてんだ。

最終的には、民主主義と人々の積極的な関わりが、公正な社会を作り、議論を生み出し、貧困と基金を解決していける、という彼の主張に私は強く同意する。

とても刺激的で良い本だった。
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言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集 [学術書]


言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集 (岩波現代文庫)

言葉の力 ヴァイツゼッカー演説集 (岩波現代文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2009/11/13
  • メディア: 文庫



大学時代、ヴァイツゼッカー大統領の「荒野の40年」演説を岩波ブックレットで読み、その後数回読んで、そのたび毎に感動していた。最後に読んでから10数年読んでいなかったが、あるとき、岩波現代文庫から彼の演説を集めた本が出ていると知りずっと読んでみたいと思っていたものだった。

とにかく素晴らしかった。全部で11の演説が収められているのだが、あらゆることに対し真摯に向かい合い、弱者に対して、女性やマイノリティの人々に対して常に優しい視線を向け、そういった人々にまずは心を向けるべきであることを直接的にではなく、様々なことを通して聞いているものに語りかけている。過去との向き合い方も素晴らしく、常に反省的・批判的視点を持って過去を見つめ、常に自らが主体となってあらゆることに関わっていこうとする姿勢が見られる。

現在の日本の権力者、それはj国家・企業・団体どんなレベルにおいてもこれほど素晴らしい人格と思想を備えた人物はまずいないのではないだろうか。自分や自分の周りの人間たちの利益に汲々として全体を全く見渡せない人間ばかりだ。ヴァイツゼッカーの思想の根本にはキリスト教思想がある。彼の演説を読んでいると、やはりキリスト教思想というのは、素晴らしいと感じてしまう。翻って自分の周りにいる仏教に関わる人間たちを見ていると、本当に品がなく、お金のこと・自分の利益のあることにしか意識が向いていないな、と感じてしまう。
プラトンが言う、最も権力を望まない人間こそが権力を持つべきだ、という言葉を体現しているような人物だと言える。


最後に、ヒトラーに抗した「白バラ」ショル兄妹を記念した演説での言葉を引いて終わりにしたい。

pp.182~183
「ですが、自由は責任であります。これは自由を制限することではなく、またしても自由を危険にさらさないための前提です。責任をとろうとし、とることができるーこれこそ自由が政治的に生き延びていく上での条件です。
  しかし、仮に自由が快適なしてき生活のためだけに奉仕するようなら、
  仮に自由の活動の場が、不十分な道徳的・社会的条件の下で利益を求める努力を
  助長するモノとメディアの市場だけにあるのなら、
  仮に自由が参加しないことを容認するというだけにとどまるなら、
  仮に自由が他人の運命に無関心のままでいるようなら、
  つまり仮に自由が連帯へと通じていかないのなら、
  長い目で見て自由は生きる力をもちません。

どこかの国の人々並びに権力者たちに是非とも読んでもらいたい言葉である。

あまりにも素晴らしすぎる本だった。
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A Brief History of Time [学術書]


A Brief History Of Time: From Big Bang To Black Holes

A Brief History Of Time: From Big Bang To Black Holes

  • 作者: Stephen Hawking
  • 出版社/メーカー: Bantam
  • 発売日: 2011/08/18
  • メディア: ペーパーバック



昨年、だったか・・・、Stephen Hawking氏がなくなり、出版されていた本がいろいろと話題になり、その当時買っておいた本。直訳すれば「Timeの簡単な歴史」ということだが、基本的には、宇宙を語ったもの。売り出されている日本語訳も『ホーキング宇宙を語る』とかいう題名だった気がする。

人間が、地球と宇宙の関係性をどう見てきたか、時間と空間の関係、宇宙の構造、ブラックホール、ビッグバン、時間の考え方、時間旅行と本当に興味深い内容が多く、初めは楽しく読んでいたのだが、やはり専門的な話にならざるを得ず、理科の先生の少し聞いたりしながら読み進めてはみたものの、やはり難しく、それぞれの章の初めは、概説なので、ふんふん、と思いながら読めるのだが、最終的にはページをめくるだけ、といった感じになってしまった。

今まで名前しか知らない事柄に関して、少し理解が深まってが、やはり全体像をつかむことが出来ず、いまいち消化不良だった。宇宙に少し興味があり、ある程度の理科(物理・化学)の知識を持っている
一般人にお勧めの作品ではある。
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Anti-Intellectualism in American Life Part6 Conclusion [学術書]


Anti-Intellectualism in American Life

Anti-Intellectualism in American Life

  • 作者: Richard Hofstadter
  • 出版社/メーカー: Vintage
  • 発売日: 1966/02/12
  • メディア: ペーパーバック



遂にAnti-Intellectualism in American Lifeを読み終わった。
宗教、政治、経済界、教育における、反知性主義の歴史を辿り、最終的には、IntellectualがそのAntiにどのように対応してきたかを述べている。

アメリカは、様々な分野でAnti-Intellectualismが歴史的にあり、そのせいでIntellectualの側もそれに慣れてしまい、それに適応するようになってしまったという結論???

p.411
An excessive, rampant individualism had prevented the formation of a collective spiritual life. The pioneering spirit, coarsely bent on acquisition and conquest, had forced a materialism which was hopelessly opposed to the skeptical or creative imagination ~

とある。過度な個人主義や物質主義に向かうような開拓精神が、アメリカ全体に精神生活をはぐぐむ機会を奪い、批判的で創造的な精神を奪ってしまったといった意味なのだろうか・・・。

基本的に作者HofstadterはIntellectualの代表として作家の名前を多く挙げている。彼らの多くは、知的な側面と実務的な側面を併せ持っていたと述べている。

が、この本を読んでいる間中ずっと違和感があったのだが、そもそも批判的、多角的な視点を持った人間が受け入れられる社会、社会というと語弊があるなら国家、というものが存在したのだろうか。ソクラテスに始まり、エラスムス、近代以前の国家、共同体もことごとく批判的にものごとを考える人間達を排除してきた。衆愚政治というものは常に権力者にとっては理想的なのだと思うのだ。知的でないからこそ権力を目指す。権力を握った人間は知的でないからこそ知的な人間をおそれ、権力組織から知的な人間を排除する。さらにいえば、そもそも知的な人間達は権力なんぞ求めていないし、一般の人々に理解してもらうことをあまり欲していない。

とても緻密に分析されピュリッツァー賞も受賞した作品なのだろうが、正直これはアメリカ社会に特有の現象でなく、古今東西どんな組織にもありえる話なのでないだろうか。
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Anti-Intellectualism in American Life Part5 Education In a Democracy [学術書]


Anti-Intellectualism in American Life

Anti-Intellectualism in American Life

  • 作者: Richard Hofstadter
  • 出版社/メーカー: Vintage
  • 発売日: 1966/02/12
  • メディア: ペーパーバック



章のタイトルにもあるとおり、「民主主義における教育」について述べられている章。
王政や、階級社会が依然としてあるヨーロッパ社会と違い、あくまでも原則は「皆が平等」であり、民が主である民主主義を標榜するアメリカ社会において、さらにいえば、何百年、何千年と受け継がれてきた伝統・歴史がないアメリカ社会においては、ヨーロッパ的な、古典的教養は必要なく、実践的な、社会に役立つ、民主主義精神を養う教育が必要とされる。そうなると必然的に、生活に根ざした科目が中心となり、古典語教育のようなヨーロッパのエリートで必須とされてきたような科目は必要なくなる。こうしたことを重視するような教育はあざけりの対象となる。

このようなアメリカ社会に根ざした、新しい教育観を持った人間の代表としてジョン・デューイが挙げられ、彼の教育観の解説がこの章の3分の1以上を占める。子供の内発的な動機付けを重視し、対話を重視し、教員主体ではなく、生徒主体の教育という考え方はまさに今の日本の教育の流れと一致する。さらにこれはデューイの言葉ではなく、マリエッタ・ジョンソンという人の言葉らしいが、「どんなこどもも失敗をしるべきではない。学校はこどもの心の欲求に従うものであるべきで、誰かが成功している裏で誰かが失敗しているような教育は、不公正であり、反民主主義的であり、反教育的である」という言葉は、運動会で徒競走に順位をつけないような状況の理論的バックボーンとなるだろう。

昔、デューイの『民主主義と教育』を読んだときの違和感がそのままよみがえってきた気がする。確かに理想としては良いのだろうが、やはりどこかでひっかかる部分がある。それはデューイ思想(デューイ自身が実際持っていたかは別として)がもつAnti-Intellectualismだったのではないかと思うのだ。

やはりここまで読んできて、私はヨーロッパ的なIntellecutualismに共感する部分が多いのだろうなとあらためて思った。
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Anti-Intellectualism in American Life PartⅣ The Practical Culture [学術書]


Anti-Intellectualism in American Life

Anti-Intellectualism in American Life

  • 作者: Richard Hofstadter
  • 出版社/メーカー: Vintage
  • 発売日: 1966/02/12
  • メディア: ペーパーバック



宗教的側面、政治的側面と見てきて、今回はもう少し一般的な側面からAnti-Intellectualismに関して見ている。

まずは、ビジネスに関わる人々の様子を述べる。当然、彼らは「お金を稼ぐ」という目標があり、そのためにはある程度の知識がないとならない。そういった意味で、Intellectualと結びついた時期もなくはないが、やはり実学志向が強くなり、Anti-Intellectualismを持つようになる。その流れで文学者にも言及される。文学者というとインテリなイメージがあり、AntiーAnti-Intellectualismの観があるが、アメリカ文学を代表するMark Twainを例に取り、彼も現実(実学)的な側面があったことを述べる。その一例としてA Connecticut Yankee in King Arthur's Courtが挙げられていたのが面白かった。今年の初めにちょうど読んだ本であり、アメリカの工場長(実学の最たるもの)が殴られたショックで中世ヨーロッパへ行ってしまい、そこでアメリカの現代技術を使って当時の人々を驚かせるというストーリーが確かにこのAnti-Intellectualismの流れにあっているなあと感じた。

ビジネスで成功した人々の中には、教養を大事にして、文化振興に力を尽くした人もいたが、総じてAnti-Intellectualismがその空気の中にはあった。それを説明した次の箇所が今の日本の雰囲気を表しているようで非常に恐ろしい。

p257上段
With all this there went a persistent hostility to formal education and a countervailing cult of experience
「こうした状況(教養を重視する人がいる一方)、教養教育に対する敵意は依然としてあり、それと反対の経験至上主義に対する信仰もずっと続いた。」

下段
education should be more "practical", and higher education ~ was useless as a background for business.
「教育はより“実学的”であるべきで、高等教育(大学教育)は、ビジネスをやる上では無意味だ」

これはまさに、数年前に起こった人文科学に対する日本の姿勢と変わらない。大学を単なる就職予備校と考え、ビジネスに役立たないものは排除しようとする姿勢。さらに上記二つのちょうど真ん中に位置する次の一言も恐ろしい。

education would only make workers discontented
「教育は労働者を不満分子にするだけだ。」

半共産(社会)主義、衆愚政治につながるこの言葉。実は日本の多くの権力者たちが持っている思想であり、多くの教育者も実は共有している思想である。権力を持っている人間は、多角的視野、批判的視野を持った行動的な人間を恐る。人々を本当の意味の教育から遠ざけ、無知なままにしておけば、権力者は自分たちのやっているむちゃくちゃな政治の問題点を突かれることはない。本当に今の日本の状況にぴったりくる描写だ。

この後、農業分野などにも言及されるが、基本はすべて同じ。教育(理論)は実践においては役に立たない。「教育=遊び」でありアメリカにおいて「教育⇔仕事」と捉えられてきた歴史があざやかに述べられている。本当に恐ろしい歴史だ。
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Anti-Intellectualism in American Life Part3 The Politics of Democracy [学術書]


Anti-Intellectualism in American Life

Anti-Intellectualism in American Life

  • 作者: Richard Hofstadter
  • 出版社/メーカー: Vintage
  • 発売日: 1966/02/12
  • メディア: ペーパーバック



Part3を読み終わった。
タイトルにあるように、この章は政治の分野におけるAnti-Intellectualismの歴史を述べている。

始めは国の形を作るうえで、トマス・ジェファソンのようなヨーロッパ的な教養のある知的な人間達が政治の分野にも求められたが、国が安定していくにつれそうした知的な人間達は、頭だけで肉体感覚がない、実際の政治では通用しないと批判の矢面に立たされるようになる。

そうした状況はしばらく続くが、ハーバード大学出身の知的な大統領は、海軍次官として米西戦争を戦ったこと、大学でスポーツをやっていたこと、マッチョであったことなどから、反知性主義陣営からも攻撃されず、受け入れられた。

が、結局これはセオドア・ルーズベルトの個性によるものであり、その後も政治界における反知性主義は続く。

1930年代の大恐慌時代ニューディール政策を行っていくうえで、ブレインとして知的な人間が必要とされたが、それも一時のものであった。

結局、アメリカの政治においては、知的な人間は基本的に実地経験のない使えない人間として排除され続けた。大統領も同じような視点で選ばれ続けたと論じている。

しかしこれはアメリカだけにあてはまる状況ではないだろう。多くのコミュニティーは多かれ少なかれ、リーダーに先頭に立って自分達を率いてくれるものたちを求める。あたまでっかちな人間よりもマッチョな人間を求める。そしてそのマッチョな人間を支える参謀として知的な人間をそろえるのではないだろうか。この本を読むと、その参謀の地位からも知的な人間達が排除されていたような印象を受けなくはないが、実際様々なことを運営していく上で、ある程度知的な人間達がマッチョな大統領を支えてきたであろうことは間違いないと思う。

プラトンも哲人政治、つまり知的な人間がトップに立つことを求めた。しかし、プラトンも述べているように、そもそもが知的な全体を見通せるような人間は進んでトップに立とうとしない。マッチョイズムを持たない、優しい人間達はわざわざ表舞台に上がろうと思わない。このあたりに難しさがある。

世界では多くの女性リーダーが現れている。世界のさまざまな場面でマッチョイズムは抹消されつつある。これからもっともっと、リーダにマッチョさを求めず、知的な人間達が、様々なことに心を配り世界を作っていくことが、このはかない地球を支えていくためには必要なのではないだろうか。
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Anti-Intellectualism in American Life Part2 The Religion of the Heart [学術書]


Anti-Intellectualism in American Life

Anti-Intellectualism in American Life

  • 作者: Richard Hofstadter
  • 出版社/メーカー: Vintage
  • 発売日: 1966/02/12
  • メディア: ペーパーバック



Part2を読み終わった。
いよいよ本格的にアメリカの反知性主義の歴史を辿る。

題名の通りなのだが、アメリカはそもそも、信教の自由を求めて作られた国。もちろんその過程で原住民を追い出してきたのは間違いないが、その部分はここでは触れない。

始めのうちは、もちろん、ヨーロッパの知的な雰囲気を残しており、大学なども東海岸には多く建てられるのだが、段々と、教会なども建てられ、教会に所属するキリスト教信者というものがアメリカ国内で増加するにつれ、牧師のあり方が変わってくる。
ヨーロッパ的な、ラテン語・ギリシャ語を収め、広く哲学を学び、知的なエリート階級という牧師ではなく、人々の感情に訴える、わかりやすい説教を行う牧師が人気を博するようになるのだ。知性のある牧師は逆に、あまりにも形式ばっており、職業として福音を述べ伝えているだけであって本来の信仰とはかけ離れているとみなされるようになるのだ。

さらにいえば、段々と開拓も進み生活が安定してくると、リベラルで物事を批判的に見ることが出来る知的な人間達は、人々の生活を破壊するものとみなされるようになり、糾弾されるようになる。

これはまさに日本の現在の状況と重なるのではないか。人々はじっくり考えることをやめ、理性的に物事を判断できなくなり、感情に訴えるわかりやすい思想、自分をひっぱてくれる人間を求める。長い不況が続いているとはいえ、それなりに生活できる人々は革新的な考え方を嫌い、「他に選択肢がないから」という理由で、非理性的、暴力的、保守的な人間を選挙で選び続ける。
さまざまな意思決定はそのような知性のない人間に任せ、自分達は感情の赴くままに生活し、ひたすら刺激的なもの(SNS、インターネット、ゲーム、テレビ)を求め自分の全ての時間をそこに費やす。

この先、どのような展開になっていくのかは全く分からないが、現在のトランプ大統領を生んだアメリカ像が見えてきそうであると共に、日本の行く末も暗示しそうであるこの本、楽しみだ。
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Anti-Intellectualism in American Life Part1 Introduction [学術書]


Anti-Intellectualism in American Life

Anti-Intellectualism in American Life

  • 作者: Richard Hofstadter
  • 出版社/メーカー: Vintage
  • 発売日: 1966/02/12
  • メディア: ペーパーバック



ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』を読み始めた。
アメリカの文化史のような本だ、というのをどこかで聞いたことがあり、さらに今の日本を取り巻く「反知性主義」と重なる部分が多いというのも耳にし読み始めた。

Chapter1,2がPart1でIntroductionとなっている。
アメリカのAnti-Intellectualismを簡単に紹介している、まさにIntroductionのような箇所。

「IntellectualとIntelligenceは違うもので、前者はしばしば嘲りや批判の対象とされるが、後者は常に賞賛される」
この箇所はわかったようでわからないような・・・という感じ。おそらくIntelligenceは体に備わった(先天的?)知能(?)、おそらく「気品」のような日本語に近いのか・・・。それに対してIntellectualは後天的に身につけた知識、教養のようなものなのか。はっきりホフスタッターの意味したものを理解できなかった。

結局、アメリカはヨーロッパの様々な階級的なもの、Ism的なもの、押し付けがましい宗教的なものを避けて逃げてきた人間たちの集団。そしてそれにより資本主義が発展した社会。しかし、アメリカにもIsmが入り込み、知識人たちにより、現在のアメリカ社会が批判され、今まで築き上げられてきた古き良き時代を破壊するものと恐れられ、一般の人々から批判されるようになった、という感じの話(だと思う)。

ホフスタッターによると、知識人は共産主義者と同一視され批判し退けられた、らしい。「赤狩り」にしても本質的に共産主義の思想を恐れていたわけではなく、社会を壊すように思われる分子を排除していただけ、と主張する。


頭がいい人間というのは、様々なものが見える。長期的な視野で物事が見ることが出来るので現状に対して様々な批判的視野、多角的な視野を提示できる。それが、安穏と生きてきた一般人、伝統という名のもとに権益をほしいままにし甘い汁を吸ってきた支配階級、こうした人間たちの驚異の的となってしまう。つまり何も考えたくない人間、人々に何も考えさせたくない人間から嫌悪される。これは当時のアメリカだけでなく、現在のアメリカ、そして現在の日本全体、そして日本の様々な社会組織にもある構造だろう。

このIntroを読んだだけでもすさまじく衝撃的な本だ。

しかしこの反知性主義はアメリカの社会に始めからずっとあったものだということだ。これからそれが論じられるらしい。

ゆっくり読み進めていきたい。
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Thinking, Fast and Slow Part Ⅳ~Ⅴ [学術書]


Thinking, Fast and Slow

Thinking, Fast and Slow

  • 作者: Daniel Kahneman
  • 出版社/メーカー: Penguin
  • 発売日: 2012/05/10
  • メディア: ペーパーバック



Thinking, Fast and Slowを読み終わった。
段々と、彼の論理にもなれてきて、それなりに最後のほうはスムーズに読めるようになった。

この本を読む前に、日本語版のアマゾン・レビューを見ていたら、後半部は専門的になってくるので、第3部まで読めば十分、といった内容のことを書いている人がいたが、実際読んでみてそう思った。

後半部が、そこまで専門的だとは思わないが、後半部は「90%の確率で100円儲かる場合と、100%の確率で50円失う場合でどちらを選ぶか」、というようなどちらに賭けるか、みたいな叙述が続くのだが、私はそもそも賭けはやらない。しかも必ず何かを失うといったような場面を日常生活の状況として想像できない。これは、合理的な判断云々ではなく、人の性質の問題であって、直感や感情の問題でもない気がする。
ノーベル経済学賞を取るくらいなので、それなりに素晴らしい理論を提示した人なのだろうが、後半部は、当たり前のことばかり書いてあり(たとえば、人はリスクを避ける選択をする傾向があるetc.)、正直読んでいてつまらなかった。当たり前のことを理論的に、そしてそれを読んだことによって意識的になれるという側面はあるのであろうが、ここ(後半部)で述べられていることで新しい発見はなかったし、いままで当たり前すぎて意識してこなかったけど、面白い視点だよな、ということもなかった。

非常に前評判の良い本でかなり期待しており、前半部はそれなりに楽しめたのだが、正直、ハウツー本を読むのと私にとっては変わらなかった気がする。

残念!!!!
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Thinking, Fast and Slow Part Ⅰ~Ⅲ [学術書]


Thinking, Fast and Slow

Thinking, Fast and Slow

  • 作者: Daniel Kahneman
  • 出版社/メーカー: Penguin
  • 発売日: 2012/05/10
  • メディア: ペーパーバック



ノーベル経済学賞を受賞者Daniel KahnemanのThinking, Fast and Slowを読んでいる。
Amazonのオススメ機能で知ったこの本。私の読書・検索履歴からオススメしているのだろうが、やはりコンピューターというのは恐ろしい。次々に出されるオススメ本を見ているとどんどん買いたくなってしまう。家からテレビを排除することで、ある程度企業の広告から自分を遠ざけることが出来てはいるが、新聞などに掲載される広告、折り込みチラシ、電車内のつり革広告、とにかく数限りない広告に日々さらされ、自分の欲望をコントロールされている気がする。

まあ、それはそれとして、この本の内容を簡単に言えば、「論理的に考え、物事を決定しているようでいて、人間実は直感的に決定してしまっている」というもの。
論理的に考えること= System 2, 直感的に考えること= System 1として定義している。
我々は普段、System 2で考えているように思われるが、System 2で考えることも習慣化してしまうと、意思決定の際、System 2まで回路が行かずSystem 1、つまり直感で意思決定してしまうというもの。
この本、普通に読んでいると気がつかないかもしれないが、System 1を使って一見すると論理的な意思決定をするためには、そもそもSystem 2を使って答えを出すことが習慣化しているだけの、論理的思考能力・文化的背景・教養などが必要になってくる。様々な設問や具体例を提示することにより我々が以下にSystem 2の回路まで行くことなく、System 1のみで意思決定をしてしまっているのか、ということを示してくれているのだが、そもそもこれはかなり知的な人間でないとそもそも判断できないだろう、というものが多い。読者設定をどこに置くのか、ということとも関係してくるのであろうが、かなり知的な人間達をターゲットにしたものといえるのではないだろうか。

とはいえ、経済学の本にありがちな、様々な計算式等はあまり出て来ず、英語で読んでもかなり内容を理解することが出来る。そして一つ一つが説得力があり面白い。

が、個人的には、私は普通の人よりおそらく悲観的かつ批判的にものごとを見ることが多く、パッと示された数的データなどに対する分析もあまり信用しない、という性質があるので、PartⅡ、Ⅲあたりの話はあまり自分には当てはまらないかな、とおもったりしながら読んでいた。

残りはPartⅣ、Ⅴ。若干専門的な感じになりつつあるので、読みづらくなってくるかなあ、とは思うが、頑張って読みきりたい。
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能・文楽・歌舞伎 [学術書]


能・文楽・歌舞伎 (講談社学術文庫)

能・文楽・歌舞伎 (講談社学術文庫)

  • 作者: ドナルド・キーン
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2001/05/10
  • メディア: 文庫



ドナルド・キーン著『能・文楽・歌舞伎』を読み終わった。この3つの日本の伝統芸能を体系的に、対比などさせながら論じたものなのかと思っていたが、それぞれが別個に書かれたり、講演されたりしたものを、一つの本にしたものだったらしい。

とはいえ、一つ一つの章が非常に面白く、とても細かく調べ上げてあり、勉強になる面が多くあった。

ドナルド・キーンが非常に熱い思いでそれぞれの良さを論じているのだが、それを読んでもやはり「能」だけは面白いとは思えない。台本を見ながら出ないと理解が出来ないほど不明瞭かつ難解な台詞。感情を表に出さない演技、登場人物達の葛藤・対立などがない設定など、現代演劇の感覚からするとありえないような要素がこの「能」の本質らしい。やはり無理な気がする・・・。

一方、「文楽」は非常に面白そうである。分かりやすい台本、計算しつくされた人形の動き、太夫と呼ばれる朗読者の読み方など、現代演劇とは違った様々な面白さが秘められており、こちらは一度は見てみたい。

とにかく西洋の文化で育った著者による、日本の伝統芸能論だけあり、西洋の様々なものとの比較がふんだんにあり、理解がかなり深まった気がする。そして、p145~にもあるように、伝統を重んじながらも、非合理・不条理なあり方に対しては積極的に疑問を呈している部分も素晴らしい。世襲制(生まれ)によって役柄が決められてしまったり、楽師が板の間にじっと座り続けなければならないことにたいして、「やがて能力のあるものにすべての役柄が開かれることが必要となるかも知れず、さらに地謡の者のためにもより楽な坐り方が必要となろう。(p.146)」と言っている。

日本の伝統を愛しながらも、客観的にこうしたものを見られる人物の貴重な意見といえるだろう。

日本のスポーツ界、政治界、他様々なくだらない不条理・非合理な伝統を保持している団体はこの本を読んで、様々なことを考え、積極的に改革していくべきであろう。


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