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ゲーデル、エッシャー、バッハ [学術書]


ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

  • 作者: ダグラス・R. ホフスタッター
  • 出版社/メーカー: 白揚社
  • 発売日: 2005/10/01
  • メディア: 単行本



『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を読み終わった。700ページを超える2段組の本で、昨年の9月頃から読み始めたと思うので、ほぼ一年間かかってしまった。

簡単にいえば、偉大なフーガ作曲家バッハ、とだまし絵的な絵を描くエッシャー、そして「不完全性定理」を提唱したゲーデルの三者の共通部分を語りながら、人間の脳や精神、AIの未来を考えたもの。

この本のテーマは、「無限」だ。簡単に言えば、今考えている自分が、本当に考えているかを考えるためには、メタレベル(一個上のレベル)の自分がいる。そしてそのメタレベルの自分が本当に考えているかを考えるためにはさらに一個上のレベルの自分がいる。これは無限に続いていく。これを音楽で表したのがバッハであり、絵で表したのがエッシャーであり、言葉で表したのがゲーデルということだ。AI、つまり自ら思考できるロボットは可能か、ということを考える際に、人間が自由意思を持って思考できることを前提に我々は考えるのだが、そもそも人間は自由意思を持っているのか、シェイクスピア的に言えば、「この世はすべて舞台」つまり、我々も我々の上位にいる何かによって、考えさせられているのではないか、というもの。そう考えると、「AIは思考できるのか」という問いが、違った角度から考えられるのではないか、と提案した本なのではないかと思う。

アキレスと亀と蟹の対話である小説的な部分と、数式、プログラミング言語をふんだんに用いた説明書きの部分が順番に登場し、読みにくいながらもある程度読みやすい作品になっている。

この本はピュリツァー賞をも受賞しているらしい。
確かに一度読んでみる価値はある本だ。が、トマ・ピケティの『21世紀の資本』や、マルクスの『資本論』などとともに、そこまで長く書かなくても、ポイントを簡潔に述べればもっとわかりやすいのに、と思ってしまう。でも、説得力あるものにするためには、論理を精密に構築していかなければならないということなのだろう。

AIに興味があり、時間に余裕がある人は読んでみても良いのではないだろうか。
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社会学的方法の規準 [学術書]


社会学的方法の規準 (岩波文庫 白 214-3)

社会学的方法の規準 (岩波文庫 白 214-3)

  • 作者: エミール・デュルケーム
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1978/06/16
  • メディア: 文庫



『社会学的方法の規準』を読み終わった。
まさに、「社会学」という学問を研究するに当たり、どのような姿勢で臨むべきかという規準を述べた著作。
社会学の研究の際は、個人の心理を考慮すべきではなく、事実を物として扱うべきだという主張は確かにその通りだと思う。
他、様々なことに関してとても説得力があり、具体例も豊富で分かりづらくはない。
とはいえ、やはり、社会学ということ自体に興味がないのか、あまり面白くは感じなかった。
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中世の秋Ⅱ [学術書]


中世の秋〈2〉 (中公クラシックス)

中世の秋〈2〉 (中公クラシックス)

  • 作者: ホイジンガ
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2001/05/10
  • メディア: 単行本



『中世の秋Ⅱ』を読み終わった。というよりページをめくり終わった。
Ⅱ巻は宗教、芸術など自分の興味あるテーマが多く収録されているのだが、やっぱりおもしろくない。正直、具体例が多すぎ、結局それぞれのテーマに対して中世はどのような特徴を持っていたのかよくわからない。まあ、自分がちゃんと読んでいないからなのだろうが・・・。

そして「あとがき」のようなところを見ると、ルネサンスと中世の大きな断絶を描いた作品らしいのだが、正直そこはほとんど伝わってこなかった。

とはいえ、いつの時代も、形を重視するのだなあということだけはわかった気がする。

中公クラシックス・シリーズは昔マキャヴェリの『君主論』も買って読んだのだが、正直つまらなくてほとんどページをめくるだけに終わってしまった。

中公文庫のクラシック作品は非常に読みやすいのに、中公クラシックス・シリーズは非常に読みづらい。これは作品自体に起因するのか、訳に起因するのか。どちらなのだろう。
なんにしろ、クラシックス・シリーズは高価なので、これからもあまり買わないであろう。
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中世の秋Ⅰ [学術書]


中世の秋〈1〉 (中公クラシックス)

中世の秋〈1〉 (中公クラシックス)

  • 作者: ホイジンガ
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2001/04/10
  • メディア: 単行本



『中世の秋Ⅰ』を読み終わった。
これも、仕事の関係で知るまでは、全く知らない本だった。ホイジンガという作者すら知らなかった。
「暗黒の中世」と呼ばれるほど、よく分かっていないとされている中世社会を様々な角度から論じた作品。

中世の人々の心情、君臣関係(身分社会)に関すること、騎士道精神のこと、恋愛に関すること、死に関することなどが論じられているのだが、具体例が次から次へと繰り出され、はなしが色々と発展していくので、個人的には非常に読みづらく、話の要点がつかみづらい。はじめに、テーマに関する主張、その具体例、最後に結論、のような形ですべての章が書かれていたらもっと分かりやすいのになあ、などと考えてしまった。

おもしろかったのは第2章の、「美しい生活を求める願い」
そのなかで、「より美しい世界を求める願いは、いつの時代にも、遠い目標をめざして三つの道をみいだしてきた」という部分。(p.73)
その三つとは、
①世界の外に通じる俗世放棄の道
②世界そのものの改良と完成をめざす道
③夢見ること

①の道は、キリスト教世界では人々の心に強く刻印されてきたものであり、第二の道に進むことを阻んできたとする。なので、フランス革命などが起こるまでなかなか社会の抜本的改革が行われてこなかったのであろう。そして中世は③の道が文化を大きく規定していたとホイジンガは言う。そしてこの「夢見る」ということが、中世社会の様々な側面に影響を与えたというのが、この本の趣旨なんだと思う。

とにかく分かりづらい本であり、かなり退屈だが、中世をそれ以前の社会とルネサンスをつなぐものとして捉え、論じており、それなりに得るものはあった気がする。

『アーサー王物語』を読んだとき、意味の分からない行動が多く、理解できない部分が多かったのだが、この本を読むと、アーサー王の時代に生きた人々が、様々な形式を重視し、その決まりの中で行動してきたことがわかる。

この本を読んでから、「アーサー王」などの騎士道物語を読むとより楽しめるのではないかと思う。

Ⅱ巻もたいして期待はしていないが、せっかく買ったので読もうと思う。


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暇と退屈の倫理学 [学術書]


暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

  • 作者: 國分 功一郎
  • 出版社/メーカー: 太田出版
  • 発売日: 2015/03/07
  • メディア: 単行本



『暇と退屈の倫理学』を読み終わった。筆者の國分功一郎さんのことは、新聞などで知っていた。面白い意見を言うひとだなあ、という印象は持っていたが、著書を読んでみようとはおもっていなかった。今回、仕事の関係で読むことになるまでは、タイトルすら知らない本であったし、たとえ知っていたとしても手にとって目次を眺めようとも思わなかったであろう。

読んでみて・・・

非常に面白かった。
人は何故「退屈」するのか、ということを、様々な観点から論じており、その一つ一つが非常に納得できた。我々がどうしても同一視してしまいがちな「暇」と「退屈」を分けて論じているのも良かった。
ラッセル、アドルノ、モリス、パスカル、ニーチェ、ボードリヤール、ルソー、アレント、マルクス、ハイデガーほか、様々な歴史上の哲学者・思想家の考え方を元に、自分なりの答えを導き出していく手法は本当に、読んでいて面白かった。

本の内容は多岐に渡っており、ここでは簡単に述べられないので、書かないが、結論部分がとても真摯だ。「ネットをちょっと見れば何でもわかるし、色々なことが解決できる」という人が、私の周りには大学時代、大学を卒業してからもたくさんいる。そういう主張をして、時間をかけて物事にじっくり取り組もうとしない人々に是非読ませたい部分を紹介する。

p.351
「いまこの結論を読んでいるあなたは本書を通読した。本書を通読することによって、暇や退屈についての新しい見方を獲得した。~中略~
 それこそが、〈暇と退屈の倫理学〉の第一歩である。自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間においては、何かが変わるのである。本書を読むこと、ここまで読んできたことこそ、〈暇と退屈の倫理学〉の実践の一つに他ならない。
 だから、正確には、あなたは既に何ごとかをなしている、と言うべきかもしれない。」
p353
「以下、これまでに得られた成果をまとめ直し、〈暇と退屈の倫理学〉が向かう二つの方向性を結論として提示する。ただし、それら二つの結論は、本書を通読するという過程を経て、はじめて意味をもつ。」

手軽に仕入れた情報はすぐに忘れる。しかし、しっかりと考え、時間をかけて得たものは自分の中に残っていく。

最後に、非常に逆説的だがおもしろい一節を紹介して終わりたい。

p339
「だが、単に「考えることが重要だ」と言う人たちは、重大な事実を見逃している。それは、人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実だ。」

人間は考えることで、思考することで、動物になるのだ。

最後の一文の意味がわからない、でもどういうことか知りたい、という人は、是非この本を読んでみてほしい。
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遊びと人間 [学術書]


遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

  • 作者: ロジェ カイヨワ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1990/04/05
  • メディア: 文庫



ロジェ・カイヨワ著『遊びと人間』をよみ終わった。
この本も仕事の関係で読むことになった本なのだが、恥ずかしながら聞いたこともない本だった。
「遊び」という観点から様々な文化を見ていこうという本で、今まで考えたこともないような視点だったのでかなり新鮮な気持ちで読めた。

カイヨワは遊びを4つに分類する。
1.競争 アゴン
2.運  アレア
3.模擬 ミミクリ
4.眩暈 イリンクス
1のアゴンは、「かけっこ」からプロ競技などの「スポーツ」
2のアレアは、「じゃんけん」から「宝くじ」
3のミミクリは、「ごっこあそび」から「演劇」
4のイリンクスは、「メリー・ゴーランド」から「サーカス」
といった感じで、こどもの遊びから、お金のかかる文化的なものまでを考察の対象としている。たしかに色々と考えると、この4つに分類されるなあ、という感じで、本当にうまく分類したものだと思う。

そして、これは様々な共同体の文化段階にも対応していて、まだあまり文化の発達していないところでは、ミミクリとイリンクスが、文化が発達してくるとアゴンとアレアが表に出てくると指摘している。
特にミミクリの代表例としてお面を被るということを指摘している。
昨年末に読んだ、『蠅の王』の中で、無人島に取り残されてしまった子ども達が、文化的な共同体を捨て、野生化していく中で、自分の顔に何かを塗って変装するようになるのだが、この過程はまさに、カイヨワの指摘している通りだと思った。

この本に書かれていることを現在の自分の思考の中に組み込んでいくのはなかなか難しいが、視点としては面白いし、いつか何かを考える際の役には立ちそうだなあ、と感じた。

講談社学術文庫だけあり、そんなに読みやすい本ではないが、文化を新しい視点で考えてみたいという人にはうってつけの本だと思う。

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現代思想の教科書 [学術書]


現代思想の教科書 (ちくま学芸文庫)

現代思想の教科書 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 石田 英敬
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2010/05/10
  • メディア: 文庫



『現代思想の教科書』を読み終わった。
ラジオ放送における講義を文章化して出版した本らしく、一つひとつの構成から全体の流れまで、非常によくできており、とても分かりやすく読みやすい本だった。

現代思想の土台となっている考え方(その考え方を打ち出した思想家)をまず、紹介し、それが現代社会とどうつながっているのかということを説明し、最後はそのことについて一人ひとりがどのように考えていくべきなのか、というところまで持って行って終わる。
学問の王道というか、物事を考えて行動していくために必要な技術、方法のようなものも、この本を一通り読むとわかるような作りになっている。

結論としては、様々な分野を横断して、考え・行動でき、そのあいだの関係性を埋めていける人間こそが、これから求められる知的人間だ、ということだ。
最後の結論部分がわかったようなわからないようなという感じで、最後が若干残念な感じだった。
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ヴェニスの商人の資本論 [学術書]


ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 岩井 克人
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1992/06/26
  • メディア: 文庫



『ヴェニスの商人の資本論』を読んだ。
これは、表題の論文を含む、論文集で、資本主義・貨幣と媒介・不均衝動学・書物と大きくわけて4つの事柄について筆者がいろいろなところで発表した論文が収められている。

さすがに表題にするだけあって、「ヴェニスの商人の資本論」は面白かった。
シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の物語の筋にだいたいしたがいながら、登場人物達の人間関係を資本主義的・経済的に分析していく。なるほどなあ、と思わせるところが多かった。

が、ほかの論文は、経済についてかなり噛み砕いて分かりやすく説明してくれているのであろうが、やはり自分自身が経済にあまり興味がないので、あまり面白さを感じなかった。

トマ・ピケティの『21世紀の資本』もこの「ヴェニスの商人の資本論」もそうなのだが、文学作品と経済問題を絡めて論じてくれると非常に興味深く読み進めることが出来るのだが、経済問題だけを単発に取り上げられて論じられても、あまり面白さを感じられない。

せっかくなら、様々な文学作品から経済を読み解く、といった一冊の作品があればよいのになあ、とおもってしまった。
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文学のプログラム [学術書]


文学のプログラム (講談社文芸文庫)

文学のプログラム (講談社文芸文庫)

  • 作者: 山城 むつみ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/11/10
  • メディア: 文庫



『文学のプログラム』を読み終わった。これも仕事上読んだ本だが、おそらく仕事でなければ決して読まなかった本であろう。さらに言えば、講談社学芸文庫というシリーズの存在は知っていたが、この本を読むことがなければ、決して買いもしなかっただろうし、手にとって見ることもなかったシリーズである。

非常に刺激的な本だった。
全部で4篇論文が収められており、
①小林秀雄
②坂口安吾
③保田與重郎
④日本語における読むことと書くことについて。訓読と音読
がそれぞれテーマになっている。
①では、「批評=創作」である、という一見すると成り立たないようなものを、小林秀雄のドストエフスキー論を例に取り、論じている。小林秀雄はドストエフスキー論を書いていたが、途中で挫折してしまった。それは、「作者が答へなかつた事を、僕が答へてはならない」という批評ということでいえば、ありえないような考え方が彼の中で起こったからだという。そしてこの一見ありえないことが起こっている時期に書かれたドストエフスキー論こそが、本当の批評になっている、と筆者は言っているのだ。詳細は是非本論文を読んでほしい。
②でも、逆説的なことが主張される。坂口安吾は東京大空襲の戦火の中で、戦争の美しさを感じた。これは湾岸戦争に関してメディアが流す戦争の美しさを我々が感じるのと同じだ。そしてその美しさを感じたからこそ、つまり美しさを感じてしまう自分にうしろめたさを感じるからこそ、戦争に対する何かを書くことが出来るのだ、と主張するのだ。文化人や知識人の政治参加、ということが認められるのかという問い自体が、不毛であり、文学も芸術もそして知識人が放つ様々な言動も、政治的現実にコミットする力がある。しかし、完全に外から意見を述べるのではなく、中にいてその美しさを知っているからこそ、その言葉や作品に力が生まれるのだ、ということなのだと思う。
③も基本は②と同じである。保田與重郎が「万葉集」を論じた批評を発表した。これはまさに日本が第2次世界大戦に突き進んでいく時期と重なっていた。彼は右翼的知識人だと考えられているが、当時は右翼的政治家に危険思想の持ち主だと考えられていた。彼も、天皇制について、天皇の不可侵性について強く考えていたからこそ、「万葉集」を題材に、当時の日本の状況を批判できたのだ。しかも彼はその作品を当局に送っているのだ。結局、何かを批判するためには、その状況に深くコミットする精神性がなければならないのだ、ということを主張している(のだと思う・・・)。
④は、漢文の訓読というものは、漢文を読むためのものではなく、話し言葉を書くために考案されたものなのだというもの。目から鱗とはまさにこのこと。『古事記』ももちろん、口頭伝承だったものを書くことによって後代に伝えていこうという意図があったのであろうが、これは書き言葉の統一を目的としたものだったのではないか、という主張は非常におもしろい。

とにかくすべてが新しく、刺激的だった。
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無限の果てに何があるか [学術書]


無限の果てに何があるか 現代数学への招待 (角川ソフィア文庫)

無限の果てに何があるか 現代数学への招待 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 足立 恒雄
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2017/02/25
  • メディア: 文庫



文系の知的層に向けて書かれたらしい、現代数学の解説書『無限の果てに何があるか』を読み終わった。

筆者もプロローグで書いているが、できるかぎりやさしく書いてはいるものの、寝転がって読み飛ばせるというような軽い読み物ではない。お手軽な解説書の類ではない。なので、数式も多数出てきて、その一つ一つに細かい説明が付いていないので、専門的な数学の話しの部分は良くわからないが、それを通して数学界、数学というものがどうなっているのか、ということは何となくわかった。

『フェルマーの最終定理』は数学者のエピソード中心だったので、結構わかりやすかったが、こちらの本は数学とはどのように発展してきて、現在の形になってきたのか、ということを本当に数学的に述べているので、お手軽とはいえない。

が、この人の若干偉そうな語り口等、とても面白く、確かにある程度の知的な文系の人間であれば読みすすめられる本であろう。

とはいえやはり難しかった・・・。
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化学の歴史 [学術書]


化学の歴史 (ちくま学芸文庫)

化学の歴史 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: アイザック・アシモフ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2010/03/12
  • メディア: 文庫



アイザック・アシモフ著『化学の歴史』を読み終わった。普通、こういった本は『化学の歴史』と書いてあっても、『歴史』になっていなかったり、歴史全体を外観できるようになっていなかったりするのだが、まさに題名通りの本だった。

とはいえ、これが教科書的か、というとそんなこともなく、最後まで結構楽しんで読めた。特に化学者一人ひとりにスポットを当てて論じているわけではないので、非常に客観的で淡々と話は進むのだが、何故か楽しんで読める。理由はわからない。このアシモフという人は、化学者であるとともにSF作家でもあるらしいので、読者を楽しませる方法を知っているのだろう。

ギリシア時代から始まる「錬金術」という怪しげなものが、どのように科学的な「化学」に発展していったかが非常に細かく綴られている。

最後の方は理解しきれない部分も多かったが、本当に面白い本だった。

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ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性 [学術書]


ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性: 世界システムの思想史

ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性: 世界システムの思想史

  • 作者: 植村 邦彦
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2016/06/17
  • メディア: 単行本



『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性』を読み終わった。
図書館でオススメ図書のところに並んでいた本で、「ローザの子供たち」という部分がなかったら決して読まなかったであろう本である。

私はあまり経済に興味はない。しかし「マルクス」「ローザ・ルクセンブルク」には思想的に興味がある。
ローザ・ルクセンブルクは昔からずっと気になっている人物なのだが、なかなか手に取りやすい本がなく、ほとんど接してこなかった。そんな中、この本を図書館で見つけた。
目次をみると、序章が「ハンナ・アーレントとローザ・ルクセンブルク」とある。どちらも気になる人物なのでこの二人を結びつけるものは何なのかと思い借りてみた。

 内容を簡単に言えば、「資本主義」というものは本質的に「剰余」のものを蓄積するためには、資本主義社会以外の購買者の一群を必要とする、というものだ。
 資本主義が発達するためには、商品の購買者、また原材料の供給者として「資本主義的領域の外部」を必要とする、ということだ。資本主義の発達初期は、自国内で労働力や原材料を確保できるかもしれないが、発展すればするほど、労働者や原材料を必要とするようになり、それがどんどん世界に広がり、ついには、労働力と原材料を確保できる余地がなくなる、とローザ・ルクセンブルクは100年以上も前に予想していたのだ。

 彼女の指摘は当時はあまり注目されなかったが、戦後資本主義が発展するにつれ彼女の指摘の正しさが証明されるようになり、南米やアフリカの(を研究する)経済学者から注目されるようになる。それが、フランク、アミン、ウォーラーステイン、アリギ、といった人物たちだ。

 なかなかこの本全体の内容をここで述べるほど私は経済に詳しくないし、頭が整理されていないのだが、資本主義というのは「中心部」と「周縁部」に常に分かれており、周縁部が中心部に発展していくことはない、という主張は納得した。つまり、発展途上国が、どんなに頑張っても、先進国が様々な形で様々なものを搾取している限り、先進国と同じようにはなりえないのである。

 この本の結論にあるように、「経済成長」を求めるのではなく、「助けあい」や「救いあい」をベースとした「定常化社会」を求めるべきなのではないかと思う。

 私が日頃から考えていることにかなり合致した本であり、理論的に説明してくれた本で、とても参考になった。

被抑圧者の教育学 [学術書]


被抑圧者の教育学―新訳

被抑圧者の教育学―新訳

  • 作者: パウロ・フレイレ
  • 出版社/メーカー: 亜紀書房
  • 発売日: 2011/01/19
  • メディア: 単行本



パウロ・フレイレというブラジル人の『被抑圧者の教育学』を読み終わった。どこでどういう形で目にしていたのかは良くわからないが、結構この本の名前を目にすることが多く、ずっと読みたいと思っていたのだが、なかなか読まずにいた。

原題がどのような意味なのかはわからないが、想像していた本の内容とは若干違っていた。
「銀行型教育」vs「問題解決型教育」が主題となっており、前者はいままで行われてきた教育、後者が筆者が提唱する教育だ。いま流行のアクティブ・ラーニング系の話が展開されるのかと思っていたが全く違った。

基本的には、抑圧されている人々が、自分の置かれている状況をまず認識し、その状況を改善するよう努力し、より良き社会を目指していく、その過程をたどらせるためにはどのようにしたら良いのか、ということがひたすら述べられている。
これは真の意味でも「革命」をもたらすためには、まず被抑圧者たちと対話を重ね、彼らを人間として現状から解放してあげる必要があるということがいいたい本なのだと思う。
なので、教育学の本というよりは、「真の意味での革命を達成するために必要なことは何か」ということが書かれている。直接的には書かれていないが、チェ・ゲバラこそ彼の考える理想の革命のリーダーなのだろうと思う。

かなりフランクフルト学派、特にフロムに影響を受けている本で、銀行型教育、つまり支配者による愚民化政策を根本にした教育によって、人々は権威主義的パーソナリティを有するようになり、自由から逃走するようになり、物事を思考しなくなり、物のような状態で生きることになってしまう。

その状況を打破するためには対話により人々の心を解放し、真の自由への思いを喚起し、革命を起こすことが必要だと訴えている。

最後には自由の裏には権威が必要であり、自由は放縦とは違うのだということが強調されている。

確かに刺激される部分は多かったが、繰り返しが多く、もう少し具体的な方法論があると良かったように思われる。

大人になるためのリベラルアーツ [学術書]


大人になるためのリベラルアーツ: 思考演習12題

大人になるためのリベラルアーツ: 思考演習12題

  • 作者: 石井 洋二郎
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 2016/02/25
  • メディア: 単行本



あるセミナーに参加して紹介されたこの『大人になるためのリベラルアーツ』という本を読み終わった。
東京大学で行われた少人数対話型の授業の記録であり、今流行の「アクティブ・ラーニング」を意識した授業らしい。
あるテーマを掲げ、教員二人と大学院生アシスタント二人、後は大学生で対話をする、という授業内容。とても新しいことをやっているっぽく見えるが、自分が大学時代ゼミでやっていたことと対して違いはない。
大学のゼミというのは概してこのようなことをやっているのではないのか、とずっと思っていたのだが、もしこういった授業形態があたらしいのだとしたら、今までの大学ゼミというのはどのようなものだったのか、と思ってしまう。
議論を始める際に、テーマに掲げられた言葉一つ一つを吟味し、深く掘り下げていくというものなのだが、正直議論をするのにあまりにも当たり前のやりかただ。
とはいえ、日本においてはこんな基本的なことも新鮮なのであろう。

これを読んで、あらためて、自分は大学時代良いゼミにいたのだなあ、と思った。

人と思想 アドルノ [学術書]


アドルノ (Century Books―人と思想)

アドルノ (Century Books―人と思想)

  • 作者: 小牧 治
  • 出版社/メーカー: 清水書院
  • 発売日: 1997/10
  • メディア: 単行本



 清水書院から出ている「人と思想」シリーズは、大学時代から愛読、愛用してきた。哲学者や文学者、活動家などの生涯や思想を簡単にまとめてくれているのだが、その内容はそれなりに深く、その人を知るにはとっておきの本だからだ。

 去年の年末から今年の年頭にかけて、軽くて興味を広げてくれるような本はないか、と家の本棚をぼんやりみつめていたところ、去年の年末から「フランクフルト学派」に若干興味をひかれており、もう一度この『アドルノ』を再読してみようかと思い、読んでみた。

 この本を最初に読んだのは、おそらく大学時代だったと思う。「音楽と哲学」をテーマとしており、しかもナチス時代のユダヤ人、ということで大学の時かなり興味を持っていたのだが、指導教授に「アドルノは難しいから止めたほうが良い」といわれ、一応どんな人なのか概要を知りたいと思い買って読んだんだと思うのだが、当時は難しすぎてほとんど理解できなかった覚えがある。

 しかし、あれから約15年が経ち、アドルノの著『不協和音』『音楽社会学序説』も読み、様々な社会経験も積んだ今結構理解でき、かなり共感できるところが多かった。

 とはいえここで彼の思想を簡単に紹介するのは難しい。この本を書いた小牧治氏もあとがきに、「「要約不可能」といわれるアドルノの「人と思想」の要約にあえて挑戦」と書いているとおり、はなはだ無理な話だ。しかし何故私が彼になんとなく心惹かれるのか、その理由がわかる箇所をこの本から引用しておきたい。

p.p.196~197
「芸術は、社会に対立することによって社会的となるのであり、しかも芸術が自律的なものなることによってはじめて、こうした対立的態度をとるようになる。
  「芸術は現存の社会的規範に従ったり、〈社会に有用である〉ことを証明する代わりに、それ自体が独自のものとして結晶することによって社会を批判する」(『美の理論』
自律的芸術は、こうした非社会的側面、社会の拒否、自らの社会的抵抗力を通してのみ命脈を保つのである。」

p.202
「彼の哲学が、体系化・一般化・固定化をこばみ、個別的・特殊的・極微的なものに心を配る要約しがたいものであること、非妥協的な意識の哲学であり、管理された全体を虚偽とする非体系的・箴言的な無調の哲学であることは、まさに彼の、そして彼流の音楽的・芸術的センスに基づくといえよう。」

 私は物事を何でも類型化して要約してしまうような現代の社会学的・心理学的アプローチが嫌いだ。「~は・・・のタイプだから」とかいうことばや、血液型で人間を類型化するような考え方が大嫌いだ。さらに権威に寄り添う考え方も嫌いだ。「これは~が紹介していたものだから」などということばには自分で思考したかけらもない。そして体制にのみこまれ、現実世界のほころびや矛盾に目を向けようとせず、現状に甘んじているくせに、裏で愚痴をいい権威に対して何の批判もしないようなやつがゆるせない。
 アドルノの哲学は「批判哲学」というらしい。彼はマルクスはもちろん、ニーチェにも惹きつけられていたらしい。私もこの3者のすべての思想に共感するわけではないが、それぞれに強く心惹かれる。何故なのか、今までは良くわからなかった。しかし、この本を読んでよくわかった。

 常に現状をよく見つめ、問題点を捉え、それに対して敢然と批判する、しかし安易な答えを提示せず、じっくり考えるように促す形で。これは私が常に考え実践してきたつもりのことである。私はこの3者にはとうていかなわない。しかし彼らが根本に持っている上記のような姿勢が自分の姿勢とぴったりくるのではないだろうか。だからこんなにも難解な彼らの思想に強く惹かれるのではないか、とわかった。

 ここ数年、物事をじっくり考えることが少なかったので、今年はもう一度、マルクスやアーレントなどの本を読み、自分を鍛えたいと思う。

The Having of Wonderful Ideas [学術書]


The Having of Wonderful Ideas: And Other Essays on Teaching And Learning

The Having of Wonderful Ideas: And Other Essays on Teaching And Learning

  • 作者: Eleanor Duckworth
  • 出版社/メーカー: Teachers College Pr
  • 発売日: 2006/11/15
  • メディア: ペーパーバック



The Having of Wonderful Ideas by Eleanor Duckworth
授業で扱った文章で、興味を持って買って読んでみた。

1. The Having of Wonderful Ideas
 子どもの素晴らしい発想を引き出すにはどうしたら良いのか、ということを論じたもの。ある事象に対して自分でいろいろ考え、類推し、新しい(と本人たちは思っている)結論を導くにはどのようなアプローチをすれば良いのか。
もちろん考えるための基本となるような最低限の知識は必要だが、あとは子どもたちにじっくり考えさせ、自分で結論を導き出させるのが良いのであり、教科書の解説書に書かれているようなやり方にとらわれず、新たな発想を受け入れる心のあり方が教師には必要なのだ、という。
自分で考え、結論を導き出すような訓練をした子どもは、その後も新しい発想をする可能性が高く、知性を伸ばしていく可能性も高い。つまり子どもを知的にしたければ、素晴らしい発想をすることを手助けしてあげることなのだ。そのためには、大人が一方的に結論を与えて覚えさせたり、道具を与えてやらせてもしょうがない。

 私は機会があるごとに今の職場で彼女が主張するようなことを実践し、主張してきたが、なかなか受け入れられない。日本の教育も国際バカロレアだの、アクティブ・ラーニングだの言っているが、教員や、それを推進している文部科学省の役人達がそれらの考え方をしっかりと内面化させない限りうまくいかないであろう。
 
 以下印象的だった箇所を引用しておきたい。
Having confidence in one’s ideas does not mean “I know my ideas are right”; it means “I am willing to try out my ideas.” (p.5)
「自信を持つということは、「私の考えが正しい」と思うことではなく、「考えを試してみよう」と積極的に思えることだ。」
これは非常に示唆に富んでいる。日本人は自分の意見ばかり主張して、相手の意見を冷静に聞こうとしない。そして少しでも批判されると感情的になる。それは根本的に、「自分の考え方は正しく、絶対的なのだ」という考えがあるからであろう。特に教員や官僚、政治家に見られる精神構造なのだと思う。こうした大人からこうした精神構造を変えていかないと教育改革など決して成功しないだろう。
I see no difference in kind between wonderful ideas that many other people have already had, and wonderful ideas that nobody has yet happened upon. (p14)
The more we help children to have their wonderful ideas and to feel good about themselves for having them, the more likely it is that they will some day happen upon wonderful ideas that no one else has happened upon before. (p.14)
 「”素晴らしい考え”というのは、既存のものであろうが、全く新しいものであろうが、関係ない。子供互が素晴らしい考えを持てるよう促し、彼らがそうした考え方を持って良いのだと思わせればそれだけ、全く新しい考えが生まれる可能性が高くなる。」
 本当にその通りなのだと思う。ある程度の規律の中でどれだけ子供たちの自由・自主性を伸ばしてあげられるかが教育の成功の鍵となるのではないだろうか。

2. The Language and Thought of Piaget, and Some Comments on Learning to Spell
 言語と思考の関係を考察したもの。「言語は思考を表現したものだ」と言われることもあるが、必ずしもそうではない、ということを言っている。
 人は言葉を発する前から、思考、試行錯誤しており、大人が外から見ているような、物と言葉の一致が子供の中で起きているとは限らない。結論としては、型を教え込んでも思ったような成果は得られず、自分で試行錯誤しながら見つけたものが本当の意味で身になっていくといった内容。
 
正直、わかったような、わからないような感じではあったが、自分で試行錯誤し、深く思考したものが体に染み付いて使えるようになるという箇所には同感だ。これも日本の教育に非常に欠けている部分であろう。

以下、印象的な箇所を。
 Words that people hear – and the younger the child is, the stronger the case – are taken into some thoughts that are already in their minds, and those thoughts may not be the ones the speaker has in mind. (p.22)
「人々はこちらが意図した意味で言葉を解すとは限らない、特に小さい子の場合には」といった感じだろうか。これは教育者としてだけではなく、一人間として常に考えておかなければならないであろう。同じ言葉を使っても、誤解が生じるのだから、多言語を用いたらなおさらであろう。よく「英会話ができない」とか、「自分の意思を英語で伝えるのがむずかしい」という言葉を聞くが、多くの人は日本語でも自分の意思、意図を相手に伝えきれていないのではないか。
 Teaching linguistic formulas is not likely to lead to clear logical thinking; it is by thinking that people get better at thinking. (p.25)
 「人びとをロジカル・シンキングに導くものは、言語の規則を教えることではなく、考え(させ)ることなのだ。
 
3. Either We’re Too Early and They Can’t Learn It, or We’re Too Late and They Know It Already: The Dilemma of “Applying Piaget”
 ピアジェの発達段階論を批判的に論じたもの。年齢に応じて出来ること出来ないことがあるのか、年齢ごとに出来ることに限界があるのか、といった疑問に対して様々な実験を重ね答えを出そうとしている。
 基本は、ピアジェの言うとおりだ、と認めているのだと思う。が、ピアジェもだから年齢以上のことを与えるなと言っているわけではない。結局、子どもが自分で考え、自分で試し、自分で失敗し、自分で身につけたものが、残っていき、それが大きな成長につながるといったような内容。

印象的な部分の引用。
 What he(Piaget) found significant is that in every case where acceleration takes place, it results from a conflict arising in the child’s own mind. It is the child’s own effort to resolve a conflict that takes him or her on to another level. (p.39)
 上の内容をまとめた箇所だ。

4. A Child’s-Eye View of Knowing
 子どもに物の「概念(concept)」を教えるべきか、というのがテーマ。というより、子どもは物の概念をわかっているか、ということを、教師側が知ることに意味があるのか、ということがテーマ、なのか・・・。
 いわゆる、「物事を理解している、わかっている」=「その物の概念がわかっている、言葉で説明できる」という一般的に持たれているであろう説に異を唱えた論文なのだと思う。
 「物事がどのようなものであるか」ということを教師側が言葉で説明して、子どもたちに理解させる、という教育手法があるが、これでは子どもたちはそのものを体に落とし込むことが出来ず、理解しているとは言い難い。だから実験などを通し、子どもたちが観察、実験を重ね、自分の頭で、自分の体で、自分の力でその物を理解することが大切だという主張だ。それによって子供たちの学ぼうとする内面も育つというものだ。

 とても面白い主張だとは思うが、帰納法と演繹法ではないが、教育的にはどちらのアプローチもあっていいのではないか、と個人的には思う。

5. The Virtues of Not Knowing
 一般的に「テスト」というのはどれだけ「正しい答えを知っているか」を測るものだが、教育界では、この「どれだけ正しいことを知っているか」ということが過大評価されているのではないか、ということを論じたもの。
 どのように理解されているのかということをテストで測るのは難しいし、理解されていれば結果として正しい答えが出るので、正しい答えをどれだけ知っているかを測れば、理解しているかも測れるかもしれないが、深く考えれば考えるほど、テストの点数は低くなってしまうというジレンマもある。
 結論としては、「既に知っている」ということは、本当に評価するべきものではなく、「知らないこと」に対してどのように対処するか、ということこそ本当に評価するべきものだ、という主張。
 
これは、半分同意するが、半分同意しない。私は、テストというものに対して重きを置いていない。
 テストは、教えたことをちゃんと理解しているか、をチェックするためだけのもので、たいしたものではない。点数が悪ければ、点数を取れなかった部分をもう一度やり直せばいいものであり、その子どものある側面を点数化したものにすぎず、重きを置くべきものではない。授業でしっかりと考え、授業中にいい意見を出す子どもでも、テストの点数は悪いという子はたくさんいる。しかし、この子は限られた時間の中で求められている正しい答えを出すのが苦手なだけであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。
そして「教育には評価が必ずなくてはならない」と主張する人がいるが、これにも全く同意しない。教育とは「子どもたちがより良くいきるため」に行うものであり、子どもがどのように成長していったか、ということを外部から評価する必要などまったくない。
 子育てもある意味教育の一環だが、その保護者がしっかりとした教育を行っているか、ということをテストなどで数値化したり、何らかの評価を下したりすることはめったにない。何故学校教育だと、子どもを評価しなければならないのだろうか。日本のかつての寺子屋や、ヨーロッパ等の家庭教師などで、「評価」というものがあったのだろうか。もちろん、教えたことをちゃんと覚えているかの「暗唱テスト」の類はあったであろうが、それをA,B~、5,4~などと評価していたのだろうか。
 正直、テストや評価に重きを置くこと自体が、教育の本質から大きく外れているのではないだろうか。

 最後に印象的な部分の紹介。
 The courage to submit an idea of one’s own to someone else’s scrutiny is a virtue in itself – unrelated to the rightness of the idea. (p.67)
 「人前で自分の意見を表明する勇気は、それ自体ある種の美徳だ、その考えが正しいかどうかとは関係なく。」
 本当にその通りだと思う。

6. Learning with Breadth and Depth
速く、早く、学んでもそれは土台のしっかりしていない場所に建物を建てるようなもので、深く、幅広い土台を作ることが、発展的な思考をうむ、という主張。
 深く、幅広い土台を作るためにはどうしたらよいのか。それは物事を関係付けることである。物事を関係付けて考えられるようになるにはどうしたらよいのか。自分で試行錯誤し、考えるしかない。

 ここまで読んで、(当たり前なのだが)筆者の主張は一つであり、「教育に重要なのは、自分の頭で考え、試行錯誤し、結論を導くことだ」ということだ。常にこれしか言っていない。
当たり前の主張なのだが、この日本ではまったく当たり前ではない。早期教育に多くの親が躍起になり、専門教育をひたすら推進し、ひたすらテスト(どれだけ覚えているか)の点数にこだわる日本。何なのだろうか・・・。

これ以降基本的に「子どもが自ら考え、答えを導き出すプロセスが大事」ということを、いろいろな実験を紹介しながら論じたものばかりなので、詳細は省く。
7. Understanding Children’s Understanding

8. Structures, Continuity, and Other People’s Minds
 The basic point is how difficult it is to change what people think or feel about something simply by telling them or even showing them something different. (p.116)
「人々がもう既に考えていたり感じていたりすることを、それとは違うんだということを口で言ったり、証明してみせたりしただけでは、なかなか変えることはできないのだ。」
 In the course of taking seriously their own ways of understanding, the teachers also come to take seriously others’ ways of understanding. Thus they come to take seriously the thinking and feelings of the children they teach. (p.118)
「教師は、自分の理解の仕方を真剣に顧みれば、自然と、他者の理解の仕方にも真剣に目を向けるようになる。そうすると、自分が教えている子供たちの思考や感情にも真剣に目を向けるようになる。」
前にも同じようなことを書いたが、結局教師というものは、自分の考え方や既存の知識・考え方に対して疑問を抱くことが少ないので、どうしても子どもの心から離れてしまう。この本を読めば読むほど、何と多くの教員に向かない人間が、教員をやっているんだろう、と思ってしまう。

9. Making Sure That Everybody Gets Home Sagely
10. Twenty-Four, Forty-Two, and I Love you:
11. Critical Exploration in the Classroom
12. Teaching as Research

21世紀の資本 [学術書]


21世紀の資本

21世紀の資本

  • 作者: トマ・ピケティ
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2014/12/09
  • メディア: 単行本



ようやく、ようやく、やっと、やっと、計約600ページある、トマ・ピケティ著『21世紀の資本』を読み終わった。今年の1月から読み始めた。かなり重い本なので通勤に持って行って、電車で読むこともできないので、家で空き時間を見つけながら読んでいた。5月までは順調に、1ヶ月100ページずつ読み進められたのだが、先月6月はなんでかわからないが、体の調子が終始悪く、常に体がだる~い状態だったので、うまく進まず、先月読み終わる予定だが、最終的にはこんな時期までかかってしまった。

内容は巷でよく解説されているとおりなので良いと思う。
ピケティは資本主義社会、そしてある程度の格差があることは認めた上で、それでも社会をより公正な状態を保つためには、大きすぎる格差は良くないとする。
そこで、①教育②累進税(すべての資本に対する)を提案している。
正直、長くて、複雑で、緻密な分析をしているので、ひとつひとつの内容を覚えてはいない(いられない)が、ジェイン・オースティン等の文学作品などを用いて、わかりやすく解説していてとても楽しめた。最後の結論の部分が結構わかりづらかったが・・・。
しかし、戦後の成長率が、歴史的に見て例外的に高く、今の低成長率というのが歴史的に見れば当たり前だ、というのは始め読んだ時は驚きだったが、よく考えれば当たり前なのかと思う。社会がひたすら高い成長率で動いているというのは常に緊張感を強いられる状態だし、生きているのに苦しくてしょうがないとおもう。
バブル時代に学生時代、社会人を過ごさなくて本当に良かったと思う。
本当に刺激的で、面白い本だった。
次回読むとしたらメモを取りながら論理を整理して読んでみても良いとは思うのだが、実際彼の理論を使って何かをしたり、誰かに説明したりすることもないとは思うので、そんなことはしないと思うが・・・。

天皇制国家の支配原理 [学術書]


天皇制国家の支配原理 (始まりの本)

天皇制国家の支配原理 (始まりの本)

  • 作者: 藤田 省三
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2012/01/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



藤田省三の『天皇制国家の支配原理』を読み終わった。というよりページをめくり終わった。洋書を除き、こんなに理解できない本も珍しい。問題としたいポイントはなんとなく掴めるのだが、彼の論理展開に全くついていけなかった。大学時代で、卒論等に用いるということを前提にしていたら、もっとじっくりメモなどを取りながら読み、理解ももしかしたら深まっていたのかもしれないが、電車の中でゆっくりメモを取って、じっくり考えながら読む気にもなれず、なんとなく読みすすめてしまった。

内容は表題が示すとおり、天皇制を論じているというよりは、天皇制国家でどのような支配が行われたかということを論じたもの。それぞれ違った論文が4つ収められている。

1「天皇制国家の支配原理」
 表題にもなっている論文。明治の初期、日本「国家」というものを作るにあたり、近代国家の原則である「威」による集権国家を目指そうとしたが、「徳」による支配も行わざるを得ない社会状況になり、「天皇」を中心とするこの両面を併せ持った「国家」が建設されたと筆者は論じている(のだと思う)。そしてその過程を細かく論じているのだが、これを説明することは非常に困難だ。
 結局は、個々人の理性を基盤として「国家」を作ることが近代国家を構築するうえで重要なのだが、日本は教育勅語によって道徳を中心として「国家」を構築してしまったことで、様々な問題を引き起こしたとしている。
 基本的な結論は、(私が読み取ったところによると)、丸山眞男と同じだ。
 日本は、天皇を頂点とする支配原理を作ったのだが、天皇自身は「徳」の最高責任者であって「威」の最高責任者ではない。では「威」の最高責任者は誰かというと国家官僚だ。しかし、これも結局はピラミッド構造の中に入っているので、責任主体は曖昧になる。人民も「理性」ではなく封建主義的な「道徳」のなかで行動原理を定められてしまっているので、近代的な意味での責任主体となりえない。こうして日本全国上から下まで無責任状態となってしまい、戦前、戦中、そしてなにより戦後、現代の日本の悲劇的な状態が引き起こされた、ということなのだろう。まったくもって同感だ(というより私の卒論の結論と同じだ)。
 文章が難しく理解度が低いのが残念でならない作品だ。とはいえしばらくは読みたくない。

2「天皇制とファシズム」
 日本のファシズムの「矮小性」を論じた作品。はしがきがわかりやすい。矮小性の特徴として
①国家が、激烈な「変革」ではなく、漸次的な総力戦国家への移行によって行われたということ。
②権力者たちが、自分の力で権力を勝ち取ったのではなく、既存の国家機構とくに軍部の一部に依存する姿勢でしかことを運ばなかったこと。
③彼らは、国内的には天皇の前に敬虔なる臣下であり、国際的には世界否定を試みる無類の攻撃的ニヒリズムに追随するものであったこと。
 ということだ。
 面白い一文が紹介されている。河合栄治郎なるものが日本の自由主義者を評した言葉だ。「彼らの自由主義は意識されず、組織化されず、・・・・・・強烈な信念となるに至らない。」まったくその通りだと思う。それを受けて、藤田が言うには、その状態は、抵抗不能症を生んだとしている。
 この論文の最後を素晴らしい言葉で締めくくっている。「単なる攻撃はやせ細った絶望的精神からでも行えるが、何ものかへの抵抗は、自己の持てるものについての確信なしには行えない、ということは、何よりもファシズムの歴史がもっともよく教えているところなのである。」素晴らしい言葉であり、日本の明治から続く教育政策がすみずみまで行き届いていることを周りの人間を見ているとつくづく感じてしまう。

3「天皇制のファシズム化とその論理構造」
 基本は同じだ。序文がすべてを物語っている。「総力戦国家が要求した政治原理は一言にして言えば支配の非人格化である。」ここでは
①人間的つながりによって支配が行われるのではなくメカニズムが支配する
②非人格的な強力支配人格を要求した
この矛盾する二つの要求に応えたものこそ天皇制であり、そこから生まれたものこそ、国民(天皇・政治家・官僚含めて)そう無責任体制なのだ。

4「「諒闇」の社会的構造」
 「諒闇」とは天皇の死に際しての喪を意味する。藤田はほかの本で日本の「元号制度」を批判しているがこれもその流れにある。昭和元年は1週間に過ぎない。それを一年に勘定するのは、天皇という単なる個人の死亡で時間が区切られているからだとする。
 天皇が死んだことで「喪」に服すように国民に強制するが、一方で新しい天皇誕生の喜びも垣間見られる。天皇の死から見えてくる、日本の差別構造、経済人間ぶりを痛烈に批判した論文だ。
 この本の中では最も読みやすく、面白い視点を得られた。

とにかく全体を通して難しかった。

全体主義の時代経験 [学術書]


全体主義の時代経験

全体主義の時代経験

  • 作者: 藤田 省三
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 1995/01
  • メディア: 単行本



みすず書房から出ている藤田省三の『全体主義の時代経験』を読み終わった。
以下、簡単に内容とコメントを付したいと思う。

序.
序章からかなり強烈だ。日本のアカデミズムに対する痛烈な批判で始まっている。
日本の「学界」つまり学者の世界は次の2つに大別される。
①制度化された「学界」
②芸能的センスに近い態度

日本の学者の世界は結局閉じられた空間であり、その制度内に引き入れてくれた先輩、つまり恩人に対して厳格な批評家となれない。「尊敬に満ちた内在的理解」と「今日的必要からする厳格な批判的検討」の区別を定かにできないというのだ。こうした閉じられた空間から少しでも出るためには、芸能的センスに近い態度つまり、口当たりの良い・差し障りのない同じような本を様々な出版社から大量に市場へと送り込む態度や、テレビ等にひたすら出て大衆ウケするコメントを連発する態度を言いたいのであろう。
 筆者である藤田省三は、こうした傾向を断固拒否する。「私は一介の一書生であり、感じ且つ考える者の一人ではあっても「学界」とも「芸能センス」とも全く関係したくない」と言い切っている。こうした態度こそまさにニーチェが求めた態度なのではないかと個人的には思うのだがどうなのだろう。

1.精神の非常時
 短いがかなり示唆に富んだ素晴らしい1編だ。
我々がある「論題」を議論するとき、それに対して精密な「解答」を作成しようとするが、これは「真なるもの」にはなりえないのだという。問題にすべきは「論題」の立て方であり、「解決」や「解答」の良し悪しではないからだ。
つまり、現在我々は、いま行われている議論が本当に「議論」に値することなのか、という問いをたてることなく、ひたすら「解答」を出そうと躍起になっているというのだ。そしてこうした態度が、無警戒な「解答」主義に陥り、それが反省的検討を経ることのない「体系性」の偏重となって現れる。結局こうした無反省な「体系性」の偏重が知的生産の現場でも繰り返され、偽りなるものの蓄積に寄与してしまうのだ。
政府や官僚、教育諮問会議のようなところで行われている教育改革の進められ方などはまさにこうしたものであろう。つまり現在日本で行われている教育改革のほとんどは「解答主義」に陥っており、本質的な解決に向かおうとはしていないのだ。いや、教育問題に限らず、ほとんどすべての分野で同じ様な手法が積み重ねられている。

2.今日の経験
 この1編で言いたいことは、フロムの『自由からの逃走』と同じことだ。
 始まりから素晴らしい。「精神的成熟が難しい社会状況となっている。」何故か。あらかじめ答えの決まったテストに合格するために、決まった答えをひたすら身に付ける人生を送る日本人は「経験」の発生する機会が大きく閉ざされているというのだ。つまり予想を超えた事態というものは原理的に現れないのだ。こうして我々は「安楽への自発的隷属」状態に陥る。この状態を彼は「血色よく死んでいる状態」と呼ぶ。この隷属状態を快く思っている人間は、自由な経験だけがもたらす「成年」への飛躍は起こらないのだ。この藤田省三が日本人を分析した状態こそフロムが分析した「自由からの逃走」状態なのだと思う。我々は結局自由の重さに耐え切れず、ニーチェの言う「畜群」に成り下がるしかないのだ。日本社会はいつまでこうした人間を作り続けるつもりなのだろうか。

3.ナルシズムからの脱却
 何年か前、「自分探し」という言葉が流行していたがこうした状況に対する痛烈な批判だ。現在の「自我への収斂」は現存の自己に対する否定性を持たないため、ひたすら自我の満足だけを追求する態度に終始する。これが大量生産・大量流通・大量消費の機構の中に沈没して、物との関係を失ってしまい、金銭という名を持つ「印刷された紙切れ」の保有量の限界だけが、人間の欲望を止める要因になるというのだ。原発稼働を経済的観点からしか見られない態度などもまさにこうしたものだろう。
 結論としては、「他者」について考える自我が蘇らなければならないということだ。他者を「見知らぬ者」として見る意識が、「他者をそれに即して考える」ことにつながり、ひいては自分の内側を無心に解析する自我が発生するのである。スマホに無心に向かっている現代人には不可能な要請ではあろうが。

4.「安楽」への全体主義
 これは2と同じようなテーマであろうと思われる。次の一節は印象的だ。「高度成長を遂げ終えた今日の私的「安楽」主義は不快をもたらす物全てに対して無差別な一層壊滅の行われることを期待して止まない。」「不愉快な社会や事柄と対面することを怖れ、それと相互的交渉を行うことを恐れ、その恐れを自ら認めることを忌避して、高慢な風貌の奥へ恐怖を隠しこもうとする心性である。」
 オリンピック選手を見て感動をもらったと皆で大騒ぎしている割に自分は一向に努力しようとしない現代人。ひたすら無意味に金を使い、無意味に自分の行動を逐一仲間や公衆にさらし、無意味に他人の行動を分単位で追っていく現代人。自分の内面と向き合おうとする姿勢は皆無だ。まさに「安楽」をひたすら追求している。
 しかし「安楽」が忘れることのできない目標となってしまうと、「安楽」喪失への焦立った不安が却って心中を満たすこととなる。まさにこの大衆の愚かなこの不安こそが現在の愚かな安倍政権を支えているのであろう。
 藤田省三は言う。「喜び」は物事成就に至る紆余曲折の克服から生まれる感情であると。現在の日本の全体主義的空気の根本にこうした精神構造がある限り、日本は大きくは変われないのであろう。

5.全体主義の時代経験
 本全体のタイトルにもなっているこの1編。かなり難しい。20世紀は全体主義を生むとともに、生み続けている時代であるという。そこには3つの全体主義がある。
①戦争のあり方における全体主義
②政治支配のあり方における全体主義
③生活様式の全体主義
①②を丁寧に説きながら③を最終的には主張している。
第1次世界大戦は「宣伝」によって全体主義を生み出したという。それまで戦闘員と非戦闘員が明確に分けられていたのに、戦争の宣伝を国民全体にしたことで、実際戦ってもいない戦闘の過酷さを知らない非戦闘員が精神だけを高揚させ戦争に参加してしまったために、本来ならば終わらせることができる戦争を終結させるのを困難にしてしまった。これは国際的なスポーツ大会(オリンピック)などに熱狂し、選手に猛烈な批判を浴びせる、現代の愚かな現代人の心性と瓜二つだ。
結局こうした人間は「身も心も我を喪った者」なのでちょっとした機会さえあれば、己に都合の良い「指導者」や「組織体」に「身も心も」任せてしまうのだ。
「全体とは色々な部分の相互関係の全局面のことであって、そして「相互関係の全局面」をひとつのものや制度や人物は集団や等々で置き換えることはできない。部分には部分の不可侵の存在根拠があり、~中略~、永久に探求過程そのものとして残り続ける。」とある。全体の中にいる一人ひとりが尊重される世界になって欲しいものだ。

6.現代日本の精神
 この1編は名作だと思う。現代(90年代のものだが、2010年代にも十分通用する)日本の精神構造を見事に分析している。文章すべてが引用に値するのでこの場で要約するのは不可能だが、特に印象的なものをあげてみたい。
①倫理的ブレイキとは何か。その基礎は反省能力、自己批判能力です。そしてこの自己批判能力を一番欠いている国民は誰かというと、僕の知っている限りでは、日本国民をおいてはいない。
②(大銀行の合併などの)いたずらにテリトリーを拡げようという、まぎれもない帝国主義的発想、もう一つは、円高や土地投機などによって儲けようとする、つまりコストを払わないで儲けようという投機の発送が、日本資本主義をつくりあげてきた精神だといっていいと思う。
③いくら困っても売ってはならないものがあるように、商品にしていいものと、商品にしては悪いものがある。日本は何でもかんでも商品にしてしまうんです。商品にしてはならないという感覚がない。つまり経済倫理がないのです。
④「文化」と「国家」はくっつかないのです。文化というのは自己批判の伝統なので、自己批判というのは国家の行動に対する自己批判が、その大きな領域を為すものなんです。国家が文化を説き、倫理を説いたら、国家主義になるだけの話です。
⑤いまの日本人くらい傲慢なものはないので、人が触れられないものがあるということを忘れ、人間は何でもやっていいんだ、何だって出来るんだと思っている。
このまますべて、いまの安倍政権に伝えたいと思う。

7.マルクス主義のバランスシート
 おそらく、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が解体された直後に行われた座談会の様子。マルクス主義の良い面、悪い面を総括しようという意図で組まれた座談会らしいが、藤田省三はその議論にあまり乗りたくない様子が初めから最後まで伝わってくる。まえがきの部分にも、「この表題は藤田とは無関係に、企画者が付けたものである」と言っている。
ここでも印象的なフレーズを何点か。
①他人に不幸を押し付けるのが自分にとって不幸なのか、自分が不幸を引き受けているのだが自分にとって不幸なのかということ。だからこれには感じ方と生き方について殆ど決定的な違いが含まれているわけですね。
②おっしゃっている(マルクス主義に関する)総括、二〇世紀における一大実験の反省といわれるのなら、市場の二〇世紀的形態に至る歴史も反省しなければならないときが、今きたと言うんです。
③(経済的)成長の限界ということを、私は信じるんです、自然的限界があると。つまり経済成長は無限界なのか。ぼくは発展という言葉が嫌いです。

私は常々思っているのだが、ソクラテス・プラトン思想も、キリスト教も、マルクス思想も、ニーチェ思想も、根底に有る考え方はすべて一緒で、「今(までに)ある形にこだわらず常に批判的に物事を見、自己(個人・社会)改革をし続ける必要があるのだ」ということなのだろうと思う。
文章に残ってしまうと、どうしても細かい部分の矛盾点などを批判されてしまう。しかし、ソクラテス、プラトン、イエス・キリスト、マルクス、ニーチェが本当に伝えたかったのは、そうした絶対化したものを疑い吟味し続けようということなのではないのだろうか。

この本にはあと2つ短い作品があるのだが、その書評のようなものなのでここでは言及しない。
かなり長くなってしまったが、本当に素晴らし本だと思う。日本の現況に違和感を持っている全ての人に読んでもらいたい。

自律への教育 [学術書]


自律への教育 (MEDIATIONS)

自律への教育 (MEDIATIONS)

  • 作者: Th.W.アドルノ
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2011/12/09
  • メディア: 単行本



ドイツの哲学者アドルノのラジオでの教育に関する講演・対談を集めた本『自律への教育』を読み終わった。

アドルノの著作は難解で、普通に書かれた論文や著作は何度読んでも理解できないところが多い。しかしこれは講演・対談集、しかもラジオでの、ということで比較的わかりやすいのであろうと考えて読み始めたのだが、甘かった。もちろん、普通の著作よりははるかに平易な言葉で語られているのだが、やはりわからないところがあった。こんなに難しい内容を耳だけで理解するというのは可能なのだろうか、と思ってしまった。

内容は教育に関することであり、私が普段感じている現代の教育問題にかなりの部分当てはまるとともに、私が普段考えていることとかなりの部分一致するところがあった。

1.過去の総括とは何を意味するのか
第2次世界大戦が終わり、約15年が経ち、ドイツの中で第2次世界大戦での出来事を忘却しようという動きやネオナチのような動きがあることに警鐘を鳴らした講演。
「過去の総括」という言葉は所詮、過去にけりをつけて過去そのものを記憶から消し去りたい、という心的態度である、とアドルノは言う。
民主主義の世の中になったというが、所詮他律的であり、権威主義的であり、ナショナリズムという自分で考えない、他者を排除するシステムの中に多くの人間が囚われてしまっている現状を嘆いている。まさに安倍政権が推進している名ばかりの民主主義の中に置かれた現在の日本人の心的態度と驚く程一致している。
結局は、一人一人の市民が自ら考え、積極的に行動していくことで、民主主義社会は形成されていき、過去と向き合うこともできるのだ、と言っている(のだと思う)。

2.哲学と教師
教師になる人間に課される哲学の試験について論じたもの。
教養=自発的な努力と興味関心によって得られるもの、というのは非常に素晴らしい指摘だと感じた。
p54、63に面白い記述があったので紹介したい。
p54
「この形式的性質(全体主義的なものと親和的な精神)に数え入れられるのは、その時々に有力なものに順応しようと汲々とする態度、善人か悪人かに二分する態度、人間、事物、理念と直接かつ自発的に関わろうとする態度の欠如、凝り固まった慣習主義、あらゆる犠牲を払ってでも現存するものにしがみつく信仰といったものです。~中略~私がお伝えしようとしている中でも最も由々しき事態です。」
p63
「決して決まった解答を出すことではなく、まさにこのように試み(自己批判の全エネルギーを私がその症候をいくつか挙げた状態へ傾注して、その状態を変えようと試み)ることこそ教養というものでしょうし、これを受験者たちは身につけるべきなのです。~中略~自己省察と批判の努力は、現実的な可能性をもっています。それは、すでに多数派の人々が決心したあの闇雲で頑なな勤勉さの対極にあります。この勤勉さは、教養にも哲学にも矛盾します。なぜならそれはあらかじめあたえられていてすでに通用しているものを習得することに、最初から限定されてしまっているのですから。それを習得することの内には、主体、すなわち学ぶ者自身がいませんし、その人の判断、その人の経験、すなわち自由の基盤となるものがないのです。」

批判されているのは、まさに日本におけるどこかの学校の教師集団そのものである。

3.テレビと教育
テレビが暗に伝えるイデオロギーに対して敏感であるべきと警告している。

4.教職を支配するタブー
教職は社会から低劣なものとみなされている。それを歴史的・社会的・心理的に分析した上で、教師も一人間であり、それを認めたうえで、生徒と向かい合うことでよりより方向に進んでいくのではないかと提言している。
まったくその通りだと思う。私の周りにもひたすら権威を振りかざし、暴力的(実際暴力を振るうわけではないが)に振舞う教師が溢れている。

5.アウシュヴィッツ以後の教育
「教育が意味をもつのは批判的な自己反省への教育としてのみ」とアドルノは言う。まったく同感だ。が、この日本においてどれだけの教育機関が批判的な自己反省へと導くような教育を行っているのだろうか。
そして結論として「アウシュビッツに逆らう唯一の力は自律(反省⇒自分で決定⇒同調しない力)だ」としている。

6.教育は何を目指して
教育には①順応②自律という二つのアンビバレントな方向性がある。
これを意識下に置くことこそが重要で、それこそが抵抗の力と中心となる、ということだ。

7.野蛮から脱するための教育
この章に私は深く共感した。
「野蛮とは社会の理性的な目的との関係が見通せないような原始的な物理的暴力を意味し、人間の尊厳にふさわしい状態をもたらそうということと明らかに結びついている場合はそれは単純には野蛮と断罪してしまうことはできない」としている。これはチェ・ゲバラの思想とも一致するところがあるのではないだろうか。
そして人間は野蛮へ向かう傾向から自由な人はいない、としたうえで、野蛮を廃するのに必要な契機は「怒り」なのだと訴える。これと同じようなことをゲバラも言っている。
面白い指摘として「従順な子羊」は野蛮の一形態であり、彼らはおぞましいものも一緒に傍観し、決定的瞬間には首をすくめると言う。
最終的な結論としては幼児の頃から「心の細やかな子」に教育することが重要だとしている。

8.自律への教育
これはすべてをまとめた内容なので割愛したい。

本当に素晴らしい、刺激的な本であった。是非とも教員になる全ての人に読んでもらいたい歴史的名著だと思う。2011年に中央公論新社から発売されたようだが、訳された方々に感謝と敬意を捧げたい。

中学生からの対話する哲学教室 [学術書]


中学生からの対話する哲学教室

中学生からの対話する哲学教室

  • 作者: シャロン・ケイ
  • 出版社/メーカー: 玉川大学出版部
  • 発売日: 2012/04/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



国際ブックフェアで買った上記の本を読み終わった。
アメリカの中等教育機関での「哲学」の授業実践を、ほかの先生たちが応用できるように組まれた本。
全部で13章からなり、答えの出ない問いが並んでいる。
本の構成は
①2人の人物による章のテーマに関する身近な話題を取り上げた対話
②その対話を通して考えるべきことを投げかけたもの
③テーマに関する解説
④議論課題、参考図書・DVD等、実践課題
という形になっている。
身近な話題から授業に入り、答えのない事柄を深く考えさせるという点でとてもよくできたテキストであると思う。
こういった本を参考に、様々なことができるとは思う。
しかし、やはり教師の側が対話をコントロールできる力がないと難しい。
西洋に比べ、対話が重視されない日本において、「哲学」という科目が根付くのは難しいと思われる。
が、これからの時代、本当にグローバルな人間を育成したいのであれば、くだらない英語教育改革や今行われているような学習指導要領の改訂ではなく、こうした「哲学」の授業を中等教育段階から取り入れていくべきなのだろう。
まあ、所詮、日本の教育行政に関わっている人間たちではこんな発想は出てこないだろうが。


The Juses I never knew [学術書]


The Jesus I Never Knew Study Guide

The Jesus I Never Knew Study Guide

  • 作者: Philip Yancey
  • 出版社/メーカー: Zondervan
  • 発売日: 1997/06
  • メディア: ペーパーバック



Philp YanceyのThe Jesus I never knewを読み終わった。
イエス・キリストについて語った本。結構読みづらいかと思っていたが、語りかけるような口調で現在の状況に照らし合わせた具体例なども豊富に使われていて非常に読みやすかった。

私は共産主義とキリスト教は似ているとずっと思っていた。しかし彼は決定的に違うところがあるという。それはhow to motive people to show compassionということだという。
なるほど、とすごく納得した。compassionを人々に求めてもなかなかそれを実践することができない。
ロシア人にそれを求めても結局皆、金を酒に費やしてしまうということだった。
しかし、キリスト教はイエス・キリスト自身がcompassionを示したことにより、人々は実践することができるのだという。確かにその通りだと思った。

とはいえ、読んでいる最中は納得しながら読むのだが、結局結論の部分を忘れてしまう。やはりメモや付箋をつけながら読まないと一回読んだだけで頭に残しておくのは難しい。

しかし、かなり興味深く、面白い本ではあった。

探求の共同体 [学術書]


探求の共同体 ─考えるための教室─

探求の共同体 ─考えるための教室─

  • 作者: マシュー・リップマン
  • 出版社/メーカー: 玉川大学出版部
  • 発売日: 2014/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



東京国際ブックフェアの玉川大学出版部のコーナーで見つけた本。8月の頭くらいから読み始めたので、1ヶ月近く読み終わるのにかかってしまった。
専門書でかなり厚いので、家で空いた時間に、少しずつ読んでいたのだが、やはりある程度じっくり時間をかけて読まないとまとまって論理が入ってこない気がする。

内容は、「知識を与えることに重点を置く」教育から「教師も生徒も探求することに重点を置く」教育に変えていこうと提言しているもの。そしてこうした教育法を実践していくには「哲学」という授業が最適だ、ということを主張している。
ほぼ私の教育観とも一致しており、かなり興味深く読んだ。
学力調査PISAなどで、新学力観などが取り上げられているが、いまだにこういった本が新しい教育法として出版される日本の状況、どうなんでしょう、と思ってしまった。

教育実践の再構築と題した箇所で、新しい枠組みとして教師が取るべき態度は以下のようなものだという。面白いものをいくつか紹介したい。

①教育とは、教師が主導する探求の共同体への参加の成果である。探求の目的は、理解やより良い判断を達成することである。
②教師がとるべき姿勢は、権威として振舞うことではなく、誤りうる者として振舞うことである(つまり、教師には間違いを認める準備がある)。
③学習過程において情報の獲得は重視されない。一つの主題の内での概念の関係性、また主題と主題との関係性を探求することが重視される。

あまりにも私にとっては当たり前すぎるのだが、こうしたことを意識して、教育活動を実践している教員は少ないのではないだろうか。特に「教師は権威がなければならない」という思い込みが強い人は多い。

p.60に傍点を付して重要なことが主張されている。
「批判的思考が生徒の中に育むものは、その場限りの懐疑的な態度ではなく、先行きが不明な中で長期にわたって信用することのできる信念体系を築く能力であると考える方が賢明だと私は思っている。」
結局は学んだことを生かし、問題に直面した時に解決に向かって思考し、行動できるかということが重要だ。しかし、今の教育はこうしたことをあまりにも軽視してしまっている。というよりも多くの教員が、自分自身そんなことを深く思考したこともないので、教員自身が実践できない。そんな人間が子供と共に考えることなどできるわけがないのだ。

この本では「平和教育」についても取り上げられており、日頃から日本の平和教育に私が持っている違和感と見事に一致している。
暴力を減らし平和を目指すための教育的努力の中に、「権威者によるお説教」アプローチがある。これはだまされやすい獄あまり疑い深くない人にはうまくいく、と主張している。結局「平和教育」をする際重要なのは、戦争の恐ろしさを子供たちに植え付けることではない。
最近、戦争を実際に経験した人間が少なくなってきているから危険だ、という説を目にしたり耳にしたりする機会が多い。しかし、戦争は実際に経験したひとがいたり、その恐怖感を持っている人がいたりしないと回避できないものなのだろうか。逆に戦争の悲惨さを多くの人間が共有していれば回避できるものなのだろうか。日本の平和教育は、いわゆる「語り部」さんたちが自分達の悲惨な経験を子供たちに語って聞かせる、といったものや、戦争の悲惨さを映し出す写真を見せたりする、というものが多いが、これは基本的には子供たちの感情にしかアプローチしていない。こうしたものを全否定しているわけではない。平和教育の全体の中の一部としてあって良い手法だとは思う。しかし、この筆者が言うように、最終的には子供達一人ひとりが理性的に考え、理性的に判断できるような主体になっていない限り、戦争は回避できないであろう。

筆者は「探求の共同体」に必要な三要素を繰り返し述べる。
①批判的思考
②創造的思考
③ケア的思考
これは私にとっては非常に新しい視点だった。批判的思考を身につけさせる、というのは私が教員になってから変わらない信念だ。しかし、創造的思考やケア的思考を身につけさせる、ということを意識的に考えたことはなかった。当然、この2つは日々生徒に求めているが、これを教育目標にするという視点が新しかった。
11年間担任業務をしているが、クラス全体としてこの3つを備えたクラスになったことは数度しかない。
やはりクラス全体の雰囲気としてこうしたものを持つことは難しい。

自分が日々実践していることを理論として示してくれているだけの本なので、刺激的な本ではなかったが、自分と同じような教育観を持ってくれている人がいるんだなあということを実感できる良い本だった。

精神史的考察 [学術書]


精神史的考察 (平凡社ライブラリー)

精神史的考察 (平凡社ライブラリー)

  • 作者: 藤田 省三
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2003/06
  • メディア: 単行本



東京国際ブックフェアで購入した藤田省三『精神史的考察』を読み終わった。藤田省三が雑誌などに載せた短めの文章を集めたものだ。
「或る喪失の経験」は隠れん坊(かくれんぼ)という遊びを子供が最近しなくなったことに触れ、そのことがこどもの精神的発達にどのような影響を与えるかを考察したもの。「隠れん坊は鬼も隠れる側もある瞬間孤独にならなくてはならない。これはある種の社会喪失の経験だ。」という。
そして次の一行が素晴らしい。

p.34
「(鬼が)相手に勝つことは自分を救うだけでなく相手をも救うのであり、(隠れた方が)相手に敗けることは相手の勝利になるだけでなく自分の社会的勝利にもなるのであった。勝ち負けの一義的な二者択一をものの見事に取っ払ったこの相互性の世界は私たちに何を思い出させるのであろうか。」

勝ち組、負け組ということばを生み出したり、何にでもランクをつけたがる現代日本人、本当にあさましい。人が人らしく生きるために必要なことは何なのか、もう一度考えてみるべき時なのだと思う。
もちろん、勝ち負けは必要だ。しかしそれはある尺度の中での勝ち負けなのであり、人間存在の勝ち負けなのではないということが日本人には理解できない。本当に愚かな人たちだ。


「或る歴史的変質の時代」「「昭和」とは何か」は元号批判。日頃から天皇が死んだら変わるこの元号制に批判的だった私は、その違和感を言葉にしてくれているこの文章にいちいちうなずきながら読んでしまった。
「昭和」とは「百姓(国民一般)が昭明」であり、「万邦(世界中の国々)が協和」であることを願い付けられたものらしい。しかし「昭和」の時代、天皇は、国民一般を暗く不幸な生活に陥れ、世界中の国々と戦争を起こした。そしてその責任を一切取ろうとしない。

pp..212~213
「その(昭和)の由来を改めて思い起こすことを通して戦後の処理を責任あるものにしようとする精神的態度はその処理の当事者の中には現れなかった。その関係は、ちょうど太平洋戦争の開始にあたって「朕~中略~宣ス」と偉そうに宣言しながら、敗戦に際しては女々しくもムニャムニャとしか言わなかった事と対応している。「始め」に在った宣言的言葉はこうして隠微に涜がされ、持っているかに見せていた「意味」は秘かな堕胎によって流し棄てられて、言葉は単なる機械的信号へと変質させられる。」

その無責任さが現代日本人の無責任さを生み出しているのであろう。私が卒論を書くとき藤田省三の作品は一切読んだことがなかったが、私の主張と一致している。普通に考えればこの結論に誰もが到達するはずだと思うのは私だけなのだろうか・・・。

他にも刺激的な論文が多く非常に面白かった。


why marx was right [学術書]


Why Marx Was Right

Why Marx Was Right

  • 作者: Terry Eagleton
  • 出版社/メーカー: Yale University Press
  • 発売日: 2012/04/24
  • メディア: ペーパーバック



Oxford大学教授、Terry Eagletonのwhy marx was rightを読み終わった。夏に彼の『シェイクスピア』論を読み面白かったので自分の興味とも重なるこの本を手にとってみた。この本は、彼の本をいろいろと調べていたら『マルクスは何故正しかったのか』という本が出ているのを知り、せっかくなら原書でと思い買った。
英語版のこの本を、机の上に置いて、タイトルを眺めていてふと思ったのが、rightという単語を2つの意味に取れるのでは、ということだった。「正しい」という意味と「(政治的に)右」という意味だ。後者であれば、非常に面白く、刺激的な本だなあ、と思ったのだが、内容的にそのようなものではなかったので、おそらく前者の意味で使っているのではあろう。

本の内容、構成は、マルクス(主義)に対する10の批判を一個一個取り上げ、それに反論していくもの。
時代遅れ、実行に移そうと思うと圧政的にならざるをえない、決定論だ、ユートピア思想だ、全てを経済学の視点で捉えようとしている、唯物論者だ、階級闘争に全てを還元してしまっている、暴力肯定論者だ、個人の自由を否定している、などといった批判をことごとく論破していく。
基本的には、こうした批判はマルクス主義ではなく、実は資本主義に当てはまる批判だという反論の仕方をしている。そして、イーグルトンの根幹には、資本主義こそ人間・自然=物として扱っており、マルクス主義はは人間を人間として、自然を人間が生活を営んでいく上で非常に重要なものと位置づけている、という考え方がある。そしてなにより共感したのは、マルクスは「労働は余暇のためにやるものだ」と考えていたという部分だ。資本主義は労働や金を目的としてしまっていることでひたすら労働することになってしまう。ブラック企業、サービス残業なる言葉が存在している日本を見れば、まったくその通りだと感じてしまうのだ。

非常に非常に刺激的な本だった。来年、時間があればまたマルクスの本を読んでみたいと思う。

知識人とは何か [学術書]


知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

  • 作者: エドワード・W. サイード
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1998/03
  • メディア: 単行本



エドワード・サイード『知識人とは何か』を3日前に読み終わった。西洋人の観点だけから世界を見る見方を批判した『オリエンタリズム』で有名な人だ。とはいえ、この『オリエンタリズム』の方はまだ未読だ。
『知識人とは何か』は、イギリスの公営放送BBC「リース講演」という公園番組の内容を本にしたものだ。
現在(1993年)の社会情勢の中で「知識人と呼ばれるものはどのようなあり方をすべきなのか」ということを論じたものだ。
ポイントは以下のようなものだ。
○知識人が、弱い者、表象=代弁されない者たちの側に立つことは当然のことだ。
○知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。つまり安易な公式見解や既製の紋切り型表現をこばむ人間であれ、なかんずく権力の側にある人間や伝統の側にある者が語ったり行ったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。
○知識人がなすべきことは、危機を普遍的なものととらえ、特定の人種なり民族が被った苦難を、人類全体に関わるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験と結べつけることである。
○知識人が、現実の亡命者と同じように、あくまでも周辺的存在であり続け飼い慣らされないでいることは、~中略~上から権威づけられて与えられた現状よりも、革新と実験の方に心をひらくことなのだ。
○現代の知識人はアマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。
○知識人は、現在進行中のアクチュアルな過程とからめながら、たとえば平和とか正義といった問題に影響をあたえるような方法で、自分の意見を表明したいと思うことだろう。
○知識人として自分には、二つの選択肢がある。ひとつは、最善を尽くして真実を積極的に表象することであり、いまひとつは消極的に庇護者や権威者に導いてもらうようにすることである。(サイードが求めるのはもちろん前者であろう)

ほぼ全てに共感でき、日々自分が実践しようと心がけていることであった。もちろん国家的な政策に携わる知識人などこの世にはほとんどいないであろう。しかし、知識人に限らず、全ての人間がサイードの言うような態度で日々生きるべきなのではないかと思う。


Parallels and Paradoxes [学術書]


Parallels and Paradoxes: Explorations in Music and Society

Parallels and Paradoxes: Explorations in Music and Society

  • 作者: Edward W. Said
  • 出版社/メーカー: Bloomsbury Publishing PLC
  • 発売日: 2004/03/01
  • メディア: ペーパーバック



指揮者兼ピアニストのダニエル・バレンボイムとエドワード・サイードの対話本を読んだ。
基本は音楽についての本なのでバレンボイムがメインで話を進めている。
バレンボイムの音楽観は非常に共感するところが多かった。
話の中心はドイツ音楽。ベートーヴェンとワーグナーが話の中心になっている。
音楽と社会をリンクさせながら考えようとするサイードと、なるべく純粋に音楽だけで語ろうとするバレンボイム、この二人の対話は対話をしているようであまり対話になっていない気がした。
ワーグナーは人間的には最悪(ユダヤ人蔑視も含め)だが、音楽は最高だ、という部分はなるほどな、と思った。同じ時代に生きていたら友人にはなっていないだろうという部分に妙に納得してしまった。
そしてワーグナーは自分のオペラの中にユダヤ人を描いた人物を登場させていないというところにはっとさせられた。後世の人々が彼のオペラ台本と彼の思想を検討し、この作品のこの登場人物はユダヤ人を描いていると勝手に決め付けただけで、ワーグナーにその意図はなかったと。
これは、マルクスとマルクス主義などにも同じことが言えるのではないだろうか。
マルクスが意図したこととマルクス主義者たちが自分達のやり方に沿う形で解釈したマルクスは全く違う。ワーグナーを純粋に音楽的な部分だけで見て、正当に評価しているバレンボイムは素晴らしいと感じた。

サイードは彼がひとりで書いた作品は良いが、この作品の中ではあまり生きていない。もちろん音楽と社会を関連させて論じることは可能であるし面白いと思う。
バレンボイムとサイードが別々に同じ問題を論じるという体裁にしても良かったのではないだろうか。

シェイクスピア [学術書]


シェイクスピア: 言語・欲望・貨幣 (平凡社ライブラリー)

シェイクスピア: 言語・欲望・貨幣 (平凡社ライブラリー)

  • 作者: テリー・イーグルトン
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2013/01/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



テリー・イーグルトンというオクスフォード大学の教授が書いたシェイクスピア論。シェイクスピアの解説書・戯曲作品の解説書といった類の本ではない。シェイクスピアの諸作品を、マルクス主義やデリダなどの現代思想で解読したもの。言語・欲望・法・無・価値・自然といった切り口で論じられている。読んでいるときはなるほどとその論理展開を納得しているものの、後でこういう場所で説明しようとすると全く説明できない。ということは彼の論を理解していないということなのだろう。やはりこれくらいの本になるとメモを取りながらでないと論旨をおっていくのは難しい。
言語や欲望が過剰になるとそれが結局無になってしまう。無というものは有がないと存在できない概念である。法はここの状況を考えないものだが、法を適用しようとするとどうしても個々の状況を考えざるを得なくなる。これは言語の使用法も同じで、言語の使われ方というものはそれが歴史的に使われてきた、事例の集合体に過ぎないなどなるほどなと考えさせられることが非常に多かった。
もう一度メモを取りながら論旨を追っていきたいと考えさせられる本だが、若干面倒くさいのでおそらく仕事で扱わない限りは再読は数年後になるであろう。
しかし、シェイクスピアを違った観点で読みたいと考える若い読者、暇な読者におすすめしたい刺激的な本だ。

ナショナリズムとジェンダー [学術書]


ナショナリズムとジェンダー 新版 (岩波現代文庫)

ナショナリズムとジェンダー 新版 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2012/10/17
  • メディア: 文庫



約10年前、地元で行われた上野千鶴子氏の講演会に行った。市の主婦・女性向けの講演会で、「働く女性と保育」といったような演題だったように思う。講演会が終わり、質疑応答の時間になり、私はある質問をした。どのような質問をしたのかは正確に覚えていないが、彼女が講演の中で触れた、教育に関する部分で納得できない事があり、そこを聞いてみた。それに対する彼女の答えは「あなたは文部省で働くといいですね」という一言だった。私の質問に全く答えなかったのである。これが大学教授のやるべきことだろうか。質疑応答の時間に、真面目に質問をした人間に対して真面目に答えることができない人間は最低である。

その時以来、上野千鶴子が大嫌いになった。所詮コイツも真面目に、冷静に、問題を捉えることができない、女性の権利ばっかりを主張するどうしようもないフェミニストなんだろうとみなしていた。こういう書き方をすると、フェミニスト=どうしようもない人間、と私がみなしているように受け取られるかもしれないが、けっしてそんなことはない。私はフェミニストでも尊敬している人はたくさんいる。しかしメディアに多く出てくるフェミニストは主張がどうしようもない人が多いとは感じているが。

ということで彼女の主著である『ナショナリズムとジェンダー』という本は気にはなっていたが、いままで読まなかった。しかし、ナショナリズム、ジェンダー関係の本を読むと必ずと言っていいほど参考文献に乗っており、この分野の必読書として紹介されていた。

そして先月ついに、岩波現代文庫から出された。これは買うしかないと購入した。
確かに名著である。基本は「従軍慰安婦」を軸にナショナリズムの問題と、女性の問題を論じた本である。まさに題名そのままといった本だ。
この本を読み、彼女の論じ方が実に誠実であることがわかった。様々な問題があるが、自分が扱える分野に関して深く考え、行動し、社会に働きかけていこうという姿勢がひしひしと伝わってきた。

岩波現代文庫は元の『ナショナリズムとジェンダー』が出されたあとの、この本に対する様々な批判に答える論文などが掲載されており。興味深かった。そしてかなりの人が彼女の主張を曲解していることもわかった。マルクスなどにしてもそうなのだが、やはり新しい主張、今までの価値観をひっくり返すような主張というのは、人々に筆者が伝えたかった形ではななかなか伝わらない。人々は自分の読みたいような形で文章を受け取るため、どうしても誤解が生まれる。

あの講演会の日も、私の質問は、確かに考えるに値する質問かもしれないが、この講演会の聴衆、テーマでは扱いきれない問題なので、今は答えられない、という彼女のメッセージだったのかもしれない、とこの本を読んで思った。

オクスフォード教育講座 [学術書]


オックスフォード教育講座―教育の根底を支える精神的心意的な諸力

オックスフォード教育講座―教育の根底を支える精神的心意的な諸力

  • 作者: ルドルフ シュタイナー
  • 出版社/メーカー: イザラ書房
  • 発売日: 2002/01
  • メディア: 単行本



久しぶりに硬い本を読んだ。昔は新書を始め、興味ある分野の本を読みあさったものだが、仕事で疲れきっているせいもあり、小説ばかり読んでいる。新書などは仕事でどうしても必要となること以外では手にもとらなくなり、教育関連の本にしてもまとまった論文などは疲れるので読まなかった。

しかし、かつて買っておいてずっと読まずにいたシュタイナーの『オックスフォード教育講座』を小説がひと段落した今、読んでみた。
さすがは世界に広まっているシュタイナー教育の理論書だけあり、まともな教育論だ。そして日本で何故シュタイナー教育が広まらないかもよく理解できた(あまりにもまともな教育論なので、刹那主義的、功利主義的、短期主義的、短絡的な教育しかできない日本では決して広まることはないであろうということ)。
現代の教育の問題点そのものの問題点が、約90年前にイギリスで行われた講演で指摘されていることに驚きを隠せなかった。
瑣末主義的教育、点数化された人間の評価、早い時期からの知性主義的教育、こうしたものが人間の全体的な成長の観点から見れば害が大きいことは明らか過ぎる。

何故日本の教育は変われないのか。
日本の教育行政に関わる政治家、官僚は、皆がプラトンを読み、シュタイナーはじめオルタナティブと呼ばれる教育者の教育論を学び、世界各国の教育状況を学ぶべきではないだろうか。
そうしたら、くだらない教員免許更新制や中身のない英語教育改革などは決して出てくることはないだろう。

いい加減に無知な人間たち、現場を知らない人間たち、教育に関わっていないくせにわかったような口をきく人間たちは、教育に口を出さないで欲しい。