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人間不平等起源論 [哲学 ルソー]


人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)

人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)

  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2008/08/07
  • メディア: 文庫



ルソーの主著、『人間不平等起源論』を読み終わった。何故、この本がフランス革命の理論的バックボーンとなり、今も古典として読み継がれているのかがわかった。そして彼の言う「自然に帰れ」という主張もこの著作を読んでよくわかった。

非常に簡単にこの作品の主張を要約すれば、人間は「野蛮な原始状態」から「理性的な文明状態」に進化したと一般的には言われるが、原子状態こそが人間が最も公平で穏やかであった状態で、様々なことを知り、理性的な状態になり、社会を形成し、法を確立したことで、不公平(不平等)で、野蛮な状態になったという主張だ。

私はルソーの主張にかなり同意するところがある。前にも何度か書いているとは思うが、キリスト教もマルクス主義なども、キリストやマルクスが行っていること自体は素晴らしいのだが、それをのちのちに解釈し、皆でそれを実践しようとし、団体になるとそこにズレが生じてくる。ルソーも認めているとおり、これは、理論的に起源に遡ったものであり、この起源の状態に戻ることは出来ない。しかし、その理想に少しでも近づくために、人間は少しずつ不断の努力を続けるべきなのではないだろうか。

以下、印象に残った箇所を引用したい。

p43

「無私で穏やかなまなざしで、人間の社会について考察してみれば、人間の社会では強い人間が暴力を行使し、弱い人間を抑圧していることがすぐに目に付く。そして人間の心は、強者の冷酷さには反感を感じ、弱者の無理解に嘆きたくなるものだ。しかし弱さと強さ、富と貧困などの違いは、英知から生まれたものではなく、偶然の産物に過ぎないことが多いものであり、人間の社会におけるこうした外面的な関係ほど不安定なものはない。」

人間の社会的な違いは本当の力などではなく、すべて偶然性から生まれたものであるはずなのに、みなそれを絶対ししてしまう。人間は本来平等であり、平等に扱われるべきものであるはずなのに。

p75
「人間だけが耄碌するのはなぜだろう。それは老齢とともに最初の状態に戻るから、老衰やその他の事故のために、自己改善能力によって獲得した全てのものを失ってしまうからではないだろうか。~中略~人間は耄碌したのちは、動物よりも劣った存在になってしまうのである。この得意な、そして無制限な能力が、人間のすべての不幸の源泉であること、この能力がときの経過とともに、平和で無辜なままに過ごしていた原初の状態から人間を引きずり出すものであることを認めざるを得ないのは、なんとも悲しいことではないか。この能力こそが人間のうちに知識と光と誤謬とを、悪徳と美徳とを数世紀の時の流れのうちに孵化させて、ついには人間を自己と自然を支配する暴君にまでしてしまったのである。」


p.116
「精神的な能力についても同じことが言えるのであり、教養のある精神と教養のない精神の違いを作るのは教育である。~中略~文明状態において暮らす様々な階層の人々では、教育と生活様式には驚く程の違いがある。これとはまったく対照的に、野生人の動物的な生活は素朴で、どこでも同じである。~中略~これを考えれば、文明状態と比べると自然状態では人間のあいだの違いがどれほどちいさなものであったか、制度的な不平等によって、どれほど人類の自然の不平等が拡大せざるをえなかったかが、わかろうというものである。」

まさに、文明こそが人間を不平等にしたのである。


p.160
「ところで人間と人間の関係において考えられる最悪の関係は、片方の者が他方の者の意のままになるということである。」

p.168
「そもそも自由とは、子供たちが人間としての資格によって自然から授から贈りものであり、両親は子供たちからこの贈り物をとりあげる権利などもっていなかったのである。」

p.178
「そもそも他人に命令することなどまったく望まないものを服従させることは至難の業であり、どんなに巧みな政治家でも、ただ自由であることだけを願う人間を屈服させることはできないもなのだ。しかし野心に駆られる卑屈な人々のあいだでは、不平等は用意に広がる。」

p.188
「野生人はみずからのうちで生きている。社会で生きる人間は、つねにみずからの外で生きており、他人の評価によってしか生きることがない」


とても良い本だった。
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社会契約論/ジュネーヴ草稿 [哲学 ルソー]


社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

社会契約論/ジュネーヴ草稿 (光文社古典新訳文庫)

  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2013/12/20
  • メディア: Kindle版



ひさしぶりに、ルソーの作品を読んだ。
数年前に、『新エロイーズ』を読んで以来だ。
『エミール』『新エロイーズ』そしてこの『社会契約論』と彼の作品は読んできたが、どれもものすごく面白いわけではないが、思想に共感できる部分が非常に多い。さすが、フランス革命の理論的バックボーンになっただけある。どうしたらこれほど、平等で真摯な観点で物事を見られるようになるのか、と感心してしまう。とにかく素晴らしい言葉が散りばめられている。
ちなみに、この本は「社会契約論」と「ジュネーヴ草稿」の2作品が収められているが、後者は前者の前段階の第一稿のようなもので、内容はかなり重なっている。

「社会契約論」
p.26
「だから力は権利を作りださないこと、わたしたちには、正当な権力以外のものには服従する義務はないことを認めよう。」

我々は自由であり、お互いの平等な契約を結んだものに対してしか服従する必要はなく、権力者などそもそもこの世には存在しないのだ。

p.34
「戦争の結果として生まれた奴隷や、征服された住民は、強制されているうちは主人に服従するだろうが、主人にはいかなる〈義務〉も負わないことを指摘しておきたい。勝者は敗者の生命を奪う代わりに服従させたのであり、いかなる恩恵もほどこしたわけではない。~中略~それ以前と同じように勝者と敗者のあいだには戦争状態がつづいているのである。」

これは非常に新しい観点だった。戦争に負けたら捕虜になったり、従わされたりすることに非常に違和感がずっとあったのだが、ルソーの言うとおりなのだ。国家と国家の戦争であり、戦争で負けたからといって個人一人ひとりの自由に生きる権利が剥奪されること自体がおかしいのだ。これは世界中で共有されるべき考えであろう。

p.56
「この[社会契約という]基本的な契約は、自然の平等を破壊するものではなく、自然が人間にもたらすことのある自然の不平等の代わりに、道徳的および法律的な平等を確立するものだということである。人間は体力や才能では不平等でありうるが、取り決めと権利によってすべて平等になるのである。」

これは、非常にすばらしい考えだ。アマルティア・センの本で、「平等」について最近考えていた分、かなり心に残る一文だった。

p.65
「人民が十分な情報をもって議論を尽くし、たがいに前もって根回ししていなければ、わずかな意見の違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれるのであり、その決議はつねに良いものであるだろう。しかし、人々が徒党を組み、この部分的な結社が[政治体という]大きな結社を犠牲にするときには、こうした結社の成員にとっては一般意志であろうが、国家にとっては個別意思となる。その場合には、成員の数だけの投票が行われるのではなく、結社の数だけの投票が行われるにすぎないのである。」

まさに、今の日本の政党政治批判そのものである。一人ひとりが全体の善を考え、一人ひとりの意見を出し合って話し合えば、自然と素晴らしい結論に達するのである。これはかなりの性善説にたっているが、私も全く同じ考えだ。結局団体、組織を結成するところから人々は思想は腐っていくのである。

p.109
「立法という仕事で困難なのは、何を作り出すかではなく、何を破壊すべきかを判断することにある。」

これも非常に示唆に富んでいる。
くだらない伝統にしがみつき、中身のないものにくだらない人々は固執するものなのだ。

p.110
「あらゆる立法の体型は、すべての人々の最大の幸福を目的とすべきであるが、この最大の幸福とは正確には何を意味するかを探ってゆくと、~中略~自由と平等に帰着することがわかる。」

私も小さい頃からこの二つを常に目指してきたし、今も目指している。これこそ人類が目指すべき目標なのではないだろうか。

p.136
「法律を作るものが、法律を執行することは好ましくない。人民という団体が、一般的な目的から注意を逸らせて、特殊な事柄に注目することは好ましくないからである。」

結局システムを作り、それを動かさせようとすると、それを動かす人間の私的な欲求が入り込み、組織は腐っていく。本当の意味での三権分立を目指すべきなのかもしれないが、わたしにはこの部分はよくわからない。

p.149
「共和制においては人民の声が働くために、その地位を立派にはたすにふさわしい見識と能力のある人物でなければ、高位の地位につくことはほとんどない。しかし君主制において出世する人物は多くの場合、ちっぽけな間抜け、ちっぽけな詐欺師、ちっぽけな陰謀家だけであり、小才を働かせることで宮廷で高位に昇りつめることがあっても、顕職に就くとその無能がすぐに公衆に暴露されるのである。」

しかし暴露されてもやめさせられることなく、こういったくだらない連中は権力を行使し続ける。だから組織がダメになるのだ。

p.152
「他人に命令するよう育てられた人をみると、その人が正義感と理性を喪失してしまうべく、すべてのことが力を合わせているかに見える。~中略~王子たちにはまず服従することから教えるべきだろう。」

私の働く組織のトップがまさにこのような人物だ。世襲によってトップに上り詰め、正義感も理性もなく、自分が正しいと思った頭の悪い考えを人々に押し付け続けているのである。

p.201
「執行権を委ねられた人々は、決して人民の主人ではなく、その公僕であること」

日本の政治家に伝えてあげたい言葉である。


「ジュネーヴ草稿」
p.322
「人間は自由なものとして生まれたのに、いたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思い込んでいる人も、じつはその人々よりもさらに奴隷なのである。」

結局人々を使役して生きている人は、自分の力で生きて行けず、自由がない奴隷状態なのだ。


非常に素晴らしい言葉の数々だった。
全体として面白いとはやはり言えないが、とてもためになる本ではあった。

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新エロイーズ4 [哲学 ルソー]


新エロイーズ 4 (岩波文庫 青 622-7)

新エロイーズ 4 (岩波文庫 青 622-7)

  • 作者: ルソー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1961/06/05
  • メディア: 文庫



遂に『新エロイーズ』を全巻読み終わった。
マンガ『ベルサイユのばら』を読んで以来、ずっと読みたいと思っていた本だった。
貴族オスカルに対する叶わない恋に悩む平民アンドレの愛読書である。何故、彼がこの本を愛したのか、全巻を読み終えて分かった気がする。
貴族と平民の超えられない恋。愛し合っていながら、様々な障害があり、一緒にいながらも結ばれることの無い状態。お互いがお互い高潔を求めるがゆえに、もう一歩踏み込めない状態。まさに、『新エロイーズ』に描かれるジュリとサン=プルーは、『ベルサイユのばら』のオスカルとアンドレである。

サン=プルーと真剣に愛し合いながらも、身分や家柄の壁を越えられなかった令嬢ジュリは、従兄弟である、クレールと結婚するようサン=プルーに熱心に勧める。おそらく心のどこかで、クレールもサン=プルーもお互いのことを愛していたのであろうが、ジュリという存在の大きさのために、二人はジュリが死んだ後も結局結婚せずに終わる。
最終的には、肉体的な愛ではなく、精神的な愛を賛美した、まさにプラトニック・ラブ賛美小説と言えるこの作品。とても美しい作品であり、悪人は全く登場せず、すべての人の心があまりに美しい。

普段、私は美しい心をもった登場人物が出てくる小説を好む。フランスの自然主義小説のように、性的に乱れた肉体関係を結ぶ作品は読んでいて気分が悪くなる。

しかし、この作品はあまりのも道徳的に素晴らしい人物が多すぎて、常にふわふわした感覚をもったまま読まされた気がする。
ジュリ、クレール、サン=プルーがそれぞれの恋に悩み、その感情を吐露した書簡などはぐいぐい引き込まれるが、結局、それも道徳的な働きかけの書簡により、落ち着いた状態になってしまう。常に欲求不満状態にさせられていた気がするのだ。

この小説を読んであらためて思った。
人間世界というのは、「悪」があるからはじめて「善」が引き立つ。そして最高の『善』にいたることが出来ないからこそ、人間は生きていけるのだと。

小説の最後で、ジュリはサン=プルーと天国で再び会い一緒になれることを望む。このひたすら「善」を描いた小説において、結末は、最高『善』で終わらせるしかなかったのであろう。

とても美しく、素晴らしい小説であるのだが、何となく後味の悪さが残る小説であった。
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新エロイーズ3 [哲学 ルソー]


新エロイーズ 3 (岩波文庫 青 622-6)

新エロイーズ 3 (岩波文庫 青 622-6)

  • 作者: ルソー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1961/03/25
  • メディア: 文庫



『新エロイーズ』三巻を読み終わった。遂にジュリとサン=プルーは別れ、ジュリは別の年上男性と結婚する。そしてこの結婚を自分に納得させるために、ジュリはひたすら「神」「神聖」「義務」という言葉を用いる。
数年たち、子供も三人でき、田舎へと引越し、ジュリは恐ろしいまでに、落ち着いた結婚生活を送る。
その家庭の中に、サン=プルーがお客として招き入れられ、共同生活を送る。正直私の感覚としてはわからないが、夫が、ジュリとサン=プルーの徳や貞節を信じている(というより試している?)ということらしい。
このジュリの田舎生活はすべてが自然で、ありのままで、美しく、すべてが強制されることなく、自分の意思のまま皆が動き、主人も従者もお互いがお互いを尊重しながら生きている。まさに、理想郷のような世界なのだ。それを目の当たりにしたサン=プルーは驚愕して何もできなくなってしまう。途中何度か、昔の恋の炎を燃え上がらせる瞬間が二人共あるが、結局何事もなく終わる。
ここでは、ジュリの子どもたちの教育についても述べられており、『エミール』の縮小版のような趣もある。


とはいえ、このまま終わるとは思えない、最終巻でどんな展開になるのか、楽しみだ。

最後に面白い数節を紹介したい。

p.53
「悪徳への第一歩は罪のない行為について隠しだてをすることでして、誰にもせよ自分を隠すことを好む者は遅かれ早かれ自分を隠すことが当然のことになるものです。」

p.105
「純粋な道徳は厳しい義務を非常に担わされているので、更にその上にどうでもよい形式までを附け加えることはほとどんど常に根本を害することになります。修道士の場合がそれで、彼らの大部分は数限りない無用の規則に服しているので、名誉と徳がどういうものであるかを知らないと言われています。」

p.121
「最も富める者は最も幸福なのでしょうか。一体、裕福は幸福に何の役に立つのでしょう。」

p295
「将来も決して話すことのない言葉を、しかも母国語をさえ十分に習得していない時に無理やりに子供に勉強させ、~中略~たところで、そのために子供が流す涙のいってきにもそれが価しましょうか。」

すべてを日本の国を支配している人、政策を作っている人、愚かな校長どもに聞かせてあげたい。
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新エロイーズ2 [哲学 ルソー]


新エロイーズ 2 (岩波文庫 青 622-5)

新エロイーズ 2 (岩波文庫 青 622-5)

  • 作者: ルソー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1960/12/05
  • メディア: 文庫



『新エロイーズ』の2巻を読み終わった。
ジュリとサン=プルーの身分違いの恋がジュリの父親に露見してしまい、二人は引き裂かれる。
露見してしまう原因を作ったエドワード卿から、駆け落ちの誘いを受けるが、ジュリは断る。
そしてジュリは最終的に他の男性と結婚してしまう。

普通の恋愛小説であれば、おそらく二人で駆け落ちするのであろうが、ジュリは恋人ではなく、結局家族を取る。駆け落ちすれば、家族の名誉が失われてしまうというのが理由であり、それを恋人のサン=プルーに滔々と説くのであるが、正直、やっていることの根底にあるものは父親と変わらないのではないだろうか。
父親は貴族ではない男と娘を結婚させるわけにはいかないと主張する。娘は身分違いということにこだわらずに恋愛をするのであるが、最終的には家族の名誉(つまり貴族という階級意識)を捨てることができない。非常に徳が高い女性と描かれているのだが、結局は、旧体制の中で生きている人間なのだな、と感じた。結婚後にサン=プルーに送った手紙も、神の意思などを強調し、結婚の神聖さを説き、自分のことは諦めるようにいうのだが、そもそも別の人と結婚した時点で、どうなのかと思ってしまう。
サン=プルーの感情的だが非常に抑制された心の模様が手紙のあちこちから感じられ、読んでいて胸が苦しくなってしまった。

以下ルソーの思想が見える箇所をいくつか紹介したい。

p.149
「人は自分の言う事柄にふさわしい態度を我知らず取るものであり、思慮分別のある話には媚態の気取りを加えるすべがないからです。わたしは彼女達がもはやあれほど美しくあろうと努めなくなってから今までよりもいっそう美しくなったと思いまして、彼女達が人の気に入ろうと思えば粉飾しなければそれでよいのだと感じたのです。」

これはパリの上流階級の人々と交わる仲で、サン=プルーがそこにいる女性達に関して述べた部分である。スポーツ選手や、何かに一生懸命に取り組んでいる女性は非常に美しい。それに対して、ただ美しくみせるために、行動している人は、外面は美しく見えるかもしれないが、真の美しさを感じない。この本のテーマであろう、「内面の美しさ」の重要さが述べられている非常に美しい文章である。

次に社会問題に関して。

p.194
「百万長者のいないわが国には極端な貧者がこれほど少ないのに、あれほど豊な都市ではどうして下層民がそんなに窮しているのでしょう。」

これは現在の資本主義社会にそのまま当てはまる問題である。どのような社会を我々はこれから構築していくべきなのか。200年以上前から分かりきっている状況を何故人間は変えられないのか。疑問である。

p.222
「人間を造るものが理性であれば、人間を導くものは感情なのです。」

これもとても素晴らしい。人間らしさとは理性的であることだとは思うのだが、それだけではやはりいざという時に行動できない。人間を行動させるのは感情なのだ。誰もが書けそうで書けない一文である。

これからまだまだ話は展開していくようである。
楽しみだ。
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新エロイーズ1 [哲学 ルソー]


新エロイーズ 全4冊 (岩波文庫)

新エロイーズ 全4冊 (岩波文庫)

  • 作者: ルソー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1997/07
  • メディア: 文庫



ルソーの小説『新エロイーズ』の第一巻を読み終わった。
漫画『ベルサイユのバラ』の中で、貴族オスカルに恋する平民アンドレが読んでいた作品で、ずっと気になって読みたかったのだが、岩波文庫はずっと絶版で、ネット中古市場にもほとんど出回っていないし、たまにブックオフなどでみつけても、どこかの巻が抜けていたりなどして手に入れることができなかったのだが、昨年、立川のブックオフで、偶然全巻揃っているのをみつけ、カバーはないものの、一冊100円、しかもとても綺麗な状態だったので、普段はカバーがないと買わないのだが、買ってしまった。

この作品、岩波は青としてジャンル分け(つまり哲学書の類)しているが、一応小説である。全てが、誰かが誰かに送った手紙というスタイルをとっており、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を彷彿とさせる。が、この作品は、お互いの手紙のやりとり、そのあいだに挟まっている人たちのやりとりも含んでおり、いろいろな角度から物事が考察されておりとても面白い。

簡単に言えば、貴族の令嬢ジュリと平民で教養ある市民の家庭教師サンプルー(仮名)の叶わぬ恋物語である。とても緊迫感があり、どんどん読み進められる。
ルソーの思想がたっぷり詰め込まれた小説であり、家の中の主人と使用人の平等、貴族の無意味性など、様々な登場人物を通した彼の理想主義が読んでいてとても心地よい。

酒で一度失敗してしまい禁酒を誓ったサンプルーに対し、恋人のジュリが「お酒は少しぐらいなら飲んでも良い」と言ったりする場面など、結構面白い。

これから物語はどんどん展開していくらしい。長い小説だが、楽しみに読みたい。

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エミール 下 [哲学 ルソー]


エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 )

エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 )

  • 作者: ルソー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1964/07/16
  • メディア: 文庫



『エミール(下)』を昨日読み終わった。エミールの妻となるソフィーの教育について語った巻。ルソーの女性観を綴った作品と言える。
超簡単に言えば、女性は、服装や飾り物を豪華にするなど外面を充実させて男性を惹きつけるべきではなく、内面を充実させて男性を惹きつけるべきだということ。
そしてエミールとソフィーが結婚するにあたり最終的にエミールに旅をさせて、様々な人生観を身につけさせ、ふたりは結婚してこの本は閉じられる。
上、中、下巻を通して、私の思想に一致する部分が非常に多い作品であった。
上巻でも書いたが、多くの親、教師、教育に携わる人々がこうした思想を持って、教育に当たることができたら日本の教育はもっと良くなり、日本全体がより良い社会に変わっていくと思うのだが・・・。
何故日本の教育・社会は独善的で、目に見える、点数化できるものしか評価しないのか。
よくわからない。
全ての問題意識が一過性のもので終わってしまう。環境問題も、原発問題も、体罰問題も、いじめ問題も、その他もろもろ、問題を根本的に解決しなければという思想が意思決定に関われる人間にまるでない。
本当にどうしようもない社会だと思う。

エミール 中 [哲学 ルソー]


エミール〈中〉 (岩波文庫)

エミール〈中〉 (岩波文庫)

  • 作者: ルソー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1963/07/16
  • メディア: 文庫



『エミール(中)』を昨日読み終わった。この巻のテーマは二つ。
①宗教教育
②性教育

①宗教教育とはいえ、絶対的なもの、神的なもの、に関してどう考えるかということに関する論文に近い。世界中に様々な宗教があるが、これが正しいというものはなく、そうした存在を認識するようになることが大切というような話。
②性教育はあえて行う必要はないというもの。小さい頃、面白半分に性の知識を与えることで、変な方向に進んでしまうというもの。だからなるべく若いうちはそうしたものに触れさせないことが重要だということを説いている。

400ページにわたってこの2つのテーマを言葉を変えながら綴ったもの。若干飽きてくる。とはいえ、共感する部分がこの巻にもかなりあった。特に性的なものを変な形で子供に与えなければ、そうしたものに興味を持つことなく育つといったあたりはかなり同感である。とはいえ、現代社会では不可能だろう。
そして宗教観に関してもかなり共感できた。
いかに印象的な言葉を挙げたいと思う。

*人間は容易に考えるようになるものではないが、考えるようになると、その後は考えることをやめない。
  →本当にその通りだと思う。しかし今の世の中考えない人間がどれほどいることか。
*宗教の儀式と宗教そのものとを混合しないようにしよう。神が求めている信仰は心の信仰だ。
  →形にしかこだわらない宗教がなんと多いことか。
*あなたがたの神は私たちの神ではない。初めにただ一つだけの国民を選んで、そのほかの人類を追放するような神は、人類共通の神ではない。
  →全世界の宗教信仰者に聞かせたい。

これらは我々教師が常に心に抱いていなければならないことなんじゃないかと思う。

エミール 上 [哲学 ルソー]


エミール〈上〉 (岩波文庫)

エミール〈上〉 (岩波文庫)

  • 作者: ルソー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1962/05/16
  • メディア: 文庫



『エミール』上巻を読み終わった。この本は大学2年生の頃読んだ。うちにあった岩波文庫で読んだのだが、段落分けもあまりされておらず、ひたすら文章が続き非常に読みづらい本だと感じた。2007年に改版されたようで、非常に読みやすくなっていた。

感想としては「素晴らしい」の一言である。250年近く前の本なので、現代と全くそぐわない部分や、若干差別的な部分がなくはないが、本書を貫く精神は現代にも当てはまる。

p38「生きること、それが私の生徒に教えたいと思っている職業だ。」
p240「いそいで獲得しようとしないものはきわめて確実に、そして速やかに獲得される」
p486「わたしの目的は、彼に学問をあたえることではなく、必要に応じてそれを獲得することを教え、学問の価値を正確に評価させ、そして何よりも真実を愛させることにある。」

など挙げればきりがない。最近の日本の教育は、知識をたくさん持っていること、資格をたくさん持っていること、早い段階から速く学ぶことが尊重されている。それはメディアなどを通してな~んにも考えていないくせに偉そうに教育問題に物申すアホな政治家、アホな大衆、アホな親たちの心の中に染み込み、それが教育言説となって日本中を取り巻いている。
しかし、彼らは教育、子供の成長など、まともに考えたことなどないのだ。そしてこうしたアホな連中にちかいアホな人間が教員になることによってこうした言説に惑わされた教育が行われる。

我々は「学び方」さえ知っていれば「学ぶこと」はいつでも出来る。全てを知ることなど不可能なのだ。何かを学びたいと思ったときに学べる力をつけてあげることこそが教育の役割のはずである。それなのになるべくたくさんの知識を植え付けることに汲汲としている教員がどれほどこの日本にいることか。

『エミール』は教育学の名著とされている。しかし、どれだけの教員がこの本を読んでいるのか。法律や経済、あらゆる分野で名著とされている本は多い。『国家』『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『資本論』。おそらく欧米の大学生はこうした古典の名著をしっかり読み、議論をし、賛成・反対は別として彼らの精神の中に宿して社会に出ていく。高等教育とはそもそもこうしたことを学ぶ場であり、就職予備校ではないのだ。しかし、日本の大学ではまともに本を読ませ、議論をし、認識を深めさせるということがほとんど行われていない。こうした過程を経ずに社会に多くの人間が出て行くから、身勝手で考えの浅いトップが日本では多く生まれるのではないだろうか。

『エミール』を読みながらふとこんなことを考えてしまった。

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