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国家の神話 [哲学書]


国家の神話 (講談社学術文庫)

国家の神話 (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/02/11
  • メディア: 文庫



大学時代、ゼミで、どういう文脈だったか今や覚えていないが、「カッシーラー」という名前が出てきて、興味を持ち、大学の生協で岩波文庫の『人間』という本を購入。かなり小難しい本なのかと思って読み始めたが、思っていたより読みやすく、その分厚さにもかかわらずあっという間に読んでしまった覚えがある。それ以来、彼の著作である『シンボル形式の哲学』と『認識問題』はずっと読みたいと思っているのだが、そのあまりの量に今まで読めずに来ている。

そんな中、昨年だが一昨年、宮田光雄ブームが自分の中でやってきて、そのとき彼が翻訳しているこの本がamazonのオススメで表示され興味が湧き購入。しばらく寝かせていたが遂に順番が巡ってきてこの度読んだ。昨年の12月に読んだ『ボンヘッファー』に続きかなりの名著だった。

この『国家の神話』は簡単に言ってしまえば、何故ドイツ人が、もっといえば、理性的であるはずの人間が「ナチス」に権力を掌握させてしまうような事態に陥ってしまったのかということを、「理性」と「神話」という観点から描いた作品である。

第一部で、「神話」とは何かということを定義し、
第二部で、「政治学史」において、代々の哲学者、著作家たちが、「理性」と「神話」をどう位置づけてきたか、もう少しいうと「形而上」と「形而下」をどのように考えてきたか、
第三部で、何故ナチス・ドイツが生まれてしまったか、その現代的源泉を、英雄崇拝者「カーライル」人種崇拝者「ゴビノー」、そして結果的に、歴史の中に英雄と優秀民族を位置づけた「ヘーゲル」、この三人を詳しく論じた後、最終的に現代のナチスを生んでしまった政治状況を論じている。

すごくわかりやすいのだが、まとめようとすると、非常に難しい。宮田光雄の解説でも、「全体としてみた場合、カッシーラーの神話にたいする態度は必ずしも明確ではない」(p.576)と述べている。一つ一つの言いたいことはとても明確なのだが、全体としての主張を読み解こうと思うとかなり難しい。これは、私の好きなテリー・イーグルトンなどにも言える傾向である。

印象的な言葉を拾いながら、すこしでもカッシーラーの論理を辿ってみたい。

第一部
pp12~13
「われわれの文化生活の現状を眺めてみると、ただちに、異なった二つの分野の間に深い間隙が存在していることに気付く。政治的行動ということになると、人は、あらゆる純理論的な活動で認められる法則とはまったく違った法則に従うかのように思われる。自然科学の問題や技術上の問題を解決するのに、政治的な諸問題の解決に際して推奨され、また使用されるような方法でやろうとは、何人も考えないであろう。前者の場合、合理的な方法以外のものは、決して用いようとはされない。」
p56
「神話は深く人間本性に根ざしており、それは基本的な、制御しえない本能ーその本質や特性はなお規定されないままであるがーに基づいている。」


この二箇所は、最終的に、理性的になったはずの人間が、非理性的な政権を受け入れてしまったのだが、それは人々が政権の提示する神話を受け入れてしまったせいであるのだが、では、なぜ非合理的な神話を理性的な人々が受け入れてしまうのかという、問いに対する答えを前もって第一部で提示している箇所と言える。


p58
「ヘーゲルのように、理性を《本体的力》ー《世界の主権者》というように語るのは馬鹿げている。真の主権者ーつまり、自然界や人間の生活がその周囲を回転している中心点ーは性的本能である。ショーペンハウアーが言ったように、この本能は、ここの人間を種の目的を促進するための道具とする、種の守護神なのである。」

カッシーラーは第三部でヘーゲルの考え方を批判するのだが、この部分もその前フリと言える。つまり、人間というものは理性的な存在なのだが、やはり理性的なだけではなく、本質的な部分では本能に従って生きている。そしてその本能は神話とつながっているということなのだろう。


p.66
「神話的思惟や神話的想像力の動機は、ある意味において、つねに同一である。人間のあらゆる活動や、そのいずれの文化形式の中にも、《多様なものにおける統一性》が見出される。」

これも最終的に、人々が何故ナチズムのようなファシズム、全体主義の中に組み込まれていった、いやその全体主義を主体的に作り上げていったかの説明である。多様な人々を統一するための手段として神話が用いられたということだ。


p.82
「死の原因を尋ねることは、人類の第一の、またもっとも切実な問いであった。死の神話は、いたるところでー人間文明の最低の形式から最高の形式にいたるまでー物語られている。~中略~ 議論の余地がないように思えるのは、宗教がそもそものはじめから《生と死についての》問いであったという事実である。」

これはあまり主題と関係ないところかもしれないが、「宗教=生と死についての問い」というのは非常に完結で良く出来た答えであるように思える。



第二部は、「プラトン⇒中世国家⇒マキャベリ」と論を展開していくのだが、マキャベリの新しさは、形而上と形而下を同じ原理で動いているものと考えたところにあるというのが非常に斬新であり、カッシーラー特有の論だと思うのだ。それを軸に以下の言葉を拾っていきたい。

p115
「彼(プラトン)が求めるのは、最善の国家ではなく、《理想》国家である。~中略~経験的な真理と理想的な真理との本質的な差別を強調することが、プラトン認識論の根本原則の一つである。」

つまり、形而下(現世)的な世界で考えることと、形而上(神)的な世界で考えることを明確に区別したということであり、プラトンが伝えたかったことは、実際の政治をどう動かすか、ということではなく、理想の政治はどのようにあるべきか、ということだったということだ。

p.122
「プラトンは、『パイドン』において、因習的な道徳の規則をすべて受け容れ、小心翼翼とあらゆる成分法規に従うということだけで、自分を正しく、正当なものと考えるようなタイプの人々について、軽蔑した皮肉な調子で語っている。これらの人々はおとなしく悪気のない奴らであるが、より高い、真に自覚的な道徳の見地からすれば、彼らはほとんど何らの価値もない、と彼は述べている。」

この世の人間の90%以上は、このような人間であり、日本の権力者(学校組織の校長なども含む)の98%もこのような人間であろう。このような何らの価値もない人間たちが、権力者になれる日本社会が良くなるはずはない。

つぎからが中世のアウグスティヌスになる。プラトンは神というものを想定せず、理想(イデア)を形而上的なものとしておいたが、アウグスティヌスはそのかわりに神を形而上的なものとして想定する。しかし二人に共通しているのは、形而上と形而下は分けている点である。

pp134~135
「プラトンの説によれば、善のイデアに到達し、その本質を理解するためには、人は《さらに長い回り道》~中略~を選ばなければならなかった。アウグスティヌスは、この長い迂遠な道をとることを拒否する。キリストの啓示が、それよりもさらにすぐれた、より確実な道を彼に教えてくれたのであった。」
p138
「ギリシアの思想家たち、ソクラテスやデモクリトス、プラトンやアリストテレス、ストア派やエピクロス派の人々が展開した倫理体系はひとつの共通した特徴をもっている。それらはすべて、ギリシア思想の同一の原則的な主知主義の表現にほかならない。われわれは合理的な思惟によってこそ道徳高位の基準を見出すべきであり、そしてこれらの基準にその権威を付与しうるのは、理性であり、ただ理性のみである。こうしたギリシア的主知主義と比較して、預言者の宗教は、その深い徹底した主意主義によって特徴づけられる。神とは一個の人格であり、そしてこれはひとつの意志を意味している。論証や推論といった単なる論理的方法をもってしては、この意志を理解することは出来ない。~中略~神と交わるただひとつの方法は、祈祷や犠牲ではなく、神の意志に服従することにほかならない。」

ここはわかりづらいが、確かに神に頼るということは、神話(儀式)などに頼ることにつながるように見えるが、そうではないということが言いたいような気がする。プラトンとアウグスティヌスは形而上の者として、イデア(理性)と神という違うものをおいたが、それでも形而上と形而下を分けているという点では同じだということなのだろう。

p.181
「中世国家理論は、二つの前提、つまりキリスト教の啓示の内容と人間の本来的平等というストア的観念に基づく首尾一貫した体系であった。」

このあと、これは実質的な意味においてはそれはまったく基礎薄弱のように見えたと書かれているように、現代のアメリカ社会のように単なるお題目に過ぎなかったのであろうが、これはこれで興味深い。中世というと封建主義という平等からは程遠い社会をイメージするが、ナチス・ドイツや帝国主義日本を世界的な観点から見た時と比べれば、はるかに平等をもとに動いていた社会なのだろう。

pp184~185
「プラトンは、その理想国家の正しさを賞賛しただけでなく、さらにその美しさをも賛美した。~中略~こうした国家間は、初期のキリスト教思想には容認し難いものであった。国家は、ある程度までは正当なものとみなされたけれども、それに美を帰することは決してできなかった。国家を清らかな、汚れなきものと考えるわけにはいかなかった。」

ここもカッシーラーが本当に意味したいことは私にはわからないが、国家を常に相対的に見ていたという意味で、1940年前後の全体主義とは根本的に違った、つまり世界全体を平等主義的に見ていたということが言いたいのだろうと思うのだ。

そしていよいよマキャベリ論に入る。カッシーラーはマキャベリとコペルニクス・ガリレオの同一性を面白い視点から論じる。

p.227
「アリストテレスの宇宙論体系は、コペルニクスの天文学体系にとって代わられた。後者には、もはや《高き》世界と《低き》世界の区別は認められない。あらゆる運動は何であれ、地球の運動も天体のそれも同一の普遍的法則に従うのである。~中略~世界は同一の無限の神的精神によって満たされ、生かされた無窮の全体にほかならない。宇宙のどこにも特権を有する場所はなく、《上》や《下》といったものは何ら存在しない。政治の領域でも、封建的秩序が解体して、崩壊し始めた。イタリアでは、新しい全く別の方の政治体が現れた。」

つまり、ルネサンスに入り、形而上と形而下の違いがなくなったということである。そしてマキャベリの新しさは、プラトンやアウグスティヌスと違って、理想の国家像を提示するのではなく、現実的に政治をどのように動かしていくべきなのか、という道徳云々を無視した、つまり形而上的な視点を完全に形而下的視点に組み込んで『君主論』を展開したことにあるとカッシーラーはいうのである。

p.263
「彼(マキャベリ)は様々な統治形態を脅かす、起こりうるあらゆる危険を予見して、それにたいして備えをする。彼は支配者に、その権力を確立し、維持し、内的な軋轢を避け、謀反を予知して防ぐために何をなすべきかを説く。」
さらにカントの言葉をひいてカッシーラーはマキャベリの考えを続ける。
「医師がその患者を徹底的に健康にするための処方箋と、毒殺者が確実に人を殺さんがための処方箋とは、いずれもその目的を完全に遂げるのに役立つという点では、同じ価値のものである。」

つまり、マキャベリは、その『君主論』の中で、理想の道徳的に美しい(形而上的)国家像を描いたのではなく、現実的に政治をなす上であるべき(形而下的)国家像を描いたのである。これをしっかりと認識しないまま人々は『君主論』を読むので、マキャベリに対して批判的な見方をするのだと説く。

p.266
「マキャベッリの政治学とガリレオの物理学は共通の原理に基づいている。両者とも自然の均一性と同質性という原理から出発する。自然はつねに同一であり、自然現象はすべて同じ不変の法則に従っている。これはやがて、物理学や宇宙論において、《高き》世界と。《低き》世界の差別を破壊するにいたる。」

プラトン、アウグスティヌスと形而上・形而下と分けていたものが、マキャベリによって、同じものとみなされるようになる。このあと、理性を重視する啓蒙主義がやってきて、そしてその後ロマン主義がやってくる。このロマン主義が全体主義の源泉であるといいたいのであろう。

p.310
「彼ら(ロマン主義者)は、、歴史のいずれの時代も固有の権利をもち、固有の基準に従って測られねばならないことを説くだけでなく、はるかに徹底した見解を抱いた。《歴史法学派》の創始者たちは、歴史が法の源泉であり、起源そのものだと言明した。歴史に勝る何らの権威も存在しない。法や国家は人間によって《作られ》ることはできない。それは何ら人間の意志の所産ではなく、したがって人間の意志の管轄下にあるものではない。~中略~人間が法を作り得ないのは、あたかも言語や神話や宗教を作り得ないのと同様である。」

ここは非常にわかりづらいが、恐らく、人間の理性や神ではなく、悠久の歴史そのもの、つまりつねに存在する神話が権力を支えるものということなのだと思う。それは人間がどうこうできるものではない、つまり人々はそれに完全に同調し、自分を一体化させるしかなくなる。まさに万世一系の天皇を頂点とする戦前の日本の精神構造、いや現在の日本の精神構造そのものである。

p.311
「この形而上学的思想によれば、神話の価値は根本的に一変させられる。啓蒙主義のいずれの思想家にとっても、神話は野蛮なもの、混乱した観念と愚かな迷信の奇妙奇怪な集合単なる怪物にすぎなかった。神話と哲学のあいだには、何ら接触点はありえなかった。~中略~ロマン主義者に目を移すと、こうした見解は根本的な変化をこうむっている。これらの哲学者たちの体系において、神話は最高の知的関心の主題になるだけでなく、また畏敬と崇拝の主題ともなった。」

ロマン主義によって、今まで野蛮で混乱したものであった神話が崇拝されるようになった。つまりは、自分の頭(理性)で考えることなく、ひとつのものに自分を預けてしまうような精神性の基礎を築いてしまったのである。


第三部から現代の全体主義の大元である、英雄主義(カーライル)、人種主義(ゴビノー)、歴史主義(ヘーゲル)の分析になる。

p.329
「論理は有益であるが、最善のものではない。論理によっては、人生を理解することはできず、いわんや、その最高の形式たる英雄の生活は理解し得ないであろう。」

これはカーライルの言葉であるが、こうした思想が、英雄(ヒトラー、天皇)崇拝を生んだということであろう。

p.466
カッシーラーはヘーゲルを痛烈に批判して言う。
「彼(ヘーゲル)はつねに《現実的》なものと《腐った現存在》しかもたないものとを明確に区別した。しかし、こうした区別を、我々の政治的・歴史的生活にどのように適用しうるであろうか。歴史的世界において、何が実体的であり、または偶有的であるのか、または現実的・永遠的であるのかを、いかにして知りうるのであろうか。この問いに対して、ヘーゲルの体系はただひとつの回答を与えうるにすぎない。世界史とは世界の審判である。この最高の法定ーその判決は不可謬で取り消し得ないものであるーに訴えるということのほかには、いかなる手段も残されていない。《民族精神》でさえ、この審判から逃れることはできない」

ヘーゲルは、世界史上、弁証法を繰り返しながら、最もすばらしい文明を築き上げたのがヨーロッパ文明であると説く。それは世界史が証明しているという。これは批判は可能だが、あくまで主観なので反駁することができない。まさにこの思想こそがナチスを許容する人びとの精神性を生み出したというのであろう。
私は、ヘーゲルを賞賛する多くの人々に次の言葉を聞かせてあげたいと思う。

p.467
「ヘーゲルの論理学や哲学は、合理的なものの勝利を告げているように思われた。哲学がもたらす唯一の思想は単純な理性の思想、つまり世界史が我々の眼前に理性的な家庭として現れるということである。けれども、ヘーゲルが自らは意識しないで、人間の社会的・政治的生活のうちにかつて現れたもっとも非合理的な力を解き放ったということこそ、彼の悲劇的な運命であった。」

私は、伝統や慣習を盾に、物事を変えなかったり、その通りにしか物事を動かせない人が大嫌いだ。そうした権力者が許せない。しかし日本社会というのはそういうところだ。日本のコミュニティの多くはそういうところだ。理性が全てではない。しかし、ある程度理性的な視点で物事を見ていかなければ世界は良くなっていかないのではないだろうか。なぜ人々は政治ということになると、理性ではなく、神話的な視点でものごとを見てしまうのだろうか。それが人間の根本にあるものだからだろうか。。。。

p.478
「何ら特別の異常な努力や、特別な勇気とか忍耐を要さないような仕事の場合には、すべて呪術や神話がまったくみられない。しかし、もし企図されたことが危険で、その結果が不確かな場合には、つねに、高度に発達した呪術やこれと関連した神話が現れるのである。」
だから、権力者たちは、理性をもって物事を考え、意思決定ができないのであろう。

p479
「静穏で平和な時代、相対的な安定と安寧の時期には、この合理的な組織を維持していくことは容易であり、それはあらゆる攻撃から安全であるように思われる。しかし、政治においては、完全な均衡が打ち立てられることは決してない。~中略~人間の社会生活が危機におちいる瞬間には、つねに古い神話的観念の発生に抵抗する理性的な力は、もはや自己自らを信頼し得ない。このような時点において、神話の時機が再び到来する。」
大変な時こそ、人々が自由から逃走し、全体主義に走るのはまさにこの理由によるのであろう。

p.487
「同一の儀式を絶えず、一斉に、一本調子に遂行することより容易に、われわれの能動的な力、判断力や批判的な識別能力を全て眠らせ、そしてわれわれの人格意識や個人的な責任感を取り去ってしまうものはないであろう。」
仏教のお坊さんで人格意識の欠如した、責任感のない人を結構知っている。これは、ひたすら一本調子で、どんな時でもおなじようにお経を読む、せいがあるのかもしれないと妙に納得した。

最後は、エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を彷彿とさせる言葉で締めくくりたい。
p.493
「人間がただその生来の本能に従うにすぎないなら、彼は自由を求めて努力しようとはせず、むしろ隷属することを選ぶであろう。」


非常に非常に刺激的で面白い本だった。
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自由と社会的抑圧 [哲学書]


自由と社会的抑圧 (岩波文庫)

自由と社会的抑圧 (岩波文庫)

  • 作者: シモーヌ・ヴェイユ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2005/03/16
  • メディア: 文庫



シモーヌ・ヴェイユの著作を久しぶりに読んだ。

シモーヌ・ヴェイユの作品を読むといつもそうなのだが、本の中にあまりにも素晴らしい言葉が散りばめられているので、付箋でいっぱいになる。あまりにも多すぎて付箋の意味がなくなるくらいだ。

内容としては、より自由な社会を目指したマルクス主義の思想には共感するが、その論、そしてその後の行動を批判の俎上に挙げる。

抑圧されて苦しんでいる労働者たちは、共産主義の樹立によって解放され、自由になると訴えるマルクスに対し、「すべての革命は、一瞬抑圧形態を首尾よく消滅させてもすくさまあらたな抑圧が導入される」(p.39)と言う。さらに「抑圧というものは、経済のより高次な形態においてようやく出現するのではなく、すべての形態について回る。したがって、ごく原始的な経済とより発達した経済携帯のあいだには、抑圧の程度だけでなくその本質にも違いがある」(p.47)とも言う。昔と今で違うのは、昔は自然に抑圧されていた人間が、自然を科学により征服したあとは人間(資本家、工場主、地主など)によって抑圧されるようになったというのだ。とはいえ近代の人間たちも完全に自然からの抑圧から自由になったわけではない。そして人間が生きていく上で、この自然からの抑圧、人間(社会)からの抑圧を完全に取り除くことは不可能だと言う。
だとしたらどうすれば良いのか。彼女の結論は以下のとおりである。
「自然と社会による二重の支配への従属がもっとも軽微な状況とは何かを構想することだ。」(p.75)
さらに
「自由を夢想するのをやめて、自由を構想する決意をすべき時期がきている。」(p.81)
つまり、いままでのマルクス主義は、完全に抑圧から解放され自由な状態を人々に提示してきたのだが、そんな状態はありえない。だからこそ革命はうまくいってこなかった。いまやるべきことは、達成されない自由を夢想するのではなく、ありうる自由をしっかりと考えて構想し、その構想した自由を求めて行動するべきなのだ、と説く。

次の一節は感動的だ。
「真の自由を規定するのは願望と充足の関係ではなく、思考と行為の関係である。」('p.84)
「あらゆる仕草(行動)が自身の思考以外を源泉とする場合、その人間は完全な奴隷である。」(p.85)
つまり、現状に対し文句を言って、理想の状況を酒の席でただぐちぐち語り合って実際は何も行動しないようなことではしょうがない。奴隷と同じである。現状の何が問題かを考え、それを改善すべく最善の努力をすることこそが真の自由を得るために必要なことなのだと言うのだ。

つまり人間が社会を変えていく際に重要となるのは一人ひとりの思考であり、一人ひとりが常に考えるべきだと行っているのだ。

「しかるに人間の思考には外部からの侵入や操作はありえない。ある人間の運命がほかの人間たちに依存するかぎり、その生はみずからの手をすり抜けるのみならず、みずからの知性をもすり抜けていく。」(p.100)
我々は他人に押し付けられた考えをそのまま受け入れて行動していたら本当の意味で生きているとは言えない。奴隷状態のままである。
ではどのように思考したらいいのか、どうすれば思考できるのか。

「ひとりで自己と向き合う精神においてのみ、思考は形成される」
「思考以外のすべては、肉体の動作を含め、外部から力ずくで強制されうるが、世界の何をもってしても、人間に思考力の行使を強いることも、思考の制御を控えさせることもできないからだ。」(p.103)
つまり一人で考えるべきだと、さらに一人で考えているという行為を誰も止めることはできないし、逆に、思考することは強制できないので、積極的に自ら考える姿勢を持つべきなのだ。

では、どのような社会が理想なのか。
「要約するならば、もっとも弊害の少ない社会とは、一般の人々が行動するさいにあたってもっとも頻繁に思考する義務を負い、集団的生の総体にたいして最大限の制御の可能性を有し、最大限の独立を保持するような社会である。」
つまりは一人ひとりが深く考え、最善(best)ではなく、より良い(better)な社会を構築していくことで、できる限りの自由を得られる社会こそが善い、とするのだ。何故bestではないかというと、先にも記したが、完全に抑圧のない社会の中などありえないからだ。

そして非常に面白い言葉が示されている。
「隷従は当人にこれを愛させるまでに人間の品性を損なう。さらに、現実に自由を享受する人間でなければ、自由を貴重なものとは思わない。われわれの政体のように全面的に非人間的な政体は。あらたな人間社会を形成しうる人間を鍛え上げるどころか、被抑圧者と抑圧者の別なく、政体に従属するすべての人間をおのれの似姿とすべく造形する」(p.132)
簡単に言えば、権力者から一般人までなにも考えずに流れに乗ってただ生きているということだ。まさに日本中の多くの共同体に当てはまることではないだろうか。伝統の名のもとに、習慣の名のもとに、不条理、非合理なことを改善することなくただ漫然と行動する人々。それは真の意味で生きているとは言えないのだ。

「力は思考を制御できない、とよくいわれる。しかし、これが事実であるためには、思考が存在していなければならない。理にかなわぬ臆見が概念の代わりをするところでは、力はなんでもできる。」(p.134)
結局人々は一人ひとりが思考しない限り、権力によって抑圧されてしまう。抑圧している人間も思考することなく抑圧している。お互いがお互いに寄りかかった状態で抑圧システムを作っているのだ。これを打倒するには結局は一人ひとりが思考するしかないのだ。

これは私の卒論と同じことを言っている。一人ひとりが思考することによってよりよい社会、平和な社会を築いていける。一人ひとりが思考できるようになるために教育に何ができるのか。私は大学以来常に考えている。なかなか答えは出ないし、決して完全なる答えは出ない。しかしより善い社会を求めて、より自由なる社会を求めて、より社会的抑圧の少ない社会を求めて、皆が思考していかなければならない。
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獄中からの手紙 [哲学書]


獄中からの手紙 (岩波文庫)

獄中からの手紙 (岩波文庫)

  • 作者: ローザ・ルクセンブルク
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1982/05/17
  • メディア: 文庫



ローザ・ルクセンブルクの『獄中からの手紙』を読み終わった。
ローザ・ルクセンブルクは興味があるものの、彼女の書いたものは基本的に経済系のものばかりで、なかなか読む機会がなかった。今回、岩波文庫からこの『獄中からの手紙』が復刊され、手紙ということで読みやすいだろうということ、さらに100ページ強で短いということもあり買って読んでみた。

革命を指揮した共産主義者、マルクス主義者の獄中からの手紙なので、さぞかし政治的・思想的に深い内容の込められた手紙ばかりなのだろうと思っていたのだが、ほとんど政治的・思想的な内容は含まれていなかった。まあ、当然看守の検閲等があるのだから、そんなに深い内容を手紙に記すことも出来ないのだろうが・・・。

手紙の送り先は、同士カール・リープクネヒトの妻ゾフィー。二人はとても仲が良かったことが手紙の端々から伝わってくる。
手紙の中身は、獄中で感じた自然の美しさを描写したものがほとんどで、あとは、彼女の好きな詩や文学作品を送ってくださいと依頼するもので文章が埋められている。もちろん、同士の誰々が捕まったこと、殺されたことなどが若干触れられたりするが、そうしたことにあまり気を揉まないようにというようなことをひたすらゾフィーには伝えている。
獄中の中で他にやることがなく、自然に目を向けるしかなかったということも当然あるのであろうが、とても自然に対する視線が優しく、細やかで、革命を指揮した女性というイメージとはほど遠い。次の文章などは、彼女の優しさ、心の美しさを示している箇所といえるだろう。

pp..34~35
「きのうは、ちょうどドイツの国から啼く小鳥達が姿を消していく原因に関するところを読みました。それは、合理的な森林管理法や、造園術や、それからまた農業技術などが次第に普及するようになったからであって、これらが進歩するにつれて、かれらが自然の中に求めていた巣ごもりや餌の諸条件~(中略)~が次々と奪われていく結果になったのです。これを読んだとき、わたしは我慢が出来ぬほど悲しくなりました。~(中略)~かれらは、まさしく一歩一歩、文明人の手によってその生まれ故郷から追い出され、無言のうちに陰惨な境遇へ陥ち込んでしまったのです。」

そして興味深い、人間、社会に対する冷静な視点も紹介したい。
p.48
「二万年あまりはつづいているとみてよい人類の全文化史は、物質的諸条件のうちに深い根をはっている「人間によるほかの人間に対する支配」を基盤として成り立っているのですよ。これを変革するのには、さらにいまひとつの、苦悩に満ちた発展を遂げなければなりません。」

ローザがなくなってから約100年。結局、「人間によるほかの人間に対する支配」は変革されないまま、人間は発展を遂げられないままだ。

期待していた内容とは大きく違っていたが、とても心洗われる美しい作品だった。
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弁論術 [哲学書]


弁論術 (岩波文庫)

弁論術 (岩波文庫)

  • 作者: アリストテレス
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1992/03/16
  • メディア: 文庫



アリストテレスの『弁論術』を読み終わった。
学生時代、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読んだのだが、基本的に中庸(ほどほどが良い)ということをひたすら言っているだけで、読みづらくはないが、得るものは少なかった経験があり、それ以来アリストテレスからずっと遠ざかっていた。
今回、仕事の関係で、この『弁論術』を読むことになった。
かつて弁護士を志していたこともあり、こうした類の本に興味がないわけではなかったので少し楽しみに読んだ。
さすがに分類の神様アリストテレス、といった感じで、まずは「弁論術」の定義から入り、弁論術によって説得する際、重要となってくる3つの要素(論者の人格・聞き手の心の状態・言論の証明)を紹介し、さらに、弁論が関わる3つのとき(議会・法廷・演説)をわける。
そしてそれぞれについて細かく論じていく。まさに抽象から具体といういまでも通じるやり方をこの本を通して実践している。
はじめの抽象的な部分は興味深く呼んだのだが、具体例になっていくと、あまりにも分類が細かく、正直読んでいてもあまり得るものがなく、かなり飛ばし読みとなってしまった。

論理的に語るとは何なのか、ということを論理的に考えたい人には良い本だと思うが、おそらくそれがあまりできていなくて、身につけたいと思うような人には理解しきれず、読みきれない本であろう。名著であることは間違いないとは思うが、あまり人にはオススメできない本である。
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告白Ⅲ [哲学書]


告白 III (中公文庫)

告白 III (中公文庫)

  • 作者: アウグスティヌス
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/03/20
  • メディア: 文庫



アウグスティヌス『告白Ⅲ』を読み終わった。
Ⅰ巻はキリスト教改宗以前の若い頃の懺悔
Ⅱ巻はキリスト教に改宗していく心の動きを描いたもの
と、非常に興味深く、かなり読んでいてひきつけられた。

が、Ⅲ巻は基本的に聖書の解釈であり、約300ページに渡り、旧約聖書の天地創造部分を緻密に論じているだけなので、若干(かなり)飽きてしまい、最後のほうはかなりの飛ばし読みとなった。

本というものはそのときの自分の興味関心、体調、心の状態などで読み方が大きく変わっていくものなのだと思う。正直今は、聖書の注釈、解釈に浸かれる心の状態ではなく、アウグスティヌスが問題にしたいことは分かったが、正直その問題を自分の問題として考えられなかった。

①神がこの世を創造する前に「時間」はあったのか
②我々が考える天と地(具体的・可感的)と天と地(抽象的・可知的)はどう違うのか、
③聖書はどのような書物か(書かれているものをそのまま事実として読むのか、象徴的なものとして読むのか)
等、テーマだけをみると、本当に興味深いものばかりなのだ。
そして、その後の西洋思想で考えられているものの根幹となる物ばかりだとも思う。

昨年末、スピノザの『エチカ』を読んでいた頃、その流れでこの本を読んでいたらもう少し意義ある読み方が出来ていたかもしれない。色々なことを深く考え、分からないことは分からないと潔く認め、人間の感知できない部分に関しては神に委ねるという姿勢はとても共感でき、素晴らしかったので、是非こころが向いたときはもう一度このⅢ巻と向きあいたいと思っている。

非常に人間的であり、神に対する真摯さも素晴らしいアウグスティヌス。非常に魅力的であった。
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告白Ⅱ [哲学書]


告白 II (中公文庫)

告白 II (中公文庫)

  • 作者: アウグスティヌス
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/03/20
  • メディア: 文庫



『告白Ⅱ』を読み終わった。イタリアに赴き、マニ教から離れ、キリスト教信仰の道へ入っていく過程を事細かに書いた作品。

キリスト教を身近に感じられる生活をしながらも、キリスト教に懐疑心を抱き、マニ教に一時は走り、そこから客観的にキリスト教を見直し、キリスト教を信奉するようになった人物の回顧録なので、キリスト教を信じる、というところまで行けない人間にはぴったりの書といえる。

と、書いている自分がまさにそういう人物なのだが、やっぱり信じるというところまではいけない。

この本の中で私が最も心残った一節。

p.299
「まことに、地上における人間の生は、間断のない試練ではないでしょうか。」

私もまったくその通りだと思う。試練のない、穏やかな生をおくりたい。
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告白Ⅰ [哲学書]


告白 I (中公文庫)

告白 I (中公文庫)

  • 作者: アウグスティヌス
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/03/20
  • メディア: 文庫



『告白Ⅰ』を読み終わった。Ⅰ巻は、キリスト教の信仰告白をする前までの、奔放に過ごした若い時期を回顧した文章。確かに、キリスト教の大教父と後に呼ばれる人間からすれば、むちゃくちゃな青少年時代だったのかもしれないが、おそらく一般的にはかなり普通であり、どちらかといえばしっかりとした生活を送っていたのではないかと思われる。

知的好奇心にあふれ、世間を少し斜めに見ながらも、行われていることに対してしっかりと目をむけ、同世代の友人達と羽目をはずしたいたずらをし、異性に興味を持ち、性的欲望に悩み、などなど、本当に普通の子どもであり、こうした普通の青春時代を過ごしたからこそ後々大教父になれたのだとおもう。

私は以前ダ◎イ・ラマ●世の講演を聴いたことがあり、彼は少年時代から「怒り」の感情を持ったことがないと言っていたが、そんな人間がこの世にいること自体に疑問を感じるし、もし本当だとしても「怒り」を感じたことのない人間など私は信じられない。

やはり色々なことを経験し、色々な感情を持ち、様々なことを乗り越えてきた人間ほど、懐の深い信頼できる人間になれる。そうした意味で、本当に素晴らしい、教父だったんだろうなあ、と想像できる。

以下、心に残った箇所を数点。

p.59
「主よ、わが神よ、見たまえ。いつものように、忍耐をもってみそなわしたまえ。人の子らは、先に語った人々から受け継いだ文字や音節の規則の遵守には実に細心でありながら、久遠の救いのためにあなたからうけた永遠の契約のほうは、何とおろそかにすることか。」
律法や形式を重んじ、その精神・内容を疎かにする人々に対して発せられた言葉なのであろう。2000年前から人はまったく変わっていない。

p.212
「真理の神なる主よ、これらのこと(様々な科学的知識)を知っている者はだれでも、それだけでもう、あなたのお気にめすのでしょうか。まことに、これらのことをすべて知りながら、あなたを知らない人があるならば、その人は不幸です。これに反し、あなたを知る人は、たとえこれらのことを知らなくてとも、幸福です。また、あなたを知り、これらのことをも知っている人があるとしても、その人はこれらのことを知るがゆえにより幸福であるわけではなく、ただあなたを知るがゆえに幸福なのです。」

最近、グローバル化が叫ばれて久しい。グローバル人材・世界で活躍できる人材を求める声は大きい。しかしグローバルに活躍できる人間は人間として優れているのだろうか。それだけで偉いのだろうか。別にグローバルな舞台で活躍しなくても、自分のやるべきことを日々行い、幸福に暮らしている人はたくさんいる。この文章を読み、昨今の日本の教育の進むべき方向が間違っていることをあらためて認識した。教育とは人々が幸せに暮らせるようになるために行われるべきものであり、特に義務教育ではその部分が重要なはずだ。しかし最近の流れは人々に挫折感を多く味わわせるものなのではないだろうか。

松崎一平という人が書いた「『告白』山田晶訳をもつということ」という文章から。
山田晶が、古典作品の理想的な読み方を語った部分。
p.322
「西欧において、古典の研究が高い水準を維持しているのは、彼らの国語が古典語に連続するからではない。~中略~それは、古典の一字一句をゆるがせにせず、それを解読する人が、なお西欧に存在するからに他ならない。古典の一字一句を、簡単に分かったとせずに、丹念に辞書を引き、文法を調べ、正確に分析し、このようにして解読の仕事を忍耐強くおしすすめ、その仕事の過程にひらめきあらわれる古典の意味の照明に、至高の悦楽を味わうような人がまだ存在するからにほかならない。要するに、古典の含む意味を自分のものに主体化するために、これを思いきり客体化して考察できる批判的精神の持ち主が、西欧にまだ存在するからにほかならない。」

日本人はおそらく古典の含む意味を自分のものに主体化することなく、客体化して考察する、批判的精神の持ち主ばかりなのだろう。
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岡倉天心コレクション [哲学書]


茶の本 日本の目覚め 東洋の理想―岡倉天心コレクション (ちくま学芸文庫)

茶の本 日本の目覚め 東洋の理想―岡倉天心コレクション (ちくま学芸文庫)

  • 作者: 岡倉 天心
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/06/01
  • メディア: 文庫



岡倉天心コレクションを読み終わった。
『茶の本』『日本の目覚め』『東洋の理想』という英語で書かれた本の翻訳本であり、岡倉天心が書いた作品はこれですべてらしい。
題名、内容からしてつまらなそうだったので、全く手に取ろうとも思わなかった本だが、仕事の関係でしょうがなく読んだが、『茶の本』は面白かった。『日本の目覚め』と『東洋の理想』は日本の歴史を宗教と芸術の観点から描いた作品で、東洋文化は西洋文化に劣るものではない、ということを主張したもので、内容は素晴らしいのであるが、日本史に興味のない私としては若干退屈だった。
福沢諭吉と並び、西洋文化を深く学び、それを内面化させて上で、東洋文化と西洋文化を客観的に考察し、西洋・東洋文化を冷静に批判的に論じたもので、本当に素晴らしい。この姿勢は見習いたいと思う。
以下、気になった箇所をいくつか紹介したい。

『茶の本』
p.9
「西洋人は日本が平和な文芸に耽っていた間は、野蛮国と考えていたものである。ところが日本が満州の戦場に大虐殺を行い始めてからは文明国と呼んでいる。~中略~もし文明ということが、血腥い戦争の栄誉に依存せねばならぬというならば、我々はあくまでも野蛮人に甘んじよう。我々は母国の芸術と理想に対して、当然の尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待つとしよう。」
これは素晴らしい一節だ。『東洋の理想』で「アジアは一つ」と述べ、後の「八紘一宇」いわゆる日本の亜細亜侵略の一因となったなどとバカな主張をする輩がいるらしいが、彼の著作を少しでも読めば、彼の平和主義がいたるところからあふれ出ていることに気づくはずだ。

p.57
「人々は自己の感情には無頓着に、一般に最上と考えられているものを得ようと騒ぎ立てる。高価であれば優雅でなくともよく、流行品であれば美しいものでなくとも良い。一般大衆にとっては、彼ら自身の産業主義の貴い産物である絵入り定期刊行物を観照することの方が、彼らが感心しているふりをしている初期イタリアの作品や足利時代の名匠の作品よりも、美術鑑賞の糧としては一層消化しやすいのであろう。」
まさに今の日本人である。

『日本の目覚め』
p.123
「東方の賢者はいまなお手段と目的とを混合しない。西方の人間は進歩を信ずる。だが何を目途の進歩なのか。アジア人は尋ねるー物質的能率が達成されたならば、いったい、いかなる目的が果たされたというのだろうか。いうところの同胞感情が世界の協力を実現したあかつきには、それがいかなる目的にかなうというのだろうか。もしそれが単なる私利私欲に尽きるならば、自慢の進歩は果たしていずこにありやと言わねばなるまい。」
これも西洋文明の欺瞞性をあばいた名文である。
p.183
「いったい戦争というものはいつなくなるのであろうか。西欧では国際道徳が、個人道徳の高さにはとてもおよばぬところに残されたままである。侵略国には一片の良心もなく、弱小民族を迫害するためには騎士道もすて去られる。」
本当にいつになったら戦争のない世界が訪れるのだろう・・・
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文明論之概略 [哲学書]


文明論之概略 (岩波文庫)

文明論之概略 (岩波文庫)

  • 作者: 福沢 諭吉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1995/03/16
  • メディア: 文庫



福沢諭吉著『文明論之概略』を読み終わった。
岩波文庫版は『学問のすすめ』と同じく、現代語訳されていない文体なので、非常に読みづらかった。正直、英語の本を読むよりも時間がかかったし、内容理解もかなり低かった気がする。その言語にどれだけ慣れ親しんでいるかによって理解力がこれほど違うのか、と実感した。

結論は、日本は外国からの圧力に負けないような独立国になるべきだ、というものだ。
まずは、国民一人ひとりが智者となり、日本が全体として知的な国家になるべきことを説く。そして文明とはどのようなものか、ということを論じ、確かに西洋は東洋よりも進んでいるが、理想的な状態ではないことを滔々と語る。
さらに文明には智と徳があり、徳と言うことに関していえば西洋も東洋も変わらず、智という側面において西洋に追いつく努力をすべきと主張する。
最後に西洋と日本の文明化の歴史を語り、最後に、文明を掲げながら、国と国との関係を見ると、まったく平等ではない現代の世界をなげき、日本が本当の意味で西洋と平等な関係を築き、真の意味での独立を達成すべきことを主張して終わる。

文章中ところどころで、形だけを取り入れてもしょうがなく、それを内面化して形をつくっていくことの重要性を訴えている。
こうしたこともふまえ、彼が100年以上も前に訴えたことが、今でもまったく変わらず当てはまってしまうことに感動と絶望を覚える。古典を読むといつも同じ結論に至る。それが古典を古典たらしめているのであろうし、人間の愚かさを示しているのだろう。

理解が不十分な点が多く残念だったが、非常に刺激を受けた本だった。

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エチカ 下 [哲学書]


エチカ―倫理学 (下) (岩波文庫)

エチカ―倫理学 (下) (岩波文庫)

  • 作者: スピノザ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1951/09/05
  • メディア: 文庫



スピノザ『エチカ』を読み終わった。
第四部は人間の感情の力について
第五部は知性の能力についてであった。

基本的には、人間は、理性によって感情を抑制でき、そのようなことが出来る人は、神に心をむけるひとである、というようなことがひたすら書かれている(と思う)。最後のほうは結構飽きてきてしまった。
理性によって感情が抑制できるという考え方は、後のカントの思想に影響を与えたのではないかと思う。

以下、少し長いが印象的な箇所を書いておきたい。

第四部
p.33
「理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ、したがって理性は、各人が自己自身を愛すること、自己の利益・自己の新の利益を求めること、また人間をより大なる完全性へ真に導くすべてのものを欲求することを要求する。」
p.34
「我々は自己の有を維持するのに我々の外部にある何者も必要としないというようなわけにはいかぬし、また我々は我々の外部にある物と何の交渉も持たないで生活するというようなわけにもいかない。~中略~我々の外部には、我々に有益なもの、そのゆえに我々の追及に値するものがたくさん存するわけである。そのうちで我々の本性と全く一致するものほど勝ちあるものは考えられることが出来ない。~中略~このゆえに、人間にとって人間ほど有益なものはない。~中略~すべての人間がともどもにすべての人間に共通な利益を求めること、そうしたこと以上に価値ある何ごとも望みえないのである。
 この結論として、理性に支配される人間、言い換えれば理性の導きに従って自己の利益を求める人間は、他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく、したがって彼らは公平で誠実で端正な人間であるということになる。」

第五章
p.126
「人間はその本性上他の人々が己の意向通りに生活することを欲求(衝動)するものであるが、この衝動は、理性によって導かれない人間にあっては、受動であって、この受動は名誉欲と呼ばれ、高慢とあまり違わないのであり、これに反して理性の指図によって生活する人間にあってはそれは能動ないし徳であって、これは道義心と呼ばれる。」
p166
「無知者は、外部の諸原因からさまざまな仕方で揺り動かされて決して精神の真の満足を享有しないばかりでなく、その上自己・神および物をほとんど意識せずに生活し、そして彼は働きを受けることをやめるや否や同時にまた存在することをもやめる。これに反して賢者は、賢者として見られる限り、ほとんど心を乱されることがなく、自己・神および物をある永遠の必然性によって意識し、決して存在することをやめず、常に精神の真の満足を享有している。」
p167
「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。」

これらは理性によって自分をコントロールすることの大切さ、そして自分に心を向け自分自身を抑制すればするほど、他人に対しても心を向けることが出来るようになり、それは必然的に神に心を向けることになる。が、こんなことを出来る人間は数少ない、ということであろう。

ソクラテス⇒プラトン⇒イエス・キリスト⇒マルクス・アウレリウス⇒スピノザ⇒カントという西洋の倫理哲学の根底に流れる美しい思想が見て取れる。
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エチカ 上 [哲学書]


エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

  • 作者: スピノザ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1951/09/05
  • メディア: 文庫



スピノザの『エチカ』を読み終わった。
パスカル『パンセ』モンテーニュ『エセー』ニーチェの箴言集と同じような本をイメージしており、延々と日記の延長のような書きなぐりノートのようなものをイメージしていたので、全く読む気がしなかった本だが、これまた仕事の関係で読まざるを得なくなり読むことになった。

私がイメージしていたものとは全く印象の違ったものだった。
カントの『純粋理性批判』と同じように、まず様々なものを定義し、自分の証明したいものを論理を重ねて詳細に証明していく本であった。非常に硬く、分かりづらい本ではあるが、ゆっくりよめば、現代の哲学者の本とは違い理解することはできる。

全部で五部に分かれており、この上巻は三部まで。
第一部:神について
第二部:精神について
第三部:感情について

第一部の神については、神の存在証明を様々な論理を重ねて行っているのだが、正直、論がぐるぐる回っているだけな気がする。
第二部の精神については、それなりに面白く、間違った認識はどのように起こるのか、といった問題も取り上げ、プラトンの説などを取り上げながら論じている。
第三部は人間の様々な感情はどのようなものなのかということを論じていて、基本的には外部から与えられた刺激を、個人の内部がどのように受け取るか、ということを基本とした論で、説得力があり面白いが、正直あまり現代に適用できるようなものではない気がする。

以下印象に残った数節。
第一部より 
p108
「もし万物が神の再完全な本性の必然性から起こったとするなら自然におけるあれほど多くの不完全性はいったいどこから生じたのか。~中略~ 神には完全性の最高程度から最低程度にいたるまでのすべてのものを創造する資料が欠けていなかったからである。~中略~ある無限の知性によって概念されうるすべてのものを産出するに足るだけ包括的なものであったからである。」

この一文には感動した。人々は(一神教の)神を批判するとき、完全であるはずの神が何故不完全なものを創ったのか、というものがある。
わたしは今まで明確な答えが出せずにいた。しかし、この『エチカ』を読み、この一説に出会って明確な答えが出せるようになった。人間の考える完全性など所詮人間の考える完全性であり、神の考える完全性はまったくちがうものなのであると。つまり、不完全なものを含むものこそが神にとっては完全なものだということだ。

第三部より
p.290
「愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。~中略~愛とは愛する対象と結合しようとする愛するものの意志であるという定義は、愛の本質ではなく、その一特質を表現するに過ぎない。」

これもすばらしい。愛なんて所詮自己満足である。相手のことを思いやるべきではあるが、結局行き着くところは自己満足である。そうなったとき、所詮は相手からもたらせれるなんらかのものに内部のものが反応し、喜びの感情をもった状態、それこそが愛なのだ、というこの定義は完璧な気がする。

退屈な部分も多いが、はっとさせられる部分もある本だった。

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代表的日本人 [哲学書]


代表的日本人 (岩波文庫)

代表的日本人 (岩波文庫)

  • 作者: 内村 鑑三
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1995/07/17
  • メディア: 文庫



これも仕事の関係で読んだ。名著に出会えた。素晴らしい本だった。
「無教会主義」を訴えた内村鑑三らしい内容だった。

内村鑑三が共感を覚える、外国人に知ってもらいたい代表的日本人5人を取り上げた作品。もちろん伝記的な部分もあるが、それぞれの人物の素晴らしい特質を示すエピソードがメインで、全員もちろんキリスト教徒ではないが、それぞれがキリスト教徒に通じる内面を持っており、そうした面に焦点を合わせて語っている。

以下印象的な言葉を数点

p.32 西郷隆盛より
「文明とは正義のひろく行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」

現在の文明国は外観の壮麗しか求めていないように思われる。

「命も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることの出来る人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることの出来る人物である」

こういう人は日本では全く出世しない。

p.135 中江藤樹より
「徳を持つことを望むなら、毎日善をしなければならない。一善をすると一悪が去る。日々善を成せば、日々悪は去る。昼が長くなれば夜が短くなるように、善を努めるならば、すべての悪は消え去る。」

そう願いたい。

p.154 日蓮上人より
「首府(鎌倉)を訪れた一人の田舎僧侶の目には、あたかもローマを訪れたルターのように、目に見えるもの、耳にする教え、ことごとく異様でした。街には、巨大な寺院と華美な僧侶があり、虚偽そのものに充ち充ちていました。上流階層は禅宗が、下流階層は浄土真宗が支配していて、前者は無益な思弁の泥沼におちいり、後者はいたずらな阿弥陀への信心に我を忘れていました。仏陀の教えはどこにも見られませんでした。」

まさに現在の仏教会である、どうしようもない曹洞宗(禅宗)をそのまま言い当てている。

「愛想よさ、柔順、受容力、依頼上手とかいわれるものは、たいてい国の恥にしかなりません」

日本はこんな人間であふれている。


本当に素晴らしい本だった。清貧の素晴らしさを再確認できた。自分の様々な側面を見直さなければと思った。
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武士道 [哲学書]


武士道 (岩波文庫 青118-1)

武士道 (岩波文庫 青118-1)

  • 作者: 新渡戸 稲造
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1938/10/15
  • メディア: 文庫



『武士道』を読み終わった。
基本的には、想像していた通りの本だった。
孔子、プラトン(ソクラテス)、アーノルド、そして当然キリスト教に強い影響を受けているんだろうなあ、というのがよくわかる一冊だった。

印象的だった箇所を数箇所

p.35
「知識はこれを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現れる時においてのみ、真に知識となる~。知的専門家は機械であると考えられた。知識そのものは道徳的感情に従属するものと考えられた。~中略~知識はそれ自体を目的として求むべきではなく、叡智獲得の手段として求むべきであるとなした。」
当然のことが書かれているのだが、これは当然のことではない。学問が進歩した今のほうが当てはまる言葉であり、ウェーバーの「精神なき専門人」を彷彿とさせる。

p.89
「かくのごとく金銭と金銭欲とを力めて無視したるにより、武士道は金銭に基づく凡百の弊害から久しく自由であることをえた。これは我が国の公吏が久しく腐敗から自由であった事実を説明する十分なる理由である。しかしああ!現代における拝金思想の増大何ぞそれ速かなるや。」
そしてその拝金思想は現代まで連綿と続いている。

前にも書いたと思うが、何千年前のプラトンの思想が未だに古典思想として現代に読まれているのはすごいことだと思う。しかし、人間の心・社会がプラトンの考えたいたような方向に動いていたとしたら、現在、きっとプラトンの作品など顧みられることはないだろう。本当に人間の精神というものは進歩していかないのだなあ、とこの本を読み改めて思った。

最近古典を読むことが多いせいか、同じようなことをいつも思っている。
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学問のすすめ [哲学書]


学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)

  • 作者: 福沢 諭吉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1978/01/01
  • メディア: 文庫



『学問のすすめ』を読み終わった。
「天は人の上に人を作らず~」という冒頭部分しか知らず、今回初めて全編を通じ読んでみた。
世にはたくさんの現代語訳が出ており、明治時代に出版された本なのに何故こんなに現代語訳が出ているのだろうか、と思っていたが、理由がわかった。平安時代に書かれた古文のような読みづらさはないが、やはり読みづらく、結構読み進めるのに時間がかかった。

内容は素晴らしかった。
まずは、人間は平等に生まれてくるのだが、どこから差が出てくるのかというと、それは学ぶか、学ばないか、だから学ぼう、といった感じからスタートする。
そして、その当時としては少数派であったであろう、男女同権も訴える。
さらに白眉なのは、国家というものは、人民と国家を運営するひとたちで成り立っており、人民は税金を払うことで、自分達を保護してもらい、運営側はお金を頂くことで、人民を保護しており、平等の関係性なのだ、ということを主張する。さらに、一人ひとりが意識を持って社会にコミットしていかないと、国家というものは崩壊する、ということも説く。
他にも、法律を重視すべきこと、世界的な視点で自分達の立ち位置を確認すること、西洋文明を無批判に礼賛することは、自国の文明を無批判に礼賛することと変わらず、すべての事象を客観的に冷静に批判的に見ることが必要と説く。

すべてが現代にも通じるものであり、現代においてもまだその批判的意味合いを失っていないことに悲しさを感じる。これはプラトンなどの書を読んでいても常に感じることであり、だからこそ古典なのだろうが、なぜか悲しい。人間(集団)の心というものは進歩していかないのだろうか。

とても良い本なので、福沢諭吉の論をしっかりと理解するという意味で、とりあえずは現代語訳で読むことをお勧めする。
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自省録 [哲学書]


自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

  • 作者: マルクスアウレーリウス
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/02/16
  • メディア: 文庫



マルクス・アウレーリウスの『自省録』を読み終わった。これも仕事上読むことになった本なのだが、恥ずかしい話だが、こんな本があることを今まで知らなかった。題名もあまり面白くなさそうだし、解説を読んでもいまいちそうだし、ぺらぺらめくっても、ニーチェの箴言集のような感じだし・・・。

ということで全く期待せずに読んだのだが・・・。

名作である。これは誰もが読むべき本であろう。
プラトン思想を引き継ぎ、キリスト思想と同様なことを述べ(キリスト教を公には認めていなかったが)、カント思想の萌芽が見出せる。最後の解説に、この本を賞したO.Kieferなる人の言葉が紹介されているが全くその通りだ。

「マルクス・アウレーリウスの宗教は・・・絶対的宗教である。・・・これはある(特定の)人種や国に属するものではない。いかなる革命も進歩も発見もこれを変えることはできない」

この書はひたすら内面を重視することを説いている。自然や死といったものをあるがままに受け入れることを説いている。ローマ帝国という大きな組織の長であったにも関わらず全く政治色がない。素晴らしい著書だ。

いかに、印象的な言葉を紹介したい。
5章8節 途中(p.77)
「いかなる自然も自分の配下にある者にたいして適当でないようなことをもたらしはしないのである。」
これはまさにキリスト思想であろう。

5章25節
「ある人が私にたいして罪を犯したって?それは彼がしょりするだろう。彼は自分の気質、自分の活動を持っているのだ。私としては現在宇宙の自然が私に今持てと命ずるものを持ち、私の(内なる)自然が私に今なせと命ずることをおこなっているわけだ。」
これはカント思想である。

5章32節
「どういうわけで技術も知識もない者の魂が技術と知識のある者の魂をみだすのだろう。そもそも技術と知識のある魂とはどんなものか。それは始めと終わりとを知る魂、すべての存在に浸透し一定の周期の下に「全体」を永遠に支配する理性を知る魂である。」
安部首相に聞かせてあげたい。

5章34節
「正しい道を歩み、正しい道に従って考えたり行動したりすることができるならば、君に一生もつねに正しく流れさせることができる。」
これはプラトン思想であろう。

6章6節
「もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。」
これもキリスト思想であろう。

8章16節
「自分の意見を変え、自分の誤りを是正してくれる人に従うことも一つの自由行動である。」
多くの権力者に聞かせたい。

とにかく素晴らしい言葉がちりばめられている。

第1章を読むと、彼の祖父、父、家庭教師等が、彼に素晴らしい影響を与えたことがわかる。上に、5章からの引用が多いと思うのだが、5章は特に素晴らしい。同じことの繰り返しも多い作品ではあるので、とにかく触れてみたいという人は、第1章と第5章だけを読むことをお勧めする。
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武家の女性 [哲学書]


武家の女性 (岩波文庫 青 162-1)

武家の女性 (岩波文庫 青 162-1)

  • 作者: 山川 菊栄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1983/04/16
  • メディア: 文庫



女性運動で有名な山川菊栄著、『武家の女性』を読み終わった。
『武家の女性』と銘打たれているが、山川菊栄の母と祖母の時代の、彼女の水戸藩の実家を描いた作品となっている。彼女の祖父が寺子屋のようなものをやっていたこと、武士と使用人の関係性なども描かれている。

彼女が非常にリベラルな環境で育ったことがこの本を読むと分かる。
そして、江戸時代の女性たちが、男性よりも下に見られていた、ということが本当によくわかる。女は仮名文字さえ読めれば良い、食べるものも男はしっかりとしたもの、真ん中を食べ、女性は端っこを食べるという、冗談のような話も、本当だったこともわかる。

江戸から明治に変わる当時の、社会の混乱も描かれており、多くの女性・子どもも牢屋に入れられ処刑されたこともわかる。

教科書や英雄視点の歴史書からは決してわからない、民衆の、女性の生活がよくわかった。

ものすごい面白い作品か、というとそうでもないかもしれないが、それなりに勉強になる作品だ。

彼女のほか作品も読んでみたいが、とくに評論集、時間がなかなか取れなそうだ。

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キリスト者の自由 [哲学書]


キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)

キリスト者の自由・聖書への序言 (岩波文庫)

  • 作者: マルティン・ルター
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1955/12/20
  • メディア: 文庫



マルティン・ルター著『キリスト者の自由』を読み終わった。
カトリック教会の形式・戒律至上主義に異議を唱え、信仰こそがキリスト教の真髄だと訴えた著だ。ルターの考え方は、日本の形式的なキリスト教会に対して疑問を抱き、無教会主義を訴えた内村鑑三の「無教会主義」に近いものを感じる。

何度も述べていることだが、「キリストの教え」と「キリスト教の教え」は違う。「マルクスの考え」と「マルクス主義」の考えは違う。「釈迦の教え」と「仏教の教え」は違う。どんな団体であれ、団体を形成した時点で、何かが失われる。団体を持続しようとすると、そこに歪が生まれる。その歪を何とか残そうとするのはその団体の中で権益を握っているピラミッド構造の上層部の人間たちだ。しかしそもそも素晴らしい教えというものは、そのピラミッド構造の上層部の人間たちの心を批判するものであったはずだ。批判する主体として出発したはずのものが最終的には批判される主体となってしまうこの構造。面白くもあり、不思議な現象であり、人間の、そして人間集団の弱さを示す最も象徴的な現象なのだと思う。

この書に関する解説の類をかなり読んできたので、新鮮さは全くなかったが、やはり原書を読むという体験は素晴らしい。
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ブッダが説いたこと [哲学書]


ブッダが説いたこと (岩波文庫)

ブッダが説いたこと (岩波文庫)

  • 作者: ワールポラ・ラーフラ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/02/17
  • メディア: 文庫



岩波文庫から出ている『ブッダが説いたこと』という本を読んだ。
作者のワールポラ・ラーフラという人はスリランカ人で、僧侶教育も受けた人で、アメリカの大学でも教えたことのある人ということだ。

この世の中には仏教に関する解説書がたくさんあるが、そのほとんどがブッダの教えをちゃんと伝えていない、ということで、この本を書いたということだ。自ら僧侶であり、大学教授でもある人の書いたものだけあり、非常に分かりやすくそして目からうろこだった。

私は、様々な僧侶と会ったことあるが、そのほとんどがどうしようもない。自分の利権にしがみつき、お金に汚く、女にだらしなく、酒を飲み、知識欲もなく、慈悲の心にかけ、本当に、僧侶というのは葬式をやるためだけにいるのではないか、というひとばかりだ。正直仏教はどうしようもないものと思っていた。

マルクスとマルクス主義、イエス・キリストの教えとキリスト教、ブッダの教えと仏教、とにかく元々の考え方とその後に発展した教団や主義とは大きく異なる場合が多い。マルクスに関してはマルクスが実際に書いたものを読めば良い。イエス・キリストに関しては、キリスト本人が書いたわけではないが、聖書を読めば良い。(まあ、どちらも様々な過程を経て自分のところに届いているので、その過程でもうすでに彼ら自身の考え方と違うともいえるが・・・)。

しかし仏教、ブッダの教えというものはなかなか、これを読めば良い、というものもなく、何を読んでいいのかわからなかったので今まで避けてきた。しかし、この書を読んでブッダの教えに触れられた。
一神教と違い、自己というものは存在しない、物質・感覚・識別・意志・意識の相互作用で成り立っているため、移ろわないものはない、ニルヴァーナとは様々なものの消滅であり、それは絶対心理であり、この世にいるときでも到達できる、など、本当に面白い内容であった。最後の部分は、仏教と現代世界との関わりについても述べており、仏教の「非暴力・平和・愛・慈悲・寛容・理解・心理・叡智」といった考え方は世界平和につながるという考え方を伝えている。

私の日頃の考えと同じことを述べている箇所があるので、その部分を紹介したい。
p.184~p.185
「国家とは、個人の巨大な集合要素以外の何者でもない。国、国家は行動せず、行動するのは個人である。個人が思うこと、行うことが、国、国家が行うことである。個人に当てはまることは、国、国家にもあてはまる。個人レベルで、憎しみが愛と親切さで静められうのなら、国家レベル、国際レベルでもそれは実現可能である。」

本当にその通りだと思う。この後、アショーカ王という仏教の考え方に基づき平和的に国家を運営した王様が他国をも平和にしたことが紹介されて終わる。

本当に素晴らしい本だった。くだらないことばかりやっている日本のお坊さんたちすべてに読んで、自分の行動・言動を見直してもらいたい。

合本 三太郎の日記 [哲学書]


新版 合本 三太郎の日記 (角川選書)

新版 合本 三太郎の日記 (角川選書)

  • 作者: 阿部 次郎
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
  • 発売日: 2008/11/10
  • メディア: 単行本



大学時代、「大正教養主義」ということに関して調べることがあり、その時この阿部次郎作『三太郎の日記』という本を知った。当時の大学生の必読書と言われた本書。どんな本なのだろうとずっと興味があった。が、私が大学生だった頃はもう世に出回っていなかった。あるとき、どこかのペンションのようなところに泊まったとき、この本を見つけた。かなり古い本で手に取って読んでみたがさっぱりわからなかった。その時以来この本を目にしていなかった。

が、2008年11月10日 角川選書なるものが創刊され、その第1号としてこの本が復刊されたのだ。当然即座に購入。そして読み始めるも・・・。
この『三太郎の日記』という本は、第一、第二、第三と全部で3つの部分からなっており、何とか第二まで読み終わっていたのだが、途中でやはり挫折。
今年の夏休み、第一から再び挑戦。そして遂に遂に遂に完読。

阿部次郎は自分と重なる部分が多い人だなあと感じながら読んだ。この人はプラトン思想にかなりの影響を受けているのがよくわかる。さらにおそらくクリスチャンなのであろうこともわかる。聖フランチェスコなどのことについても事細かに書いていた。さらに「性道徳」の問題にもかなり興味があったらしく、スタンダールやドンジュアンなども度々言及されていた。そしてニーチェ思想にもかなり惹かれていたらしいことがわかる。平和主義者であり、非常に人道的でもある。

結局この人が言いたいのは、自分の頭で体で深く物事を考えろ、ということなのだろう。

以下印象的な箇所を紹介したい。

p67
「自覚することと自覚を発表することとは本来別物である。~中略~単に自覚の自信のみを発表して自覚の内容を発表せぬものが、世間の眼から見て偽預言者とせらるるはやむをえない。発表に値するものは自信にあらずして内容であるからである。」
⇒「自分は悟った」といっている仏教者で、人格者である人間を観たことがない。

p78
「理想主義の人にとって「ある事」は無意義にして、意義あるはただ「あるべき事」である。彼にとって事実とは「ある事」にあらずして、「あるべき事」である。」
⇒仏教者はよく「当たり前のことを当たり前にやる」ことが大切というが、そんなことは当たり前すぎて意味がない。その先にあることを目指さなければ人間として成長がないのではないだろうか。

p101
「生きるための職業は魂の生活と一致するものをえらびことを第一とする。しからざれば全然魂と関係ないことを選んで、職業の量を極小に制限することが賢い方法である。魂を弄び、魂を汚し、魂を売り、魂を堕落させる職業は最も恐ろしい。」
⇒仕事優先ではなく、自分の心を優先させて生きていたいと思う。

p144
「軽蔑に値するは小さいものが小さいものとして誠実に生きていくことにあらずして、小さいものが大きいものらしい身振りをすることである。ある真理とある価値とを体得しないものがその真理と価値を口舌の上で弄ぶことである。要するにpretensionとrealityとの矛盾に対する無恥である。」
⇒本当に自分を大きく見せる人間が多すぎる。ありのままの自分を見せればいいのになあと思ってしまう。

p150
「俺は偉くも強くもないが、俺の周囲にうごめく張三李四に比べて確かに一歩を進めている。~中略~俺はまた俺の周囲に、眼の前の喜怒哀楽に溺れて、永遠の問題に無頓着なる胡蝶のような「デカダン」を見た。そうしてこの逡巡と牛歩と不徹底とをもってするも、なお彼らに比べて俺の思想が確かに一歩を進めていることを思わずにはいられなかった。」
⇒ここなどはまさにプラトン思想とニーチェ思想の混交だろう。

他にもいろいろとあるのだが、少し疲れてきたのでこのへんでやめておきたい。
とにかく素晴らしい思想を持った名著である。確かに「若者のバイブル」という名にふさわしい。しかし、20~30代ぐらいで読まないと難しいかもしれない。

とにかく面白かった。そして完読できてよかった。

啓蒙の弁証法 [哲学書]


啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

  • 作者: ホルクハイマー
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2007/01/16
  • メディア: 文庫



フランクフルト学派の二人の巨人、ホルクハイマーとアドルノの共著『啓蒙の弁証法』を読み終わった。

すごく簡単に言えば、近代西洋における「啓蒙化」によって、人間は自然を支配できるようになった一方で、自然をすべて法則化したことにより、行き詰まりを見せ、個別的なものを排除するようになった。それと共に人々は自由(個別)から逃走し、集団・全体(法則)の中に自分をおくことで安心感を得られるよう求めるようになった。これにより最終的には全体主義体制が加速し、西洋は野蛮な道へと進むようになった。

ということなのだと思う。非常に議論が入り組んでおり、様々な例が挙げられていて、複雑なのでどこまで自分が理解しているかはわからないのだが、読んでいてうなずく部分が多かった。

エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』とマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の論理展開と基本的には同じようなものなのだと思う。フロムはもともと、著者の二人と同じくフランクフルト学派の一員だったみたいだし(本人たちがフランクフルト学派と名乗っていたわけではないと思うが・・・)。

前にも書いたかもしれないが、私は血液型で人間の性格を分類したり、星占いとかが大嫌いだ。人をカテゴライズして考えるやり方がどうも受け入れられない。

アドルノの、物事を批判的に見つめ、常に個別性に目を向けようとする姿勢に、とても共感を覚える。(どこまで彼の思想を理解しきれているかはわからないが・・・)

ベンヤミン・アンソロジー [哲学書]


ベンヤミン・アンソロジー (河出文庫)

ベンヤミン・アンソロジー (河出文庫)

  • 作者: ヴァルター・ベンヤミン
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2011/01/06
  • メディア: 文庫



河出書房から出ている、『ベンヤミン・アンソロジー』を読み終わった。河出書房から出ている本を買ったのは多分これが初めてだ。一緒に並んでいる本を見ると、結構良い本を出しているなあと感じた。

ベンヤミンはずっと気になる存在だった。ハンナ・アレントの『暗い時代の人々』でも言及されていたし、ブレヒト関連の本を読むと必ず出てくるし、アドルノとも関係があったらしいし。
そんななか、昨年末ある劇団の方と話しをしている時に、ベンヤミンの話になり、その時見せていただいた文章が全く理解できなかったので、ちゃんと読んでみなければ、と思い、ベンヤミンの本を探し、この河出文庫から出ている『ベンヤミン・アンソロジー』に行き着いた。
彼の主要な文章は大体収録しており、
1.言語一般について また人間の言語について
2.暴力の批判的検討
3.神学的・政治的断章
4.翻訳者の課題
5.カール・クラウス
6.類似性の理論
7.模倣の能力について
8.ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて
9.技術的複製可能性の時代の芸術作品
10.歴史の概念について
以上だ。

1が一番まともに読めた。興味深い箇所としては「言語は自らに相応する精神的本質を伝達する。この精神的本質は言語において自己を伝達するのであって、言語を通じてではない。」「言語そのものが人間の精神的本質である」
旧約聖書の天地創造の場面を用いながら、言語こそが人間の精神的本質なのだ、ということを述べたものなのだが、彼の論理展開を説明するのは非常に難しい。

2も面白かったが、いまいちよくわからなかった。
基本的な問いは「暴力は正当な目的のための手段か、不当な目的のための手段か」ということである。実に細かく論じているのだが、これもなかなか難しい。戦争で用いられる暴力、ストライキで用いられる暴力などを検討したりしているのだが、これも簡単に要約できないくらい入り組んでいる。
面白かったのは、「暴力は法措定的であるとともに、法維持的だ」という部分だ。つまり、暴力は法によって正当化されているのだが、その法律を維持するために暴力がもちいられるということだ。なんか書いていてもわかったようだが、よく考えるとよくわからないような感じだ。結局は神が認めた暴力以外は許されない、という結論に達している(のだと思う)。結構キリスト教思想が強い人なのだなと2篇を読んで感じた。

かの有名な9もそれなりに納得しながら読めたのだが、結論はやはり?だ。
映画や写真の発達により、芸術が技術的に複製可能になったことにより、芸術作品がオーラを失ったというようなことが前半書いてある。芸術作品の礼拝価値と展示価値という視点も面白かった。古代の洞窟美術や、ヨーロッパのキリスト教美術の中には、一般大衆には見えないような状態になっている、つまり鑑賞されずともあるだけで価値がある、つまり礼拝価値があるものがあったが、最近は芸術はそのようなものではない。最近の芸術は展示可能性を飛躍的に拡大させているということだ。
一個一個の話はなんとなくわかるのだが、やはり全体としてはよくわからない。


正直、全体的にほとんど何が言いたいのかわからなかった。よく取り上げられる人物だけに若干残念だった。

不協和音 [哲学書]


不協和音―管理社会における音楽 (平凡社ライブラリー)

不協和音―管理社会における音楽 (平凡社ライブラリー)

  • 作者: Th.W. アドルノ
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1998/02
  • メディア: 文庫



アドルノ作『不協和音』を読み終わった。前回の『音楽社会学序説』と基本は同じで、現在(当時)の大衆の、商業主義に毒された受動的な音楽受容を批判した著作。

第Ⅰ章 「音楽における物神的性格と聴取の退化」でポピュラー音楽やジャズなどの軽音楽だけでなく、クラシック音楽も商業主義に犯され、音楽の聴き方が受動的になっていると批判する。コンサートで演奏される曲は有名曲ばかりであり、演奏なども感覚的に訴えるものを良しとする傾向があるのだと。
「冗談でなく、自分がトスカニーニ演奏会の切符のために支払った金を消費者は崇めるのである」という表現はまさに現在の日本の聴衆に当てはまる。普段ろくにクラシック音楽など聞かないのに、海外の有名オケや演奏家がくるとこぞって聴きに行く。美術館などでも同じ傾向にある。

第Ⅱ章 「操られた音楽」も基本は同じ。国家や企業に管理された音楽を無批判に受動している聴衆は結局も物事を批判的に考えられなくなってしまう、と警告している。ひたすらリリースされる同じような音楽をひたすらi-podなどにダウンロードし、ひたすら聞き流し続ける日本の大衆にまさに当てはまる。

第Ⅲ章 「楽師音楽を批判する」も安易な伴奏などで皆で楽しく歌いましょう的な音楽サークルを批判したもの。次の言葉は心に響く。
「大抵の若い人たちは~中略~水準の高い室内楽演奏に似たことをやろうとする集中力、内的な自由と独立とを獲得することができないのである。」
真面目に行うことを格好悪いこととし、時間のかかることを無意味とし、複雑なことを避けさせ、お手軽で楽しい(Fun)ものこそ素晴らしいのだという社会を作ってきた日本社会。その日本社会はまさにここであげられているような人間を作ってしまっているのではないだろうか。

第Ⅳ章 「音楽教育によせて」も痛烈だ。
簡単に習得できるようなことばかり教育し、幼稚な楽器では表現されえないヴァイオリン・ピアノ・チェロなどを用いた曲を教えないことを批判する。「全体を直観させることから出発して、部分を展開させる」ことをさせないというのもその通りだと思う。音楽は全体を通して音楽であり、芸術なのであって、演奏者にしろ聴衆者にしろやはり全体を捉えながら部分に落とし込んでいかなければしょうがないと思うのである。これも音楽教育だけでなく、日本の教育全体に足りないことだ。

第Ⅴ・Ⅵ章 「伝統」「新音楽の老化」がこの本の白眉であろう。
アドルノの目指す弁証法的な音楽のあり方がここで示される。伝統(テーゼ)は常に新しいあり方(アンチ・テーゼ)の批判を受けながら、さらに新しいもの(アウフヘーベン)にならなければならない。しかし、シェーンベルクなど、12音階技法を提示した新音楽を作り上げた人々も、後期には批判的なやり方で音楽を作り上げることができなくなってしまった、とかなり手厳しい。
とはいえ、くだらない形だけの伝統にとらわれることの多い日本社会に投げかけることは多いのではないだろうか。 

音楽社会学序説 [哲学書]


音楽社会学序説 (平凡社ライブラリー (292))

音楽社会学序説 (平凡社ライブラリー (292))

  • 作者: Th.W.アドルノ
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1999/06
  • メディア: 単行本



東京国際ブックフェアで買ったアドルノの『音楽社会学序説』を読んだ。思っていたほどはわからなくはなかったが、やはり読み進めるのに時間がかかったし、言わんとすることを十分に理解することはできなかった。
全体として何が言いたいのか、この本を読んだだけでは正直わからない。

第Ⅰ章で音楽聴衆を類型化する。
第1のタイプは、音楽を専門としている人で、音楽を分析的に聴くことができ、それを説明することができる。第2のタイプは、良き聴衆者であり、音楽全体のまとまりを自発的に理解し、評判だとか気ままな趣味に頼ることをしない。
第3のタイプは、教養消費者。
第4のタイプは、情緒的聴衆者。
自分は、第3と第4のタイプの間くらいな気がする・・・。そして、現代は第1、第2のタイプがほとんどいなくなってしまったことをアドルノは嘆いている(んだと思う・・・)。

第Ⅱ章は軽音楽。
軽と名付けられていることからもわかるが、俗に言うクラシック、アドルノが前提としているのはおそらくドイツ・オーストリア系の作曲家の音楽とは違う音楽。ジャズなどがその例として用いられている。
「大衆現象としての軽音楽が、自律の精神と独立の判断力を~中略~むしばんでいる」ということからもわかるが、大衆音楽は人間から批判的精神(弁証法的精神)を奪ってしまっているということを主張している(んだと思う・・・)。

以下、音楽の機能、オペラ、室内楽などの説明がなされる。
室内楽は、交響曲などと違い、個人の私的な領域と関連があるという主張は面白かった。大衆音楽の発達により、音楽は自ら演奏して楽しむものから聞いて楽しむものに変容してしまった。これは家庭音楽教育の衰退により引き起こされたものだ、というのもなるほどなあと思った。18~19世紀の貴族社会を描いた小説などを読むと、ほとんどの人は楽器も弾けるし歌えるのが当然とみなされていたのがよくわかる。しかし、市民社会の発展によってそうした文化は衰退していく。これとクラシック音楽が変容していったのは確かに重なる部分はあるのだろう。

アドルノは現代音楽作曲家、ベルクやシェーンベルクと個人的に付き合いがあったこともあるのだとは思うが、彼らのような現代音楽家を肯定的に見ている。
アドルノは音楽を通して人々が弁証法的に考えることが重要なのだと考えたのだと思う。つまり、現状を肯定してしまわず、批判的に捉え、より善いものを作り出していく姿勢が大切だということだ。これはどの社会にも当てはまる。そして芸術を鑑賞する意味、芸術に関わる意味もこうしたことにあるのだと思う。
私もエンターテインメントを前面に出したものを芸術と呼ぶことに抵抗がある。しかし、多くの大衆は、多くの人に受け入れられる、楽しい(fun)なものを一流の、本物の芸術ともてはやす。

前述のフロムもそうだが、フランクフルト学派に属していた人々は本当に世の中を良く分析していたのだなあと感心してしまう。

The Problem of Philosophy [哲学書]


The Problems of Philosophy

The Problems of Philosophy

  • 作者: Bertrand Russell
  • 出版社/メーカー: ARC Manor
  • 発売日: 2008/02/28
  • メディア: ペーパーバック



Bertrand Russell著 The problems of Philosophyを読み終わった。Russellの本を何か一冊ためしに読んでみたいと思っていて、Amazonでいろいろ探していたところ、一番自分の趣味に合うかと考え買ってみた。
思っていたほどは難しくなく、使われている単語や構文もわりと簡単で、非常に読みやすかった。 と読んでいるときは思っていたのだが、内容はほとんど日本語文献で読んでいたことと同じだったこと、KantのCritique of Pure Reasonの冒頭部分を何度も読んでいたこと、などから読みやすく思っただけなのかもしれない。
題名に偽りなく、古代から哲学が問題としてきた事柄の概略を述べたもの。認識論が主要なテーマとなっている。おそらく大学生の入門書のような感じで書かれたものなのだろうと思う。使われている例なども非常にわかりやすくそれなりに楽しめた。

自由からの逃走 [哲学書]


自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

  • 作者: 日高 六郎
  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 1965/12
  • メディア: 単行本



エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』を読んだ。大学時代、友人に借りてこの本を読もうとしたのだが、読んで数ページ目のところに書き込みがあり、読む気をなくしてしまいそれ以来ずっと読んでこなかった。私の卒論のテーマは彼とかなり重なる部分があったのだが、結局読んでいなかったので、私の参考文献ともならなかった。

1ヶ月前、職場の先輩がこの本を読んでいて、私のところに来て筆者の意見について議論を交わしたので、自分もちゃんと読んでみようと考え、春休みを利用しじっくりと読んだ。

彼の主張は
①宗教改革・資本主義経済の到来により人間はそれまでの社会的束縛から自由になった。
②自由になったことにより、自分を守ってくれるものがなくなり、人間は孤独感、不安感を持つようになった。
③孤独感、不安感から逃れるために、つまり「自由から逃走」するために人間は権威を求めるようになった。

これは非常に重い分析だ。
そして私が卒論で主張した説と重なる部分が多い。
社会人になって改めて感じるが、この日本には、せっかく自由な存在なのに、わざわざその自由から逃走し、権威の傘に守られようとする人間がとても多いのだ。そしてこういった人間は自分より弱い存在を探し、彼らに対して自分の権威を振りかざす。まさしく、マゾ・サド的人間なのだ。

私は卒論の中で、人間一人ひとりが責任ある主体(フロム的に言えば自由を積極的に享受する主体)となれるような教育を行わなければならないことを主張した。
しかし、今の日本の教育はますます権威に従順な主体(権威主義的パーソナリティを持った主体)を作ろうとしている。

教育界に身を置く人間として常に考えていなければならないテーマなんだろうと思う。新学期が始まるに当たり読んでおいて良かった本であった。

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