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自由と社会的抑圧 [哲学書]


自由と社会的抑圧 (岩波文庫)

自由と社会的抑圧 (岩波文庫)

  • 作者: シモーヌ・ヴェイユ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2005/03/16
  • メディア: 文庫



シモーヌ・ヴェイユの著作を久しぶりに読んだ。

シモーヌ・ヴェイユの作品を読むといつもそうなのだが、本の中にあまりにも素晴らしい言葉が散りばめられているので、付箋でいっぱいになる。あまりにも多すぎて付箋の意味がなくなるくらいだ。

内容としては、より自由な社会を目指したマルクス主義の思想には共感するが、その論、そしてその後の行動を批判の俎上に挙げる。

抑圧されて苦しんでいる労働者たちは、共産主義の樹立によって解放され、自由になると訴えるマルクスに対し、「すべての革命は、一瞬抑圧形態を首尾よく消滅させてもすくさまあらたな抑圧が導入される」(p.39)と言う。さらに「抑圧というものは、経済のより高次な形態においてようやく出現するのではなく、すべての形態について回る。したがって、ごく原始的な経済とより発達した経済携帯のあいだには、抑圧の程度だけでなくその本質にも違いがある」(p.47)とも言う。昔と今で違うのは、昔は自然に抑圧されていた人間が、自然を科学により征服したあとは人間(資本家、工場主、地主など)によって抑圧されるようになったというのだ。とはいえ近代の人間たちも完全に自然からの抑圧から自由になったわけではない。そして人間が生きていく上で、この自然からの抑圧、人間(社会)からの抑圧を完全に取り除くことは不可能だと言う。
だとしたらどうすれば良いのか。彼女の結論は以下のとおりである。
「自然と社会による二重の支配への従属がもっとも軽微な状況とは何かを構想することだ。」(p.75)
さらに
「自由を夢想するのをやめて、自由を構想する決意をすべき時期がきている。」(p.81)
つまり、いままでのマルクス主義は、完全に抑圧から解放され自由な状態を人々に提示してきたのだが、そんな状態はありえない。だからこそ革命はうまくいってこなかった。いまやるべきことは、達成されない自由を夢想するのではなく、ありうる自由をしっかりと考えて構想し、その構想した自由を求めて行動するべきなのだ、と説く。

次の一節は感動的だ。
「真の自由を規定するのは願望と充足の関係ではなく、思考と行為の関係である。」('p.84)
「あらゆる仕草(行動)が自身の思考以外を源泉とする場合、その人間は完全な奴隷である。」(p.85)
つまり、現状に対し文句を言って、理想の状況を酒の席でただぐちぐち語り合って実際は何も行動しないようなことではしょうがない。奴隷と同じである。現状の何が問題かを考え、それを改善すべく最善の努力をすることこそが真の自由を得るために必要なことなのだと言うのだ。

つまり人間が社会を変えていく際に重要となるのは一人ひとりの思考であり、一人ひとりが常に考えるべきだと行っているのだ。

「しかるに人間の思考には外部からの侵入や操作はありえない。ある人間の運命がほかの人間たちに依存するかぎり、その生はみずからの手をすり抜けるのみならず、みずからの知性をもすり抜けていく。」(p.100)
我々は他人に押し付けられた考えをそのまま受け入れて行動していたら本当の意味で生きているとは言えない。奴隷状態のままである。
ではどのように思考したらいいのか、どうすれば思考できるのか。

「ひとりで自己と向き合う精神においてのみ、思考は形成される」
「思考以外のすべては、肉体の動作を含め、外部から力ずくで強制されうるが、世界の何をもってしても、人間に思考力の行使を強いることも、思考の制御を控えさせることもできないからだ。」(p.103)
つまり一人で考えるべきだと、さらに一人で考えているという行為を誰も止めることはできないし、逆に、思考することは強制できないので、積極的に自ら考える姿勢を持つべきなのだ。

では、どのような社会が理想なのか。
「要約するならば、もっとも弊害の少ない社会とは、一般の人々が行動するさいにあたってもっとも頻繁に思考する義務を負い、集団的生の総体にたいして最大限の制御の可能性を有し、最大限の独立を保持するような社会である。」
つまりは一人ひとりが深く考え、最善(best)ではなく、より良い(better)な社会を構築していくことで、できる限りの自由を得られる社会こそが善い、とするのだ。何故bestではないかというと、先にも記したが、完全に抑圧のない社会の中などありえないからだ。

そして非常に面白い言葉が示されている。
「隷従は当人にこれを愛させるまでに人間の品性を損なう。さらに、現実に自由を享受する人間でなければ、自由を貴重なものとは思わない。われわれの政体のように全面的に非人間的な政体は。あらたな人間社会を形成しうる人間を鍛え上げるどころか、被抑圧者と抑圧者の別なく、政体に従属するすべての人間をおのれの似姿とすべく造形する」(p.132)
簡単に言えば、権力者から一般人までなにも考えずに流れに乗ってただ生きているということだ。まさに日本中の多くの共同体に当てはまることではないだろうか。伝統の名のもとに、習慣の名のもとに、不条理、非合理なことを改善することなくただ漫然と行動する人々。それは真の意味で生きているとは言えないのだ。

「力は思考を制御できない、とよくいわれる。しかし、これが事実であるためには、思考が存在していなければならない。理にかなわぬ臆見が概念の代わりをするところでは、力はなんでもできる。」(p.134)
結局人々は一人ひとりが思考しない限り、権力によって抑圧されてしまう。抑圧している人間も思考することなく抑圧している。お互いがお互いに寄りかかった状態で抑圧システムを作っているのだ。これを打倒するには結局は一人ひとりが思考するしかないのだ。

これは私の卒論と同じことを言っている。一人ひとりが思考することによってよりよい社会、平和な社会を築いていける。一人ひとりが思考できるようになるために教育に何ができるのか。私は大学以来常に考えている。なかなか答えは出ないし、決して完全なる答えは出ない。しかしより善い社会を求めて、より自由なる社会を求めて、より社会的抑圧の少ない社会を求めて、皆が思考していかなければならない。
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