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この人を見よ [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈15〉この人を見よ 自伝集 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈15〉この人を見よ 自伝集 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/06
  • メディア: 文庫



ニーチェ著『この人を見よ』を読み終わった。ちくま文庫から出ているニーチェ全集の最終巻。このニーチェ全集もかなり長い時間付き合ったがやっと完読。

この本を読むと、ニーチェが気が狂っていたことがわかるらしいが、私はまったく狂気性をこの本から感じなかった。確かに目次を読むとすごい言葉が並ぶ。
「なぜ私はこんなに賢明なのか」
「なぜ私はこんなに利口なのか」
「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」
確かに自分をここまで賛美できるのは素晴らしい。しかし、書いてあることは間違っていない。ニーチェ自身はソクラテス思想をそんなに受け入れていなかったのかもしれないが、ソクラテスに近い感覚を持っていたのではないだろうか。

ソクラテスは自分が「無知」であることを知っていた。しかし神は自分のことを最も「知」がある人間だという。それを確かめるために様々な「知」的と呼ばれる人々と対話する。そこで気がついたことは皆「自分が「無知」であることに「無知」である」ということだった。

ニーチェも同じように感じていたのではないだろうか。彼は牧師の家に生まれ、キリスト教思想を十分に内面化して育った。その上で、様々なことを学び、いろいろ考える中で、周りの人間が物事を深く考えずに今あることをただ漫然と受け入れるだけ、という状態に疑問を持ったのではないだろうか。まわりの人間は「神、イエス・キリスト」を漫然と受け入れ、自分で思考し自分で行動し自分で道を切り開いていくことを放棄してしまっている。そのニーチェの立場からすれば、自分の周りにいる人間より、自分ははるかに賢明であり、利口であり、良い本を書いていると思ったのではないだろうか。

私はかなりキリスト教思想に共鳴している。しかし、ニーチェの考え方にも非常に共鳴するところがある。自分で考え行動できて初めて他人に対して心を向けられるのではないだろうか。(ちなみにこの考え方は現在読んでいる阿部次郎『三太郎の日記』に影響を受けている)

ニーチェの本は長く、かなり難しいが、いろいろ考えさせられる部分が多く、非常に面白かった。またゆっくりとした時間が取れるのであれば再読したい。

偶像の黄昏 反キリスト者 [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈14〉偶像の黄昏 反キリスト者 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈14〉偶像の黄昏 反キリスト者 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/03
  • メディア: 文庫



ニーチェ全集14巻を読み終わった。この巻は『偶像の黄昏』『反キリスト者』『ヴァーグナーの場合』『ニーチェ対ヴァーグナー』の全4作品と附録がついている。

『偶像の黄昏』
基本的には、キリスト教・既存の道徳に対する批判。反時代的人間(私の我慢ならないものども)として、ルソー、シラー、カント、ユゴーなどが挙げられている。私の結構好きな作家・思想家達ばかりだ。

P48
教会はあらゆる意味での切除でもって激情と戦う。その施術、その「治療」は去勢である。~中略~協会はいつの時代でも戒律の力点を(官能性の、矜持の、支配欲の、所有欲の、復讐欲の)根絶に置いてきた。―しかし激情の根を攻撃するとは、生の根を攻撃することにほかならない。すなわち、教会の実践は生に敵対的である。

この官能性や支配欲、所有欲、復讐欲といったものがニーチェの賛美するディオニソス的なものなのであろう。こうしたものを根絶するのは人間の生にとってマイナスなのであろう。しかしニーチェがほかの著作で語っていた通り、これらをコントロールしていくことが重要なのだろうと思う。

P67~68
おのれの本質をなんらかの目的のうちへと転がし入れようと欲することは、不条理である。「目的」という概念を捏造したのは私たちであって、実在性のうちでは目的は欠けている・・・人は必然的であり、一片の宿業であり、全体に属しており、全体のうちで存在している。~中略~しかるに全体以外には何ものもないのだ。―誰ひとりとしてもはや責任を負わされないということ~中略~このことではじめて生成の無垢が再興されたのである。

この著書の中で示されている「生成の無垢」という概念が私にはわからない。個々人に責任が負わされないとしたら、そして全体を統合している神もいないのだとしたら誰が責任を負うのか。そもそも責任という概念自体が虚構なのか。わからない。やはりニーチェは難しい。そしてこの難しさこそが、解釈の多様性こそが、ニーチェが悪用される原因なのだろう。

『反キリスト者』
いままでのキリスト教批判とほぼ同じ。正直同じことを繰り返しているだけなので、飽きてくる。以下の箇所で、言葉をわかりやすく定義していたのでそこだけ紹介したい。

p166
善とは何か?―権力の感情を、権力への意思を、権力自身を人間において高めるすべてのもの。
劣悪とは何か?―弱さから由来する全てのもの。
幸福とは何か?―権力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて有用性。
弱者や出来そこないどもは徹底的に没役すべきである。これすなわち、私たちの人間愛の第一命題。
~中略~
何らかの背徳にもまして有害なものは何か?―すべての出来そこないや弱者どもへの同情を実行すること―キリスト教。

まあ、とにかくキリスト教は弱者のルサンチマンの結果現れた宗教であり、没落すべきものということなのだろう。個人的には、一人ひとりが強くなるとともに、キリスト教的人間愛をも持つことが「超人」だと考えるのだが。ニーチェに言わせると、結局キリスト教的人間愛が広がると一人ひとりが弱くなるということなのだろうか。

『ヴァーグナーの場合』
ヴァーグナー支持者だったニーチェが反対者になったその理由が分かるかと思ったが、やはりはっきりとはわからなかった。ニーチェにとって、ヴァーグナーは、いままでの(キリスト教的)道徳を突き破るような作品を作っていると思っていたが、実はそうではなかったということなのか。確かにジークフリート、ブリュンヒルデなどは半道徳的な行動を取っているが、結局はキリスト教的救済に導かれてしまうということなのだろう。

p.293
彼(ヴァーグナー)の歌劇は救済の歌劇にほかならない。男であるときもあれば、女であるときもあるが、ヴァーグナーにあっては誰かがつねに救済されていようとする。

ヴァーグナー歌劇の対象としてビゼーの「カルメン」が取り上げられており、それが素晴らしいところは、ドン・ホセが最後の場面で次のように言うところらしい。
「私が彼女を殺した。私が―私の最愛のカルメンを」
いわゆる、自分に責任を向けているというところが素晴らしいのだろう。そうなると、『偶像の黄昏』で出てきた「誰も個人に責任は帰せられない」という「永劫回帰思想」とどのようにつながるのだろう。わからない。

長い割に得るところの少ない本であった。

権力への意志 下 [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/12
  • メディア: 文庫




『権力への意志 下』を読み終わった。以下に印象的なアフォリズムを紹介したい。

アフォリズム番号516 p51
「同一のことを肯定し否定することは私たちにはできないというのは、一つの主観的な経験命題であって、そこに表現されているのは「必然性」ではなく、そうではなくて或る無能力にすぎない。」
簡単に言えば矛盾の原理はありえない、という前提自体が間違っている、とニーチェは主張したいのだ。論理学自体を疑うことを忘れていた自分としてはかなり衝撃的な一節だった。つまり、この世はすべて生成しており、変化し続けているのだから、理性・論理で全てを説明できないということなのだろう。他の箇所でも次のように言っている。
アフォリズム番号481 p27
「「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。」
つまり一つ一つの事象に対して一つ一つ当たっていくしかないということであろう。

アフォリズム番号527 p63
「哲学者と同じく生理学者も、意識は、鮮明さを増すにつれて、その価値を増大すると信じている。すなわち、最も鮮明な意識、最も論理的な、最も冷静な思考が、第一級のものであると信じている。ところで―いかなる基準でこの価値は決定されるのか?―意志の発動ということに関しては、最も表面的な、最も単純化された思考が、最も有用な思考である。」
用意周到さは否定され、深い本能が重視されるのだ。日頃まさに鮮明で論理的で冷静な思考を心がけている自分としては考えさせられるアフォリズムだ。たしかに、この世界で生きる上で、ほとんどの場面では深い思想の方が有益と感じられる。しかし時に、とくに生死を分けるような瞬間、単純化された至高、つまり深い本能が必要とされる。常に自分を反省的に捉えなくてはいけないと考えさせられた。

アフォリズム番号 532 p72
「心理とは何か?おそらくは生の条件となっている一種の信仰ではなかろうか?」
先程と同じなのだが、自分が絶対だと信じていることが実は絶対性を持ったものではないのではないかという反省的思考が常に必要とされるのではないか。

アフォリズム番号 581 p115
「「生」(呼吸する)、「魂を持っている」、「意欲し、作用する」、「生成する」という概念の普遍化としての「存在」。この反対派、「魂をもっていない」、「生成していない」、「意欲していない」である。それゆえ、「存在するもの」に対立しているのは、存在していないものではない、仮象的なものではない、また死せるものでもない。」
 これも面白いしてきであり、非常に納得させられてしまった。意欲し常に働きかけられる(生成する)存在でないと、存在している意味すらないのである。

アフォリズム番号 649 p174
「ダーウィン主義的生物学の意味での「有用である」とは―言いかえれば、他者との闘争においておのれを好都合のものとして証明することにほかならない。しかし私には、高揚された感情、より強くなるという感情がすでに、闘争における有用さをまったく別としても、本来の進歩であると思われる。すなわち、この感情からはじめて闘争への意志が発現するのである―」
 人との比較・闘争・競争ではなく、自分で自分に打ち克つことこそが人間としてあるべき姿ということなのであろう。

アフォリズム番号 699 p222
「苦痛は快とは異なったものであるが、―私の言おうとするのは、苦痛は快の反対ではないということである。~中略~私たちは、このように不快が快の要素として働いているのをみとめる。小さな阻止が克服されると、ただちにこれにつづいてまた小さな阻止が生じ、これがまた克服される―抵抗と勝利のこのような戯れが、快の本質をなすところの、ありあまり満ちあふれる権力のあの総体的感情を最も強く刺戟すると思われる。」
 これこそ私が日々思っていることだ。10年ほど前、同じようなことをある研究会で発表したのだが、ほとんど同意を得られなかった。あれから日本はますます不快を排除する世の中になってきている。不快の感情の克服こそが本当の意味での快の感情を引き起こしてくれるはずなのに。

アフォリズム番号 708 p232
「「生成」の価値について。~中略~世界の運動がいかなる目標状態をももってはいないということである。~中略~生成は、そのような終局的意図へと逃げ込むことなしに、説明されるべきである。」
 私はニーチェのこの説明に対して若干反論がある。基本的にプラトン主義者、キリスト教の考え方に共感するものとしては、プラトンの言う「イデア」の世界、キリスト教の言う「神の国」は存在していると思う。しかし、現世で生きる我々はそうした終局的意図へと逃げ込むことなしに、努力し続けなくてはならないと思うのだ。「イデア」「神の国」の存在を考えながらニーチェの言う生成する世界の中で「超人」として生きることは不可能なのだろうか。

アフォリズム番号 716 p240
「個々人のみが責任を感ずる。多数者は、個々人がその気力を持ち合わせていない事柄をなすために捏造されたのである。」
 この言葉がある第三書Ⅲ「社会および個人としての権力への意志」の部分は結構面白い。後に到来するナチス・ドイツ、天皇制国家主義日本の無責任体制を前もって痛烈に批判している。結局は個々人が責任主体となりえず。責任を社会、体制のせいにしてしまうことから悲劇は生まれるのだ。
 そしてこの「社会~」ではニーチェが優生学を支持していたのではないかと思わせるアフォリズム734のような箇所もある。ニーチェが良い意味でも悪い意味でも利用される理由がわかる。

アフォリズム番号 765 p278~279
 ここは非常に長いので引用はしないが、ニーチェの考える「生存の無垢」に関しての説明がある。分かりやすそうで難しいのだが、結局常に生成している世界の中で、因果関係などに絡め取られることなく、生きることを意志することが重要だということなのか。とにかくこの「社会~」の章はかなり興味深く読むことができた。

アフォリズム番号 863 p379
 「「強い人間と弱い人間」という概念は、強い人間の場合には多くの力が遺伝されているということに還元さえる。」
 最近トマ・ピケティの『21世紀の資本』という本がベストセラーになっているらしいが、普段ベストセラーになっている本を見ると、本当にみな『21世紀の資本』を全部読んでいるのかと疑問に思うのだ。
 何故そんな話をしたかというと、おそらく多くの日本人(に限らず多くの人間)は著者の書いた作品を(原文にせよ、翻訳にせよ)、一冊を通して読んだ人は少ないのではないだろうか。特にニーチェやこのトマ・ピケティなど、長くて難解(『21世紀の資本』は現在読んでいる最中だが、そこまでではない気がするが)な著者の本に関しては、おそらく解説書や一言集みたいなものをかじっているにすぎないのではないだろうか。そうすると、このアフォリズムのように優生学的なものをすこし目にすると「ニーチェは優生学思想の持ち主だ」ということになりかねない。確かにその側面があるのだが、ニーチェが本当に伝えたかったことはなんなのか。その本質を探る努力をすべきなのではないだろうか。
 「10分で読める~」「一冊でわかる~」などという本が売れているこの日本。そうした人々によって作られる世論で決まっていく政策がどれほどレベルが低いか、みな考えるべきなのではないだろうか。

アフォリズム番号 912 p421
 「私は、適当な時期にすぐれた鍛錬をうけることを怠った者が、ふたたびそのつぐないをしうるとは考えない。そうした者は、おのれを知ることなく、歩行を習得しておかないままで生涯を歩みたどるのである。~中略~。ときとして人生は、こうした厳しい鍛錬の遅れを取り戻させるほど慈悲深くはある。~中略~。だが、最も望ましいことは、~中略~おのれに多くの期待がかけられているのをしって誇りを感ずるあの年齢をすぎないうちに、厳しい訓練をうけることであることに変わりはない。」
 これは素晴らしい教育論であると思う。「楽しい」ということが強調される現在の日本の教育界の人々に是非読んでもらいたい一節だ。

アフォリズム番号 916 p423
 「「役立つ官吏」を規範として念頭にしている現代のばからしい教育界は「授業」でもって頭脳を仕込むことでもって、万事片付くと信じており、何かこれとは別のことが第一に必要であるということすら想いうかばない―意志力の教育こそそれである。」
 ある国のある大学の成立事情、現在の教育状況にぴったりの言葉だ。

アフォリズム番号 928 p435
 「おのれがもつこのような衝動をも克服して、英雄的行為を衝動にもとづいてなすのではなく、―そのさい暴風雨のごとく湧きたつ快感に圧倒されずに、冷静に、理性的になすということである。
アフォリズム番号 933 p438
「劇場を支配することであって、その弱化や根絶ではない!―意志の支配力が大きくなればなるほど、ますます多くの自由が劇場に与えられてよい。」
 ニーチェは既存の道徳を破壊しようとした。人間の本能を尊重した。私の解釈が正しければ、コスモスよりもカオスを尊重しようとした。近代的・科学的な観点からすればむちゃくちゃなように見えるが、この二つのアフォリズムを見ると、あくまで理性的に、コスモスを目指そうとしてことがわかる。一見矛盾するように見えるし、うまく言葉で表現できないのだが、すごくニーチェの目指そうとしていた人間像がわかる。

『権力への意志』は長くて、よくわからないものも多いのだが、第三書の「社会および個人としての権力への意志」と第四書の「階序」の箇所は、政治論・教育論として非常に示唆に富んだ読まれるべき部分だと思う。

権力への意志 上 [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/12
  • メディア: 文庫



ニーチェの『権力への意志 上』を読み終わった。相変わらず彼の意図がつかみづらく、しかもアフォリズム形式なので基本的には同じことをひたすら繰り返しているだけである。このへんの作品であれば、解説書で概要がつかめれば良いと、原文に当たる方が良いと常日頃思っている私でも考えてしまうくらい、長尺な感じだ。

大枠は
1.ヨーロッパのニヒリズム
2.キリスト教批判
3.哲学批判
となっており、副題としては「すべての価値の価値転換のこころみ」ということらしい。

キリスト教によって「生への意志」を剥ぎ取られてしまったヨーロッパはニヒリズム、デカダンス状態になってしまった。キリスト教的な道徳観を捨て、今までの西洋的哲学をやめ、真の意味での「権力への意志」を持つべきだ、ということなんだと思う。正直、どこまでをニーチェが批判しており、どこまでがニーチェの真の主張なのだか、頭の悪い私にはわからない。

そんななか印象的なフレーズを何点か紹介したい。

p.168
「キリスト教が否定したのは何か? ―今日キリスト教的とよばれているもののすべてである。」
p.175
「―教会こそ、イエスがそれに反対して説教し―またそれに対して戦うことをその使徒たちに教えたもの、まさにそのものである―。」
p.216
「キリスト教は最も私的な生存様式としては可能である。それは、狭い、引きこもった、完全に非政治的な社会を前提する、―それは使徒集会の一種である。」

この3つは私が現代のキリスト教に抱く違和感と近いものがある。

p.390
「ひとは、自己自身を自由に形成しつづけるために、この権力を利用することができる。すなわち、自己向上と強化としての権力への意志。」

結局、自己を常に高める努力を続けることこそ重要であり、多くの人間(一般大衆、畜群)には無理であり、努力しない人間を肯定するような、道徳、キリスト教は破棄されるべきだ、という主張なんだと思う。

もちろん違和感を、反感を覚える箇所は多々あるが、共感すべきところも多々あり、本質的な部分ではかなり私の普段思っている部分と一致する哲学者なのではないかと勝手に思っている。

私は全人類が考える主体(ニーチェの言う超人、畜群ではない人間)になることこそが世界平和へとつながると考えているのだが、やはり無理なことなのだろう。


善悪の彼岸 道徳の系譜 [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/08
  • メディア: 文庫



ニーチェの『善悪の彼岸 道徳の系譜』を読み終わった。普通の文庫本2冊分なのでかなり時間がかかった。
内容は『人間的、あまりに人間的』『曙光』などとほとんど変わらず、キリスト教批判、真理批判となっている。『道徳の系譜』の方は、今までのアフォリズム形式と違い、論文形式になっているので、論旨を追いやすい。どのように現在の道徳が作られてきたかということが論じられておりそれなりに興味深い。
いかに印象的なフレーズを挙げておきたい。

『善悪の彼岸』
●〈誠実〉とは何かという問題について、おそらくいまだなんぴとも十分に誠実であったことがない。
⇒私が常に言っていることと完全に一致している。「誠実に~」とか曰わっている人間ほど誠実でない人間はいない。
●真の哲学者は、命令者であり立法者である。
⇒今までの伝統や慣例、型をあるがままに受け入れず、自分で考え行動するべきだということだろう。これも常日頃から私が考えるところと一致している。
●この過程(近代的理念)は、~中略~概して人間の均等化と凡庸化が作り出され―有用で、勤勉で、いろいろと役に立つ器用な蓄群的人間が生まれてきている~
⇒まさに今の日本の状況だ。ものを考えられない凡庸な人間、蓄群がうようよしている。そのことに気がつかないから更に悲劇だ。いや気づかないからこそ蓄群なのだろうが。
●生こそは権力への意思
⇒これはこのあとのニーチェの思想につながっていくんだろうと思うが、先ほどの真の哲学者は、命令者であり立法者であると同じことなのだと思う。
●もっとも偉大な出来事ともっとも偉大な思想は、もっともおそく理解される。
⇒現状に対して否を突きつける人間はその社会からは嫌われる。しかし、メタレベルで見ればそれがいいはずなのだ。なぜなら、変えていこうという意思のないものほどくだらないものはないからだ。

『道徳の系譜』
●道徳における奴隷一揆はルサンチマンそのものが創造的となり価値を生み出すようになったときにはじめて起こる。
●貴族的人間は〈よい〉〈優良〉という基本概念をまずもって自発的に、すなわち自分自身から考えおこし、そこからしてはじめて〈わるい〉〈劣悪〉という観念を作り出すのだ。
⇒これはかの有名な「ルサンチマン」の説明なのだが、蓄郡は強者に対して恨み(ルサンチマン)を抱き、そのシステムを壊そうとしてキリスト教道徳を作り上げたが、この出発点はあくまでもルサンチマン(つまり相手に対する嫉妬感情)からなのだ。それに対して強者は自分で〈よい〈わるい〉の基準を作り上げて弱い者たちを〈劣悪〉と呼ぶ。そのほうが正しいあり方と言えるのではないだろうか、という提言だ。確かに完全に納得できるわけでもないがその通りだと思う。
●法律の制定があってはじめて〈法〉と〈不法〉というものが生じるのだ。
⇒本当にそのとおりだろう。つまりは伝統や慣習を作り上げ、それが法として定着し、現状に甘んじる人間ばかりになってしまうことに対する批判なのだ。

かつてある本で、ニーチェの思想がナチスのユダヤ人迫害の理論的バックボーンになったと読んだことがあったのだが、今まで読んだ中では一切そんなことはなかったのだが、『善悪の彼岸』の中で、諸民族の混淆を問題視する箇所が出てくることは出てくる。更に、蓄群は自分では何も考えられないので絶対的権力者を渇望するというエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を彷彿とさせる一節も出てくる。そういった意味で、あらゆる思想を当てはまることができてしまう、力強さと危うさがニーチェの思想にはあるのであろう。

かくいう私も、ニーチェが批判するキリスト教思想・プラトン思想にはかなり共感を持っているが、ニーチェの思想にも共感できるところが数多い。
しかし、ニーチェの本を読んでいて、ニーチェ思想は実はプラトン思想と同じことをいっているのではないかと
ずっと感じていた。

プラトンは、イデア界という真理世界を前提に、そこへ向かってひたすら努力し続けられる人間、批判精神を持ち続けられる人間こそが金の人間、哲学者であり、権力者になるべき人間であり、ほかは銀銅の人間なのだと言っている。
ニーチェは、真理などというものがあると想定するから軟弱な人間が生まれてしまうのだから、現状を常に批判的に見、自分自身で考え、道徳を自ら作り上げていける人間こそが超人であり、そうした人間は生を肯定し、権力への意思を持っているのであって、ほかの人間たちは蓄群だと言っている。

すごく単純化するとともに私が日本語訳の本から読み取ったところを述べただけなので、専門家やもっと詳しく彼らの思想をしる人たちにとっては違うというかもしれないが、私はそう読み取った。

結局現状を常に批判的に見て自分で考え行動していくべきというところは一致しているのではないだろうか。さらに、ニーチェが言う「真理などというものはない」というものもそれ自体が「真理などというものはないという真理」になっているのではないだろうか。だからこそ先に挙げた、「真の哲学者は~」というところで「真」という言葉を使わざるを得なくなってしまうのではないだろうか。まあ訳語の問題もあるので、ニーチェが実際どのような単語を使っているかはわからないが。

しかし私の抱えていたこの疑問はこの本の最後のところで解消された。
「無条件的に誠実な無神論は、見た目にはそう見えるほどあの理想と対立したものではない。むしろそれはあの理想の最後の発展段階の一つ、あの理想の論結形式かつ内面的帰結の一つにほかならない」
つまり、プラトン思想、キリスト教思想の先に、ニーチェの求める超人思想があるということなのだと思う。

まあ本当に難解なのでどこまでニーチェが言いたかったことを理解しているかはわからないが、久しぶりに深く考えながら本を読んだ気がする。

悦ばしき知識 [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈8〉悦ばしき知識 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/07
  • メディア: 文庫



ニーチェの『悦ばしき知識』を読み終わった。内容は『人間的、あまりに人間的』『曙光』と対して変わらない。第4章の最後には『ツァラトゥストラ』の最初の部分が出てきたりしている。正直、『人間的、あまりに人間的』を読めば、『曙光』『悦ばしき知識』を読む必要はないと思う。

この中から印象に残った節をいくつか。

p74
学問の目標について:快と不快が一本の綱でつながれていて、できるだけ多く一方のものを持とうと欲するものは、またできるだけ多く他方のものを持たざるを得ないとしたらどうか?
 ⇒たしかに、快が増えれば増えるほど、不快は減るものではなく、増していく。気づきそうで気づかない面白い視点だと思った。

p211
群蓄における良心の呵責:思想の自由ということは、不安そのもののようにおもわれた。我々が法や統制を束縛や損害と感ずるのに反し、昔の人々はエゴイズムを苦痛なこと、真の困厄と感じた。~中略~ひとびとが非自由な行動をとればとるほど、その行動からもの言うものが個人的な意向ならぬ群蓄的本能であればあるほど、それだけ自分が道徳的だとひとびとは考えた。
 ⇒結局、現在当たり前と思われていること(≒道徳)に対して全く批判的思考を向けず流されて生きることに対して、ニーチェは猛烈に批判の矢を向けているのだと思う。これはエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で描いていた構造と全く同じだ。よくニーチェはナチスの理論的バックグラウンドとなったなどと言われるが、正反対の思想的位置にあるのではないかと思うのだが。

p258
お笑いぐさだ!:彼は人間どもから逃走しているー、それなのに、彼が人間どもの先を走ってくるので、ひとびとはその後を追っかけてくる。ーそれほどにまで人間どもは群蓄なのだ。
 ⇒日本人のブランド好き、さむらごうち問題、STAP細胞に対する人々の手のひらを返したかのような反応とう、まさしく日本人は群蓄のかたまりだ。

p294
認識者の建築:われわれの大都市に特に欠けているものの何であるかを見抜く洞察が、~中略~必要となるだろう。~中略~それは、思索のための静かな、ひろびろした~中略~場処。
 ⇒大都市は24時間ひたすら我々に刺激を与え続けている。我々に考える時間を与えない。日本人の群蓄化現象は一層増すばかりだ。

何とか、何とか、多くの人間が自分で考え、自由に行動することに悦びを感じるようになってもらいたい。


曙光 [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈7〉曙光 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/09
  • メディア: 文庫



ニーチェの『曙光』を2日前に読み終わった。というよりはページをめくり終わった。
この本の主題は、序文に全て書かれていると言って良い。つまり「善と悪に関してなされる考察」である。しかし今までになされたものは粗雑極まるものだったので、今までの道徳的な偏見を覆そうというものである。
言われていることは前著『人間的・あまりに人間的』とたいして変わらない。
第1章は痛烈な「キリスト教」批判。というよりも、キリスト教に盲目的に関わり考えることを放棄した者たちへの批判。前著よりもさらに批判の語調を強めている。
第2章はまさに「道徳」に関するもの。前著にもあったが、「利他的」とは突き詰めれば「利己的」になるということが繰り返される。
第3章は芸術などに関するもの。そして蓄群、つまり痛烈な大衆批判が展開される。そして後のナチス時代のドイツを予言するかのようなアフォリズムでこの章は終わる。
「道徳に対するドイツ人の態度-ドイツ人は偉大なことをする能力があるが、偉大なことをしそうにない。なぜなら、もしできる場合には、彼は服従するからである。」まさにヒトラーに服従して偉大なこと(悪い意味で)を成し遂げたドイツを予言していたといえるのではないだろうか。
この後、様々なアフォリズムが展開されるがあまり面白くはない。

正直、『人間的、あまりに人間的』を読めば読まなくてもいい書かなという感じはする。


人間的、あまりに人間的② [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈6〉人間的、あまりに人間的 2 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈6〉人間的、あまりに人間的 2 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/02
  • メディア: 文庫



ニーチェ全集『人間的、あまりに人間的Ⅱ』を読み終わった。
1よりも章が細かく分かれておらず、正直、読みづらかった。何度も書いているが、アフォリズム、日記形式、いわゆる、短い文の羅列のような本は筆者の主張が読み取りづらく、あまり好きではない。そのため、この本も大部分は「あ~そうなのね~」と読み飛ばしていた。しかし、416頁以降、一気に趣を変える。ニーチェの平和に関する考え方、軍隊に関する考え方、民主主義に関する考え方、とにかく、そのすべてが納得できる。

例えば、「真の平和に至る道」というアフォリズムで、正当防衛は、自分=道徳的、他者=非道徳的という考え方を基礎にしており、それはおかしい。まずは自国が非武装化すべきだ、というのはカントの永久平和に通じる考え方であり、現代にも通じる考え方だ。

安倍政権の真逆を行く考え方だし、正当な考え方だと思う。

『人間的、あまりに人間的』は非常に、難しい作品だが、Ⅱ巻も400ページ以降を読むだけでも価値ある本なのではないだろうか。


人間的、あまりに人間的① [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈5〉人間的、あまりに人間的 1 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈5〉人間的、あまりに人間的 1 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1994/01
  • メディア: 文庫



しばらく中断していた筑摩書房から出ているニーチェ全集をまた、読み始めた。この『人間的、あまりに人間的』あたりから、まとまった文章ではなく、アフォリズムと言われるノートの書き付けの集合体のような文体になっていく。私は小説でも長編小説が好きで、ある程度長い文章じゃないと、筆者の言いたいことがわからないし、物語であれば、その物語に入っていけないので、正直『~日記』とかショート・ストーリーとか、この類のメモの寄せ集めのような作品は好きではない。
なので、この本はそこまで楽しめなかった。
が、一般にニーチェの解説書などで紹介されるニーチェの思想はこの作品あたりから姿を現す。それまでは古典文献学者としての一面がかなり濃厚に現れているが、これは彼の思想を書き留めたものを集めたものだけあって、独創性にあふれている。
「神は死んだ」といった言葉の背景にある思想、永劫回帰といった思想、真なるもの絶対なるものの否定といったものが随所に垣間見える。
が、やはりただの問いかけなのか、逆説的な・反語的なものなのかがわからなかったり、正直40%くらいしかわからない。
やはりニーチェは難しい。


ツァラトゥストラ [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈9〉ツァラトゥストラ 上 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 文庫



この7月から8月にかけてニーチェの『ツァラトゥストラ』を読んだ。
大学3年の時、岩波文庫版『ツァラトゥストラはかく語りき』を読んだことがある。当時は解説書の類もほとんど読むことなく、この本を読んだので正直ほとんど意味が分からなかった。何となく聖書と対比させているなあという感じを受けながら文字を目で追っただけだった。
今回は、3年前に買った、ちくま学芸文庫から出ているニーチェ全集の『ツァラトゥストラ』を読んだ。
ニーチェ関連の本をいろいろ読んだ後に読んだので前よりは頭に残る部分は多かった。
特に上巻は分かる部分が多かった。
しかし、この本を読んだだけでは、何故「神は死んだ」のか、「超人」とは結局どういうものなのかということは理解しきれない、、、気がする。
頭の良い人は分かるのかもしれないが、頭の悪い私には少なくとも分からなかった。ましてや「永劫回帰」の思想というのはさっぱりわからなかった。
そして、『聖書』や「キリスト教」に馴染みのない日本人がどれだけこの本を理解しているのだろうか。
よく「名著」と呼ばれる本であり、多くの人に推薦される本ではあるが、推薦している人は本当に読んだことがあり、本気で薦めているのかと思ってしまう。
最近「一冊でわかる~」とか「7日で完成~」の類の本が流行っている。しかし、「わかる」というのはそんなに簡単なことではない。ちょこっとかじったくらいで「わかる」という言葉を使うことほど恥ずかしいことはない。
ニーチェが「畜群」「教養ある人々」と呼んで、警告を発したのは、この本を読んだこともないのに、若い人々に「若いときに読むべき本」等と言って推薦する輩に対してなのではないだろうか。

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