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権力への意志 下 [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/12
  • メディア: 文庫




『権力への意志 下』を読み終わった。以下に印象的なアフォリズムを紹介したい。

アフォリズム番号516 p51
「同一のことを肯定し否定することは私たちにはできないというのは、一つの主観的な経験命題であって、そこに表現されているのは「必然性」ではなく、そうではなくて或る無能力にすぎない。」
簡単に言えば矛盾の原理はありえない、という前提自体が間違っている、とニーチェは主張したいのだ。論理学自体を疑うことを忘れていた自分としてはかなり衝撃的な一節だった。つまり、この世はすべて生成しており、変化し続けているのだから、理性・論理で全てを説明できないということなのだろう。他の箇所でも次のように言っている。
アフォリズム番号481 p27
「「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。」
つまり一つ一つの事象に対して一つ一つ当たっていくしかないということであろう。

アフォリズム番号527 p63
「哲学者と同じく生理学者も、意識は、鮮明さを増すにつれて、その価値を増大すると信じている。すなわち、最も鮮明な意識、最も論理的な、最も冷静な思考が、第一級のものであると信じている。ところで―いかなる基準でこの価値は決定されるのか?―意志の発動ということに関しては、最も表面的な、最も単純化された思考が、最も有用な思考である。」
用意周到さは否定され、深い本能が重視されるのだ。日頃まさに鮮明で論理的で冷静な思考を心がけている自分としては考えさせられるアフォリズムだ。たしかに、この世界で生きる上で、ほとんどの場面では深い思想の方が有益と感じられる。しかし時に、とくに生死を分けるような瞬間、単純化された至高、つまり深い本能が必要とされる。常に自分を反省的に捉えなくてはいけないと考えさせられた。

アフォリズム番号 532 p72
「心理とは何か?おそらくは生の条件となっている一種の信仰ではなかろうか?」
先程と同じなのだが、自分が絶対だと信じていることが実は絶対性を持ったものではないのではないかという反省的思考が常に必要とされるのではないか。

アフォリズム番号 581 p115
「「生」(呼吸する)、「魂を持っている」、「意欲し、作用する」、「生成する」という概念の普遍化としての「存在」。この反対派、「魂をもっていない」、「生成していない」、「意欲していない」である。それゆえ、「存在するもの」に対立しているのは、存在していないものではない、仮象的なものではない、また死せるものでもない。」
 これも面白いしてきであり、非常に納得させられてしまった。意欲し常に働きかけられる(生成する)存在でないと、存在している意味すらないのである。

アフォリズム番号 649 p174
「ダーウィン主義的生物学の意味での「有用である」とは―言いかえれば、他者との闘争においておのれを好都合のものとして証明することにほかならない。しかし私には、高揚された感情、より強くなるという感情がすでに、闘争における有用さをまったく別としても、本来の進歩であると思われる。すなわち、この感情からはじめて闘争への意志が発現するのである―」
 人との比較・闘争・競争ではなく、自分で自分に打ち克つことこそが人間としてあるべき姿ということなのであろう。

アフォリズム番号 699 p222
「苦痛は快とは異なったものであるが、―私の言おうとするのは、苦痛は快の反対ではないということである。~中略~私たちは、このように不快が快の要素として働いているのをみとめる。小さな阻止が克服されると、ただちにこれにつづいてまた小さな阻止が生じ、これがまた克服される―抵抗と勝利のこのような戯れが、快の本質をなすところの、ありあまり満ちあふれる権力のあの総体的感情を最も強く刺戟すると思われる。」
 これこそ私が日々思っていることだ。10年ほど前、同じようなことをある研究会で発表したのだが、ほとんど同意を得られなかった。あれから日本はますます不快を排除する世の中になってきている。不快の感情の克服こそが本当の意味での快の感情を引き起こしてくれるはずなのに。

アフォリズム番号 708 p232
「「生成」の価値について。~中略~世界の運動がいかなる目標状態をももってはいないということである。~中略~生成は、そのような終局的意図へと逃げ込むことなしに、説明されるべきである。」
 私はニーチェのこの説明に対して若干反論がある。基本的にプラトン主義者、キリスト教の考え方に共感するものとしては、プラトンの言う「イデア」の世界、キリスト教の言う「神の国」は存在していると思う。しかし、現世で生きる我々はそうした終局的意図へと逃げ込むことなしに、努力し続けなくてはならないと思うのだ。「イデア」「神の国」の存在を考えながらニーチェの言う生成する世界の中で「超人」として生きることは不可能なのだろうか。

アフォリズム番号 716 p240
「個々人のみが責任を感ずる。多数者は、個々人がその気力を持ち合わせていない事柄をなすために捏造されたのである。」
 この言葉がある第三書Ⅲ「社会および個人としての権力への意志」の部分は結構面白い。後に到来するナチス・ドイツ、天皇制国家主義日本の無責任体制を前もって痛烈に批判している。結局は個々人が責任主体となりえず。責任を社会、体制のせいにしてしまうことから悲劇は生まれるのだ。
 そしてこの「社会~」ではニーチェが優生学を支持していたのではないかと思わせるアフォリズム734のような箇所もある。ニーチェが良い意味でも悪い意味でも利用される理由がわかる。

アフォリズム番号 765 p278~279
 ここは非常に長いので引用はしないが、ニーチェの考える「生存の無垢」に関しての説明がある。分かりやすそうで難しいのだが、結局常に生成している世界の中で、因果関係などに絡め取られることなく、生きることを意志することが重要だということなのか。とにかくこの「社会~」の章はかなり興味深く読むことができた。

アフォリズム番号 863 p379
 「「強い人間と弱い人間」という概念は、強い人間の場合には多くの力が遺伝されているということに還元さえる。」
 最近トマ・ピケティの『21世紀の資本』という本がベストセラーになっているらしいが、普段ベストセラーになっている本を見ると、本当にみな『21世紀の資本』を全部読んでいるのかと疑問に思うのだ。
 何故そんな話をしたかというと、おそらく多くの日本人(に限らず多くの人間)は著者の書いた作品を(原文にせよ、翻訳にせよ)、一冊を通して読んだ人は少ないのではないだろうか。特にニーチェやこのトマ・ピケティなど、長くて難解(『21世紀の資本』は現在読んでいる最中だが、そこまでではない気がするが)な著者の本に関しては、おそらく解説書や一言集みたいなものをかじっているにすぎないのではないだろうか。そうすると、このアフォリズムのように優生学的なものをすこし目にすると「ニーチェは優生学思想の持ち主だ」ということになりかねない。確かにその側面があるのだが、ニーチェが本当に伝えたかったことはなんなのか。その本質を探る努力をすべきなのではないだろうか。
 「10分で読める~」「一冊でわかる~」などという本が売れているこの日本。そうした人々によって作られる世論で決まっていく政策がどれほどレベルが低いか、みな考えるべきなのではないだろうか。

アフォリズム番号 912 p421
 「私は、適当な時期にすぐれた鍛錬をうけることを怠った者が、ふたたびそのつぐないをしうるとは考えない。そうした者は、おのれを知ることなく、歩行を習得しておかないままで生涯を歩みたどるのである。~中略~。ときとして人生は、こうした厳しい鍛錬の遅れを取り戻させるほど慈悲深くはある。~中略~。だが、最も望ましいことは、~中略~おのれに多くの期待がかけられているのをしって誇りを感ずるあの年齢をすぎないうちに、厳しい訓練をうけることであることに変わりはない。」
 これは素晴らしい教育論であると思う。「楽しい」ということが強調される現在の日本の教育界の人々に是非読んでもらいたい一節だ。

アフォリズム番号 916 p423
 「「役立つ官吏」を規範として念頭にしている現代のばからしい教育界は「授業」でもって頭脳を仕込むことでもって、万事片付くと信じており、何かこれとは別のことが第一に必要であるということすら想いうかばない―意志力の教育こそそれである。」
 ある国のある大学の成立事情、現在の教育状況にぴったりの言葉だ。

アフォリズム番号 928 p435
 「おのれがもつこのような衝動をも克服して、英雄的行為を衝動にもとづいてなすのではなく、―そのさい暴風雨のごとく湧きたつ快感に圧倒されずに、冷静に、理性的になすということである。
アフォリズム番号 933 p438
「劇場を支配することであって、その弱化や根絶ではない!―意志の支配力が大きくなればなるほど、ますます多くの自由が劇場に与えられてよい。」
 ニーチェは既存の道徳を破壊しようとした。人間の本能を尊重した。私の解釈が正しければ、コスモスよりもカオスを尊重しようとした。近代的・科学的な観点からすればむちゃくちゃなように見えるが、この二つのアフォリズムを見ると、あくまで理性的に、コスモスを目指そうとしてことがわかる。一見矛盾するように見えるし、うまく言葉で表現できないのだが、すごくニーチェの目指そうとしていた人間像がわかる。

『権力への意志』は長くて、よくわからないものも多いのだが、第三書の「社会および個人としての権力への意志」と第四書の「階序」の箇所は、政治論・教育論として非常に示唆に富んだ読まれるべき部分だと思う。

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