洋子さんの本棚 エッセイ⑩ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
作家の小川洋子さんと、エッセイストの平松洋子さんが、自分たちが読んできて影響を受けた本を語り合う対談集。女性というものを強く意識した対談になっているが、「ジェンダー」というよりは「セックス」の側面から語っている部分が多く、「産む性」として生まれた自分という存在をいろんな本を通して見つめ直し、客観的に語っているのがとても興味深かった。
旅が好きで外にどんどん出ていく平松洋子さん、旅が苦手で内にどんどんこもっていく小川洋子さん、まったく対照的に見える二人だが、内面では共通している部分が多いというのも非常に面白かった。
さらに、二人共友達と呼べる人が少なく、それでいいんだと言っている部分も共通しており、内面が充実している人に、それも内面が充実している人に多く見られる傾向だとも思う。
以下、印象に残った箇所を紹介したい。
p.40
平松「高度成長期にこれから突入していこうかという、その手前の時代。生活のすき間に、手間はかかるけれど余剰というか、余分なものがいっぱいあった。」
これは本当に感じる。自分は高度成長期に生きたことはないが、こんなにインターネットやSNS,携帯が広がる前、もっと穏やかで無駄なものを大切にする雰囲気があったと思う。
p.56
小川「こんなことをいうとみもふたもないですけれど、とにかくこの思春期を乗り越えて、大人になるって大変なことですね。よくそんなことを自分が出来たなと(笑)。あの時間をもう一回やり直せと言われても無理だと思う。」
私もそう思う。よく「戻れるならいつの時代に戻りたいですか」という質問を目にするが、私はどの時代にも決して戻りたくはない。楽しいことはあったかもしれないが、それはそれで辛いこともあったし、大変なこともあった。人生は常に辛いこと苦しいことを乗り越えていくことの連続で、その積み重ねで自分があるので、絶対にやり直したくない。
p.82
小川「私って馬鹿だなと。どんなことでも取り返しがつかないんだけれど、子育ては最も徹底的に取り返しがつかない。ですから、子どもとしての私も愚かだったけれど、親としての私も愚かだった。~中略~ 自分の後悔によって、過去の人々を許せるようになったということでしょうか。」
自分は子育て真っ只中だが、まだこの感覚はわからない。
p.163
平松「小川さんは別れたあとで宿題を抱えているみたいなこと、ありますか。」
小川「私は半ば無理矢理、過去は完全だと思うようにしています。」
平松「おお、完全という言葉が出ましたか。」
小川「どんな失敗も、どんな愚かな行いも、過去は、それはそういうものだったんだと。~」
平松「~私がいつも思うようにしているのは、過去は必然だったのだと。自分がいまここにこうあるのは、やっぱいあの過去があったから、と。」
私はここまでの境地には達せないが、いまこうしてあるのはあの過去があったからとは思う。
p.176
平松「もちろんちょっと仕事や家事がしんどいときは誰にでもあると思うんですけど、それをスランプという言葉で表現してみても何も始まらないということを女の人たちはよく知っているのではないかしら。」
小川「毎日同じことを繰り返すのは実は幸せなこと。」
これはとっても共感するのだが、「女の人」に限ったことではないと私は思ってしまう。
とっても良い対談集だった。
とにかく散歩いたしましょう エッセイ⑨ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
科学の扉をノックする エッセイ⑧ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
小川洋子さんが、自分の興味ある分野の科学者たちの話を聞きに行って、その内容を文章にまとめたもの。
宇宙、鉱物、DNA、光、粘菌、遺体科学、スポーツ・トレーナーなど、かなり専門的な話なのだが、素人の小川洋子さんに易しく噛み砕いて説明し、それをさらに小川洋子さんの言葉で書き直したものなので、かなりわかりやすくなっている。
さいごの「あとがき」の一節が非常に印象的だった。
pp.195~196
「取材を終え私が一番に思うのは、皆さんが奉仕の心を持っておられたことです。目に見えない何か、自分より偉大な何かに対し、戦いを挑むのではなく、謙虚な心で奉仕する。その心がいつも私を感動させました。」
p.199
「本書のスタート時には、科学の分野の興味深い研究内容を紹介しようという試みがあったのは事実ですが、取材を重ねてゆくうち、自分が本当に伝えたいのは、その研究に打ち込む人間の姿なのだと気づきました。題材がなんであれ、作家はやはり人間を書くのが仕事です。」
この本を読んで改めて、自分は物語のある文章が好きなんだなあ、と思った。
科学に興味をもつきっかけとして素晴らしい本だと思う。
カラーひよことコーヒー豆 エッセイ⑦ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
いつも同じことを書いている気がするが、彼女のエッセイを読むと共感することばかりで、何故自分が彼女の小説が好きなのかがよくわかる。
p.9
「昔、私はインドとドイツの区別がつかなかった。
~中略~
台風が近づくとよく発令されるハロー注意報には元気づけられた。」
若干違うのかもしれないが、私はロンドンとイギリスの関係性がわからなかった。パリとロンドンの区別がつかなかった。そうしたことに対し父親と兄は、「それはやばい」みたいなことを言っていたが、じぶんの常識の中で相手を裁断していたに過ぎない。はっきり言って彼らが知らないことを私はその当時たくさん知っていた。ただ単に自分と興味関心がある世界が違うだけなのだ。そうしたことを考えず自分の世界・知っているもののみが正しく、それを知らない人は非常識だと思う人は可愛そうだと思う。
私は、昔「台風一過」というのを「台風一家」だと思っていて、何故台風が一家でやってくるのに晴れるのだろうと思っていた。
などということをこのエッセイを読みながら考えていた。
p.50
「キーボードのボタン一つでパッと出会えた仲間より、孤立感に涙する時間や、効率の悪い作業や、神様の気紛れとしか思えない偶然の果てに巡り合った仲間の方が味わい深いのでは、と考えるのは時代遅れな人間のノスタルジーだろうか。」
私もそう思ってしまう。きっとノスタルジーなのだろうが、やはりそちらのほうが深い関係性な気がしてしまうのだ。
p.57
「どんな才能も、自ら売り込んでいる間は本物ではない。神様の計らいは常に、本人に気づかれないようこっそり施される。」
私の周りにも自分の才能(才能と言えるほどたいしたものではないことが多いが)売り込んでいる人が沢山おり、そう言う人は平気で人の批判をする。神様の計らいがないから自分で売り込むしかないのかもしれないが・・・・・・。
p.69
「基本的に私は、何に対しても自信の持てない性格である。
~中略~
気安い友達と楽しく食事をしたあとでも、「あんなこと言わなければよかった。気を悪くしたんじゃないだろうか。どうして私はいつもこうなんだろう」と、あれこれ後悔の念にとらわれる。」
こうした内容のことがいつも彼女のエッセイには書かれている。きっと常に思っており、歳をとり、どんなに有名になってもこうした気持ちを忘れないからこそ、あれだけ素晴らしい小説を書き続けられるのだろうと思う。
p.107
「個性とは、小手先でどうにか細工をしようと思ってもできない種類のものだ。当然、他の誰かと比べることもできない。だからこそその人にとっても宝物となり得る。
一流のフィギュアスケートの選手たちを見ていると、技術の習得よりも、個性の表現に苦闘の原点があるように思える。持って生まれたものがごく自然にあふれ出てくるのではなく、努力の果てにようやく結実した一粒の結晶こそが、本物の個性なのだと彼らは教えてくれる。」
努力して始めて見えるものがあり、溢れてくるものがある。それこそが本物の個性なのだと思う。最近は、教育において努力をするということをあまりに軽視している気がする。それでは本物の個性が出ない気がする。
相変わらず優しさあふれる良いエッセイだった。
犬のしっぽを撫でながら エッセイ⑥ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
小川洋子さんのエッセイ集を、今年かなり読んでいる。結構同じような描写があったりするのだが、読むたびに自分と似た感覚を持っているなあと思い共感しながら読んでしまう。
p.32
「私はストーリーが書きたいわけではありません。私が書きたいのは人間であり、その人間が生きている場所であり、人と人との間に通い合う感情なのです。」
これは彼女の小説を読んでいるととても分かる。派手な事件が起こるわけでもないし、わかりやすい話の流れでもないので、読むのにかなり時間を要するし神経を集中させなければいけないのだが、だからこそ読み終わった後の感動は大きいのだと思う。
p.65
「一人仕事部屋でワープロに向かっていると、親密な空気が流れるのを感じる。~(中略)~ 世界とつながっているパソコンよりも、ただ文字を変換しているだけのワープロの方が、ずっと優しい視線を向けてくれている。」
世間では、SNSによってかつてであれば繋がることが出来なかった人ともつながることが出来るようになり、世界が広がったなどと言われるが、つながらなくても生きていたのであればそれで良いのではないかと思う。私は携帯をインターネットにつなげていない。無意味につながりを広げるよりも、今まで生で繋がっていた人とのつながりを大事にしたい。
p.81
「私は小説が好きなのだ。同じように小説を愛する人々と触れ合い、「本当に、小説っていいよね」と言いたいのだ。
すばらしい本を読んだ時、だれかに伝えたいと思う。他者に語ることで感動をさらに確かなものにしようとする。そういうだれかと出会える場が、身近に一つでも多くあるような社会こそ、文化的に豊かだと言える気がする。」
すごくすごく共感した。私も多々単純に小説が好きで、誰かと共有したいと常に思う。そして共有できる場所がたくさんあることこそが文化的に豊かだと思う。
p.167
「プロ野球選手としてグラウンドに立てるのは、特別に選ばれたほんの一握りの人にすぎない。特別に選ばれたことを鼻にかけるのではなく、感謝の心でプレーするのが、本物の一流選手だ。」
p170
「誕生日の金本選手は、試合の後、バッティングピッチャーの方たちと食事会をするらしい。そう、一流選手が持つ謙虚さ、感謝の気持ちとは、つまりこういうことなのだ。一流であるかどうかの技術を根底で支えるのは、やはりその人の人間性なのだ。」
これはプロ野球に限ったことではない。常に感謝の気持ちを忘れず謙虚に生きていたいと思う。
p.209
「本を読んでいる人を眺めるのが好きだ。~(中略)~本を手にした人を見かけると、必ず視線を送る。」
私もそうだ。電車の中で本を読んでいる人を見ると、何となく親近感を感じ、同志のように感じてしまう。
p.220
「職員食堂でお昼を一緒に食べているとき、『ライ麦畑でつかまえて』をどう思うか聞かれ、「ああ、あの、大人に反抗する向こう見ずな少年の話ね」と答えた私に、勢い込んで反論した彼女の表情が今も忘れられない。
「違う、それはホールデン少年が一番嫌ったタイプの大人たちが、勝手につけたレッテルでしかない。
~(中略)~
彼女の言い分は、ホールデンは社会には向かい傷つく、純真な少年の象徴などではなく、十六歳にして既に老成してしまった特異な感受性の持ち主であり、大人よりももっと大人なのである。彼が対峙したものは、外の世界にあったのではない。彼自身に内側にあったのだ。」
私もそう思う。世間一般で言われているこの作品の論評は間違っていると思う。
p.227
「人間の手が作り出すものは偉大です。」
彼女が習っていた手芸教室の先生の言葉らしい。
p.228
「天気のこととか、テレビニュースのこととか、しなくてもいい雑談をするのが私はとても苦手なのだ。」
私もとても苦手だ。きっと物語を心の底から愛する人は同じような感じなのではないかとこの文章を読み思ってしまった。
p.244
「時々、自信満々の人、に出会う。
自分ことを堂々と自慢し、それが自慢だと気付きもせず、批判されると、ひるむことなく三倍の批判をお返しする。取り越し苦労、いじけ虫、自己嫌悪、後悔、絶望、くよくよ、びくびく、などという言葉とは無縁。他人が自分をどう思うかより、自分が何を表明するかの方が大事。頭の中に常に完全なる自分の姿を思い描き、過去は振り返らず、輝ける未来に生きている・・・・・・。」
私もこのような同僚が二人いる。本当に素晴らしいなあと思う。
p253
解説をデビット・ゾペティというフランス人が書いているのだが、その話が面白い。
小川洋子作品をフランス語に訳しているローズ・マリーさんは、かなり色々なことを知っているのだが、野球のことは無知だったらしく、『博士の愛した数式』を訳す際、全く訳の分からない日本語になってしまっていたらしい。これからも分かるように、言語を他の言語にすることは、どんなにその言語に通じていても難しい。背景知識がないとかなり困難な作業だということが分かる。これは母語でも言えることで、自分に関わりのない背景知識がないことは、読むのが困難だ。こういったことを理解していない人があまりにも多い気がする。
何にせよ、色々と共感できる面白いエッセイ集だった。
博士の本棚 エッセイ⑤ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
おそらく色々な雑誌や新聞などに書いた書評などを集めた作品集なのだと思う。内容はすごく良いし共感できるものがありすぎるのだが、どういう媒体に書いたのかという「初出(?)」情報みたいなものが一切ないので、そこが非常に残念だった。
初めに批判めいたことを書いてしまったが内容は素晴らしい。最後の方はまるで彼女と対話しているかのような感覚に陥ってしまった。彼女が心の底から「本」というものを愛しており、「物語」を書くことが好きなんだろうなあと随所から伝わってきた。
p.38
「もしかしたら、作家が自分で作り上げたと思い込んでいる虚構は、既にどこか、自分のすぐそばの現実の中にあったのではないか。作家はただそれを見つけ出し、言葉を与えたに過ぎないのではないか。」
若干ニュアンスは違うが、ボルヘスも同じようなことを言っていた気がする。
p.56
「誰かが見出し、言葉を与えなければ忘れ去られてしまう、日常の中のささやかな奇跡を、エリザベス・ギルバートは救い出した。本の数ページの中でそれをやってのけた。~(中略)~作家は奇跡をでっち上げるのではなく、見つけ出すのが仕事なのだ、と思う。」
これも上記と同じようなことが言いたいのであろう。そして小川洋子さんの作品は日常のささやかな奇跡を救い出し見出し形にしている作品だと思う。
p.115
「人間が物語を作りはじめた最初のきっかけは、理論的に説明できない問題への恐怖心を、和らげるためではなかったのだろうか。この世界はどうやって誕生したのか、自分がなぜ今ここにいるのか、死んだらどこへ行くのか・・・・・・。こうした答えの出ない疑問をくり返しぶつけてくる自我に対し、人々は神話を編み出し、天国へのイメージをふくらませ、輪廻転生のお伽話を伝承していった。非論理的なフィクションの中に、真実を見出そうとしたのだ。
直面する現実が残酷で耐えがたいものであればある程、人はフィクション、物語を必要とする。例えば愛する人が死んだ時、心臓と呼吸が停止し、不可逆的に細胞が死滅し、筋肉の蛋白質は原子に分解され・・・・・・などという説明は意味をなさない。悲しみを少しでも和らげるのは、天から舞い降りた天使がなきがらを運ぶイメージであり、あるいは、時間のうねりに乗って魂が次の世で再生する物語である。」
最近、文学が国語教育から取り除かれようとしている。「論理国語」なるものが登場し、物語のない、取り扱い説明書のようなものをひたすら読まされるものになろうとしている。そもそも教育とはなんなのか。人が人としてよりよく生きていくために、行われるべきものではないのだろうか。人が悲しみに打ちひしがれたとき、困難に出くわしたとき、どうやって乗り越えていけば良いのか、そういったことを文学作品を読みながら皆で考えた経験こそがこうしたことを乗り越える一助になるのではないだろうか。産業・経済界の論理を教育に入れたことにより、ますます人間としての生きることを困難にする人間を作り出しているのではないだろうか。
p.169
「乗り物に弱いせいで、旅行はあまり好きではない。不得意、といった方が適切だろうか。たとえ一泊でも、どんな近い場所でも、乗り物で移動するというだけで緊張してしまう。その日に向け、体調を整えることが一番の重要な課題となる。」
これもこうした感情をもったことがない人にはけっしてわからない感情だと思う。私も小さい頃からずっと乗り物に乗っていく泊まり行事が嫌いで今も変わらない。教師として仕事をしていて一番嫌なのはこの行事だ。
p.181
「物事が細分化されてゆく時、私は何とも言えず気持ちが和らぐ。世界が好ましい方向へ推移しているのを感じる。
逆に、グローバル化、市町村合併、敵対的買収、大型商業施設進出等など、となってくると途端に元気がなくなる。私の出る幕ではないという気がする。
~中略~
しかし細分化は、時に複雑さを伴っている場合があり、困った事態を引き起こす。例えば昔は、汽車に乗るとなれば、駅で切符を買うより方法はなかった。ポツポツと穴のあいた丸いガラス窓に向かい、「〇〇まで片道子供一枚」と言い、財布からお金を取り出す。それがすべてで、なんの不都合もなかった。
ところが細分化の進んだ今はどうだろうか。エクスプレス予約に早割り、特割り、トクトク切符、ぐるりんバスにおでかけパス、イコカにパスモ。そのうえ丸窓の向こうにいるはずの駅員さんは少なくなる一方で、タッチパネルの自動券売機ばかりが目立っている。子供の頃はお利口に切符が買えたのに、大人になればなるほどおばかさんになって、自動券売機にピーピー叱られている。」
この後もテレビの話などが続くのだが、かなり共感できる話だ。シンプルに分業すれば良いものを一つの小さいものの中にすべて詰め込もうとするあまり、逆に何もできなくなる。ある会社が少しでもシステム障害を起こすと三分の一の市民が生活できなくなる。我々は今後どういう社会で生きていきたいのか。本気で考えるべきなのではないだろうか。
p.225
「タクシーの運転手さんや店員さんに、理不尽に冷たくあしらわれると、必要以上に傷ついてしまう。その場限りの付き合いでたぶんもう二度と会うこともないはずなのに、腹立たしく悲しい気分にいつまでもとらわれるのは、ただ単に私が意気地なしだからなのだろうか。
~中略~
しかしよく考えてみれば、ささいな一言でこちらがどんな感情に陥っているか、相手はたいして気にしていないに違いない。それほど言葉とは、便利で無防備で危険な道具だ。自分だって無意識のうちに、誰かを傷つけているはずなのだ。」
この感情に私も常に苦しんでいる。相手はそれほど何も思っていないのかもしれないが、色々な表情や仕草から必要以上に多くの情報を感じ取ってしまうのだ。こうしたこともわからない人にはわからないのであろう。そして自分が誰かを傷つけているということにも常に自覚的である必要があることを改めて思った。
p.257
「エッセーであれ写真であれ、わたしが心ひかれるのは、そこに”物語”を発見する瞬間なのである。」
私も同じだ。取り扱い説明書のたぐいは文字として全く入ってこない。内容が全く体に入ってこないのだ。妻にはよく、「あれだけ本を読むのに、なんでこういう単純なものが読めないの?」と言われるのだが、「物語」がないと全く頭に入ってこない。無味乾燥なものを読む気がしないし読めないのだ。今の時代に中高生だったら国語の成績はかなり悪かっただろうなあと思う。
p.290
「自分が存在している世界のずれ。小説という虚構と、子供と共生してゆく現実の関わり。正常と異常、現実と虚構。ここにさまざまな境界線が見えてきた。
境界線を意識的に踏み越え、あるいはその上に留まり、現実を異化してゆく試みから、わたしの小説はスタートした。」
確かに彼女の作品は、作品に同化することを拒む。だから小川洋子の作品は大好きなのだが、読むのがしんどい。疲れた時にすっと読める類のものではない。それはきっとこの「異化」効果をある程度意識的に行っているからなのだろうと思う。「異化」することによって読者は「思考」することを強いられる。だからこそ面白いのだと思う。
p.331
「あるいは電車の中で、文庫本を読んでいる人を見掛ける。その人は高校生かもしれないし。勤め帰りのサラリーマンかもしれない。老人かもしれない。ふと目に入ったタイトルが、自分にとって大事な思い出のあるものだとしたら、私はきっと一瞬のうちに、その人に親しみの情を持つだろう。」
とても共感できる一節だった。
とっても面白く共感できるものが多い作品だった。
小川洋子対話集 エッセイ④ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
1. 田辺聖子
2. 岸本佐和子
3. 李 昂 + 藤井省三
4. ジャックリーヌ・ファン・マールセン
5. レベッカ・ブラウン + 柴田元幸
6. 佐野元春
7. 江夏豊
8. 清水哲夫
9. 五木寛之
再読
1.田辺聖子さんの作品は浪人時代かなりお世話になった。「落窪物語」「枕草子」「源氏物語」など古典の名作を分かりやすい形で現代語訳で出してくれていたからだ。しかし彼女の小説時代はあまり興味がなく今まで一度も読んだことがない。小川洋子さんとの対談を読んでちょっと興味がそそられるかとも思ったが、初めて読んだとき同様、ほとんど興味がわかなかった。何故だろう・・・。瀬戸内寂聴同様、有名で古典文学も訳したりしているのだが、何故か読む気がしない・・・。
p.41
小川「結局、小説というのは、ストーリーとか役に立つ教えとか、論理とかじゃなくて、ほんとうに些細な、小さなことの積み重ねで支えられているものだなというふうに思います。」
2. この本の白眉。小川洋子さんと、岸本佐和子さんの控えめながら芯のある生き方が二人の対談から伝わってきて、二人とも自分とかなり近い性質を持っているのがわかりとても楽しく読めた。
p.69
小川「小学校六年生くらいからかな? 極端な心配性に陥っちゃって、それは今でも続いているんです。ですからね、岸本さんの本の中で「私はつねに何かを心配している」っていう一言が、「あ、自分と同じ」だって思えてうれしかった。たとえば、明日、岸本佐和子さんと対談するとなったら、そこに怒り得る最悪の事態を想像するの、全部。」
p.71
岸本「私もそうですが、私の一大イベントって、郵便局に行くとかなんですけど。」
小川「私もそうですよ!あ~今日は銀行で家賃を振り込んだ!うーん、やれやれみたいな感じですよ。」
「私もそうですよ!」と読みながら心の中で叫んでしまった。こういう感覚って元気に生きている人には通用しないんだろうなと思う。
P.78
小川「「私、これ書きたい!」っていうような図々しさはなくて、「いや、私、ちょっと書けないんですけど・・・・・・」って。そこが岸本さんの味わい深さ。」
彼女のエッセイを読んでみたくなった。
3は、台湾文学作家とその翻訳家との対談。台湾人が否応なく感じなければならない政治性みたいなものが分かった。
4は、アンネ・フランクの友人との対話。普通だった。
5は、かなり面白かった。レベッカ・ブラウンも小川洋子もお互いの作品に敬意を表しており、二人とも日常生活の中の若干の違和感のようなものにスポットを当てているあたりがとても良かった。
6は、前回読んだときはあまり興味深くなかったのだが、『アンジェリーナ』という佐野元春の曲を元にした短編集を読み、さらに彼の曲はある程度聴いてから読むとそれなりに楽しめた。結構色々なことにこだわって音楽を制作し、生きている人なんだなあと思った。
7は、非常に面白かった。江夏ってもっと偉そうな感じなのかと思っていたけれど、人柄の良さ、温かさ、柔らかさが対談で伝わってきた。そして当然だが、かなりクレバーな人であり、人情を大切にする心の温かい人なの分かった。
8は、江夏との対談の後に読むと面白い。うまい構成をしているなあ、と思う。『博士の愛した数式』を軸に、色々な話をしている。
9は若干異質。乾いた現代社会のなかで自殺が多いことの危惧から始まり、宗教性の乏しさなど、様々な話が展開される。この対談集の中では一番読みごたえがあった。
p.237
五木「自分の命が軽いということは、取りも直さず、まわりの人たちの命も軽く感じられるということなんじゃないかと。」
小川「ええ、だから他人の命を簡単に奪うような犯罪も増えているのですね。そういう犯罪の報道を見ていますと、想像力を働かせる心の潤いが決定的に欠如しているように思われます。いま自分がここでこういうことをしたら、次にどうなって、その次はどうなる―という。」
五木「そう、物語性が完全に失われてしまっている。」
小川「そうなんです。ものごとの表面だけにとらわれて、深いところにある心理にまでたどり着けないんですね。言い換えれば、言葉の届かない、自己の深層世界と対話するだけの精神的しなやかさがないんです。そのとき、目に見えるものだけにしか視点が定まっていない。」
15年以上前の対談なのだろうが、この状況は一層ひどくなっていると思う。物語性や深さといったものが尊重される世の中になって欲しいとこの対談を読み思った。
深き心の底より エッセイ③ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
作家デビューから約10年間のエッセイをまとめたものらしい。
大きく章立てされており
1.心の核を育てる
2.言葉の力に導かれて
3.死は生の隣にある
4.家族という不思議
5.旅の記憶は感性の預金
6.神の存在を感じるとき
2や3は彼女の作品と向き合う姿勢などが書かれており、4では彼女が飼うことになったラブラドール犬のことがユーモアたっぷりに書かれている。6は短く5つのエッセイしかないのでが、彼女が親しみ育った金光教のことが書かれており、神と人間の関係を生み出していく宗教である、というのは面白かった。宗教の本質を捉えたような教えで、他教を排除することもなく心穏やかに暮らせそうな宗教で確かに良い教えだと思った。
p.26
「その文学全集はとにかく重かった。確か表紙がオレンジっぽい色をしていた。寝転がると子供では支えきれず、右側のページを読むときは頭の左を下にし、左側のページを読むときは右をしたにして、一ページずつ値刈りを打たなければならなかった。」
これはすごくわかる。私は重くない本でも寝転がって読むときはよくやっている。
p.37.
「ギリギリの場所に立たなければ見えてこない美しさというものが、この世には必ずある。」
これも非常に良い言葉で、多くの卒業生や色々な人と接していると、ギリギリの場所に立ったことのある人とない人では、うまく言葉では表現できないのだが、持っているものが違う。なんとなく浅いなあと感じられる人というのは、やはりなんとなくレールに乗って生きてきただけの人が多い。
p.67
「読まなければ本はただの本にすぎないのだが、そこに書き付けられた言葉たちを一度でも味わったあとには、それは精神の一部になる。」
これも良い言葉で、良い本だなあと感じた本を、もう二度と読まないだろうと分かっていても手放せないのはこの感覚があるからなのではないだろうか。
p.132
「日本では1940年代にペニシリンが使われたのが抗生物質の始まりだが、すぐに耐性菌が現れ、それ以来ずっと耐性菌対抗生物質の戦いが続いているらしい。この戦いが長く続けば続くほど、菌の力は強くなっていくのではないか。薬の開発の方がいつかは追いつかなくなるのではないか、と心配になってくるのだ。」
これはいまのコロナ狂騒にも当てはまる。ワクチン、マスク、過度の殺菌、すべてがコロナが収束しない状況を作り出しているのではないだろうか。
p.245
「特別なハレの日を好まない性質は今も引き継がれていて、歳を重ねるごとにその傾向が強まっている。」
p.246
「お正月だからといってなぜ換気扇の油を落としたり、お風呂場のタイルを磨いたり、窓をふいたりしなければならないのか。」
「私のとっての理想のお正月とは、訪ねてくる人もなく、つまり掃除をする必要がなく、最新の製造年月日のものを食べられ、文句を言う夫も、うるさく騒ぐ子供もおらず、朝から晩まで好きなだけ小説を書くことができる・・・・・・そういう一日なのだ。」
最後の小説を「書く」を「読む」に変えればまさに私の言いたいことと一緒だ。
この感覚が私が小川洋子さんの作品が好きな理由なのだろうと思う。
私が約10年前、小川洋子さんの『猫を抱いて象と泳ぐ』を学校新聞で紹介した際の文章を載せておきたい。
「私はハレの世界が嫌いだ(晴れた日が嫌いなわけではない)。ビッグ・イベントが嫌いなのだ。多くの人間が楽しんでいるから、当然皆が楽しむべきだ、という考え方に腹が立つ。ケ(褻)の世界で静かに生きていたのだ。ハレの世界に参与しない人間を許さないこの社会で、「それでも良いんだよ」と優しく囁いてくれる小説。全編に流れる静謐な空気感。是非この冬、読んでもらいたい作品である。」
アンネ・フランクの記憶 エッセイ② [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
小川洋子さんが、敬愛してやまないアンネ・フランクの足跡を実際に現地に行って辿った旅をまとめた本。
成田空港から出発するところから始まり、アムステルダムで泊まったホテルの様子、アンネの親友ジャクリーヌさんとの対話、アンネの隠れ家生活を献身的に支えたミープ・ヒースさんとの対話、アンネの隠れ家の様子、フランクフルトのアンネの生家への旅の様子、ポーランドへの苦しい旅の様子、アウシュビッツの息の詰まるような様子、最後にウィーンで出会ったふたりのユダヤ人との対話、などなど結構濃い内容となっている。最後の『アンネの日記』の訳者、深町眞理子さんの解説も結構良い。
小川洋子さんのアンネへの愛情がたっぷり詰め込まれており、彼女が『アンネの日記』を読み込んでいたこともよくわかる内容となっている。
p133
「どんな時代にあっても、人間として当然なことを、ちゃんと見抜けるかどうか、それが問題なのだ」
本当にその通りだと思う。
『アンネの日記』、小川洋子、両者のファンの私としてはかなり楽しめる内容だったが、普通の人が読んだらどうなのかな、と少し思った。
妖精が舞い下りる夜 エッセイ① [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
小川洋子さんの初期エッセイ集。
自分の小説に対する向き合い方、仕事と子供のこと、阪神タイガースのことなどが、語られている。
p.25
「過去に誰かが初めて主婦作家という言葉を作り出した時には、責任に裏打ちされた判断があったと思う。ところが、新しい言葉は地位を固めてゆくうちに、段々便利な鋳型に変身してしまう。鋳型にポンと放り込んでしまえば、中身はなくても格好だけは、ひとまず整うのだ。」
これは言葉に限らずどんなことにも言えると思う。初めて何かを編み出した人は責任を持ってそのことを動かしている。しかしそれが続くとどうしても無責任に形だけが独り歩きし、それをありがたがったりするようにもなる。すごく共感した一節だ。
p.40
「読み終わった時、読者がうまく現実に戻ってこれなくて立往生してしまうような小説、自分のいる場所があいまいに揺らいでしまうような小説、をかきたいと願っている。」
この一節を読み、だから私は小川洋子という作家が好きなのだなあと思った。
p.45
「飾りに惑わされないで、人間の本当の姿を浮き上がらせる作品を書きたいと思う。」
彼女の作品は、飾りに惑わされない素晴らしい小説だと思う。
p.50
「わたしがたまらなく小説を書きたくなった瞬間は、初めて我が子の産声を聞いた時だ。人間はこんなにも哀しい声で泣けるものなのか、と驚いてしまった。人間が生まれる時から既に抱えている哀しみの結晶を、言葉にできたらと思った。」
pp.106~107
「何といっても、産声が印象的だった。赤ん坊が生まれてすぐ泣くのは、これから出会うであろう様々な困難を哀しむからだ、という話を聞いたことがある。」
私は生まれた時から、人間は苦難や、哀しみの連続だと想っている。それをこのように言葉で表現できることが素晴らしいと思った。
p.122
「男女のセックスというのは、自然で、本能的で、ありふれていて、誰にでも一応の理解はできる。だからこそ、道徳の手垢にまみれてもいる。ある男女が、できているかできていないか、肉体関係のあるなしで判断したりする。そんなふうにセックスが道徳的価値基準の物差しに使われたりすると、物書きとしてはつまらなくてうんざりしてしまう。そこで、男や女、肉体や生殖、本能や道徳に惑わされない、もっとデリケートな人間の関係を探ってみたいという気持ちから、小説を書いている。」
これを読んだ時も非常に共感した。中学・高校時代、周りがセックスの話題で盛り上がっているのが、彼女とセックスしたかどうかでいろいろなことが語られることに非常に違和感があった。それは大人になった今でも続いている。そんな自分のずっと抱いていた違和感を言葉にしてもらった感じだった。
p.217
「子供の頃から、旅行というといつも、必要以上に緊張していた。遠足や修学旅行の前、~眠れない。
バスに酔わないだろうか、お弁当は誰と一緒に食べてくれるだろうか、おこづかいをおとしちゃったらどうしよう・・・・・・。などと、つまらないことばかり心配していた。」
これも、敏感でない人には決してわからない感覚だろう。
短いエッセイを集めたものなのだが、何となく救われた気がした。ますます小川洋子という作家を好きになった。