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犬のしっぽを撫でながら エッセイ⑥ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]


犬のしっぽを撫でながら (集英社文庫)

犬のしっぽを撫でながら (集英社文庫)

  • 作者: 小川 洋子
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/01/20
  • メディア: 文庫



小川洋子さんのエッセイ集を、今年かなり読んでいる。結構同じような描写があったりするのだが、読むたびに自分と似た感覚を持っているなあと思い共感しながら読んでしまう。

p.32
「私はストーリーが書きたいわけではありません。私が書きたいのは人間であり、その人間が生きている場所であり、人と人との間に通い合う感情なのです。」

これは彼女の小説を読んでいるととても分かる。派手な事件が起こるわけでもないし、わかりやすい話の流れでもないので、読むのにかなり時間を要するし神経を集中させなければいけないのだが、だからこそ読み終わった後の感動は大きいのだと思う。


p.65
「一人仕事部屋でワープロに向かっていると、親密な空気が流れるのを感じる。~(中略)~ 世界とつながっているパソコンよりも、ただ文字を変換しているだけのワープロの方が、ずっと優しい視線を向けてくれている。」

世間では、SNSによってかつてであれば繋がることが出来なかった人ともつながることが出来るようになり、世界が広がったなどと言われるが、つながらなくても生きていたのであればそれで良いのではないかと思う。私は携帯をインターネットにつなげていない。無意味につながりを広げるよりも、今まで生で繋がっていた人とのつながりを大事にしたい。


p.81
「私は小説が好きなのだ。同じように小説を愛する人々と触れ合い、「本当に、小説っていいよね」と言いたいのだ。
 すばらしい本を読んだ時、だれかに伝えたいと思う。他者に語ることで感動をさらに確かなものにしようとする。そういうだれかと出会える場が、身近に一つでも多くあるような社会こそ、文化的に豊かだと言える気がする。」

すごくすごく共感した。私も多々単純に小説が好きで、誰かと共有したいと常に思う。そして共有できる場所がたくさんあることこそが文化的に豊かだと思う。


p.167
「プロ野球選手としてグラウンドに立てるのは、特別に選ばれたほんの一握りの人にすぎない。特別に選ばれたことを鼻にかけるのではなく、感謝の心でプレーするのが、本物の一流選手だ。」
p170
「誕生日の金本選手は、試合の後、バッティングピッチャーの方たちと食事会をするらしい。そう、一流選手が持つ謙虚さ、感謝の気持ちとは、つまりこういうことなのだ。一流であるかどうかの技術を根底で支えるのは、やはりその人の人間性なのだ。」

これはプロ野球に限ったことではない。常に感謝の気持ちを忘れず謙虚に生きていたいと思う。


p.209
「本を読んでいる人を眺めるのが好きだ。~(中略)~本を手にした人を見かけると、必ず視線を送る。」
私もそうだ。電車の中で本を読んでいる人を見ると、何となく親近感を感じ、同志のように感じてしまう。


p.220
「職員食堂でお昼を一緒に食べているとき、『ライ麦畑でつかまえて』をどう思うか聞かれ、「ああ、あの、大人に反抗する向こう見ずな少年の話ね」と答えた私に、勢い込んで反論した彼女の表情が今も忘れられない。
 「違う、それはホールデン少年が一番嫌ったタイプの大人たちが、勝手につけたレッテルでしかない。
 ~(中略)~
 彼女の言い分は、ホールデンは社会には向かい傷つく、純真な少年の象徴などではなく、十六歳にして既に老成してしまった特異な感受性の持ち主であり、大人よりももっと大人なのである。彼が対峙したものは、外の世界にあったのではない。彼自身に内側にあったのだ。」

私もそう思う。世間一般で言われているこの作品の論評は間違っていると思う。


p.227
「人間の手が作り出すものは偉大です。」

彼女が習っていた手芸教室の先生の言葉らしい。


p.228
「天気のこととか、テレビニュースのこととか、しなくてもいい雑談をするのが私はとても苦手なのだ。」

私もとても苦手だ。きっと物語を心の底から愛する人は同じような感じなのではないかとこの文章を読み思ってしまった。


p.244
「時々、自信満々の人、に出会う。
 自分ことを堂々と自慢し、それが自慢だと気付きもせず、批判されると、ひるむことなく三倍の批判をお返しする。取り越し苦労、いじけ虫、自己嫌悪、後悔、絶望、くよくよ、びくびく、などという言葉とは無縁。他人が自分をどう思うかより、自分が何を表明するかの方が大事。頭の中に常に完全なる自分の姿を思い描き、過去は振り返らず、輝ける未来に生きている・・・・・・。」

私もこのような同僚が二人いる。本当に素晴らしいなあと思う。


p253
解説をデビット・ゾペティというフランス人が書いているのだが、その話が面白い。
小川洋子作品をフランス語に訳しているローズ・マリーさんは、かなり色々なことを知っているのだが、野球のことは無知だったらしく、『博士の愛した数式』を訳す際、全く訳の分からない日本語になってしまっていたらしい。これからも分かるように、言語を他の言語にすることは、どんなにその言語に通じていても難しい。背景知識がないとかなり困難な作業だということが分かる。これは母語でも言えることで、自分に関わりのない背景知識がないことは、読むのが困難だ。こういったことを理解していない人があまりにも多い気がする。


何にせよ、色々と共感できる面白いエッセイ集だった。

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