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博士の本棚 エッセイ⑤ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]


博士の本棚 (新潮文庫)

博士の本棚 (新潮文庫)

  • 作者: 洋子, 小川
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/12/24
  • メディア: 文庫



おそらく色々な雑誌や新聞などに書いた書評などを集めた作品集なのだと思う。内容はすごく良いし共感できるものがありすぎるのだが、どういう媒体に書いたのかという「初出(?)」情報みたいなものが一切ないので、そこが非常に残念だった。

初めに批判めいたことを書いてしまったが内容は素晴らしい。最後の方はまるで彼女と対話しているかのような感覚に陥ってしまった。彼女が心の底から「本」というものを愛しており、「物語」を書くことが好きなんだろうなあと随所から伝わってきた。

p.38
「もしかしたら、作家が自分で作り上げたと思い込んでいる虚構は、既にどこか、自分のすぐそばの現実の中にあったのではないか。作家はただそれを見つけ出し、言葉を与えたに過ぎないのではないか。」

若干ニュアンスは違うが、ボルヘスも同じようなことを言っていた気がする。


p.56
「誰かが見出し、言葉を与えなければ忘れ去られてしまう、日常の中のささやかな奇跡を、エリザベス・ギルバートは救い出した。本の数ページの中でそれをやってのけた。~(中略)~作家は奇跡をでっち上げるのではなく、見つけ出すのが仕事なのだ、と思う。」

これも上記と同じようなことが言いたいのであろう。そして小川洋子さんの作品は日常のささやかな奇跡を救い出し見出し形にしている作品だと思う。


p.115
「人間が物語を作りはじめた最初のきっかけは、理論的に説明できない問題への恐怖心を、和らげるためではなかったのだろうか。この世界はどうやって誕生したのか、自分がなぜ今ここにいるのか、死んだらどこへ行くのか・・・・・・。こうした答えの出ない疑問をくり返しぶつけてくる自我に対し、人々は神話を編み出し、天国へのイメージをふくらませ、輪廻転生のお伽話を伝承していった。非論理的なフィクションの中に、真実を見出そうとしたのだ。
 直面する現実が残酷で耐えがたいものであればある程、人はフィクション、物語を必要とする。例えば愛する人が死んだ時、心臓と呼吸が停止し、不可逆的に細胞が死滅し、筋肉の蛋白質は原子に分解され・・・・・・などという説明は意味をなさない。悲しみを少しでも和らげるのは、天から舞い降りた天使がなきがらを運ぶイメージであり、あるいは、時間のうねりに乗って魂が次の世で再生する物語である。」

最近、文学が国語教育から取り除かれようとしている。「論理国語」なるものが登場し、物語のない、取り扱い説明書のようなものをひたすら読まされるものになろうとしている。そもそも教育とはなんなのか。人が人としてよりよく生きていくために、行われるべきものではないのだろうか。人が悲しみに打ちひしがれたとき、困難に出くわしたとき、どうやって乗り越えていけば良いのか、そういったことを文学作品を読みながら皆で考えた経験こそがこうしたことを乗り越える一助になるのではないだろうか。産業・経済界の論理を教育に入れたことにより、ますます人間としての生きることを困難にする人間を作り出しているのではないだろうか。


p.169
「乗り物に弱いせいで、旅行はあまり好きではない。不得意、といった方が適切だろうか。たとえ一泊でも、どんな近い場所でも、乗り物で移動するというだけで緊張してしまう。その日に向け、体調を整えることが一番の重要な課題となる。」

これもこうした感情をもったことがない人にはけっしてわからない感情だと思う。私も小さい頃からずっと乗り物に乗っていく泊まり行事が嫌いで今も変わらない。教師として仕事をしていて一番嫌なのはこの行事だ。


p.181
「物事が細分化されてゆく時、私は何とも言えず気持ちが和らぐ。世界が好ましい方向へ推移しているのを感じる。
 逆に、グローバル化、市町村合併、敵対的買収、大型商業施設進出等など、となってくると途端に元気がなくなる。私の出る幕ではないという気がする。
 ~中略~
 しかし細分化は、時に複雑さを伴っている場合があり、困った事態を引き起こす。例えば昔は、汽車に乗るとなれば、駅で切符を買うより方法はなかった。ポツポツと穴のあいた丸いガラス窓に向かい、「〇〇まで片道子供一枚」と言い、財布からお金を取り出す。それがすべてで、なんの不都合もなかった。
 ところが細分化の進んだ今はどうだろうか。エクスプレス予約に早割り、特割り、トクトク切符、ぐるりんバスにおでかけパス、イコカにパスモ。そのうえ丸窓の向こうにいるはずの駅員さんは少なくなる一方で、タッチパネルの自動券売機ばかりが目立っている。子供の頃はお利口に切符が買えたのに、大人になればなるほどおばかさんになって、自動券売機にピーピー叱られている。」

この後もテレビの話などが続くのだが、かなり共感できる話だ。シンプルに分業すれば良いものを一つの小さいものの中にすべて詰め込もうとするあまり、逆に何もできなくなる。ある会社が少しでもシステム障害を起こすと三分の一の市民が生活できなくなる。我々は今後どういう社会で生きていきたいのか。本気で考えるべきなのではないだろうか。


p.225
「タクシーの運転手さんや店員さんに、理不尽に冷たくあしらわれると、必要以上に傷ついてしまう。その場限りの付き合いでたぶんもう二度と会うこともないはずなのに、腹立たしく悲しい気分にいつまでもとらわれるのは、ただ単に私が意気地なしだからなのだろうか。
 ~中略~
 しかしよく考えてみれば、ささいな一言でこちらがどんな感情に陥っているか、相手はたいして気にしていないに違いない。それほど言葉とは、便利で無防備で危険な道具だ。自分だって無意識のうちに、誰かを傷つけているはずなのだ。」

この感情に私も常に苦しんでいる。相手はそれほど何も思っていないのかもしれないが、色々な表情や仕草から必要以上に多くの情報を感じ取ってしまうのだ。こうしたこともわからない人にはわからないのであろう。そして自分が誰かを傷つけているということにも常に自覚的である必要があることを改めて思った。


p.257
「エッセーであれ写真であれ、わたしが心ひかれるのは、そこに”物語”を発見する瞬間なのである。」

私も同じだ。取り扱い説明書のたぐいは文字として全く入ってこない。内容が全く体に入ってこないのだ。妻にはよく、「あれだけ本を読むのに、なんでこういう単純なものが読めないの?」と言われるのだが、「物語」がないと全く頭に入ってこない。無味乾燥なものを読む気がしないし読めないのだ。今の時代に中高生だったら国語の成績はかなり悪かっただろうなあと思う。


p.290
「自分が存在している世界のずれ。小説という虚構と、子供と共生してゆく現実の関わり。正常と異常、現実と虚構。ここにさまざまな境界線が見えてきた。
 境界線を意識的に踏み越え、あるいはその上に留まり、現実を異化してゆく試みから、わたしの小説はスタートした。」

確かに彼女の作品は、作品に同化することを拒む。だから小川洋子の作品は大好きなのだが、読むのがしんどい。疲れた時にすっと読める類のものではない。それはきっとこの「異化」効果をある程度意識的に行っているからなのだろうと思う。「異化」することによって読者は「思考」することを強いられる。だからこそ面白いのだと思う。


p.331
「あるいは電車の中で、文庫本を読んでいる人を見掛ける。その人は高校生かもしれないし。勤め帰りのサラリーマンかもしれない。老人かもしれない。ふと目に入ったタイトルが、自分にとって大事な思い出のあるものだとしたら、私はきっと一瞬のうちに、その人に親しみの情を持つだろう。」

とても共感できる一節だった。


とっても面白く共感できるものが多い作品だった。
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