カラーひよことコーヒー豆 エッセイ⑦ [文学 日本 小川洋子 エッセイ]
いつも同じことを書いている気がするが、彼女のエッセイを読むと共感することばかりで、何故自分が彼女の小説が好きなのかがよくわかる。
p.9
「昔、私はインドとドイツの区別がつかなかった。
~中略~
台風が近づくとよく発令されるハロー注意報には元気づけられた。」
若干違うのかもしれないが、私はロンドンとイギリスの関係性がわからなかった。パリとロンドンの区別がつかなかった。そうしたことに対し父親と兄は、「それはやばい」みたいなことを言っていたが、じぶんの常識の中で相手を裁断していたに過ぎない。はっきり言って彼らが知らないことを私はその当時たくさん知っていた。ただ単に自分と興味関心がある世界が違うだけなのだ。そうしたことを考えず自分の世界・知っているもののみが正しく、それを知らない人は非常識だと思う人は可愛そうだと思う。
私は、昔「台風一過」というのを「台風一家」だと思っていて、何故台風が一家でやってくるのに晴れるのだろうと思っていた。
などということをこのエッセイを読みながら考えていた。
p.50
「キーボードのボタン一つでパッと出会えた仲間より、孤立感に涙する時間や、効率の悪い作業や、神様の気紛れとしか思えない偶然の果てに巡り合った仲間の方が味わい深いのでは、と考えるのは時代遅れな人間のノスタルジーだろうか。」
私もそう思ってしまう。きっとノスタルジーなのだろうが、やはりそちらのほうが深い関係性な気がしてしまうのだ。
p.57
「どんな才能も、自ら売り込んでいる間は本物ではない。神様の計らいは常に、本人に気づかれないようこっそり施される。」
私の周りにも自分の才能(才能と言えるほどたいしたものではないことが多いが)売り込んでいる人が沢山おり、そう言う人は平気で人の批判をする。神様の計らいがないから自分で売り込むしかないのかもしれないが・・・・・・。
p.69
「基本的に私は、何に対しても自信の持てない性格である。
~中略~
気安い友達と楽しく食事をしたあとでも、「あんなこと言わなければよかった。気を悪くしたんじゃないだろうか。どうして私はいつもこうなんだろう」と、あれこれ後悔の念にとらわれる。」
こうした内容のことがいつも彼女のエッセイには書かれている。きっと常に思っており、歳をとり、どんなに有名になってもこうした気持ちを忘れないからこそ、あれだけ素晴らしい小説を書き続けられるのだろうと思う。
p.107
「個性とは、小手先でどうにか細工をしようと思ってもできない種類のものだ。当然、他の誰かと比べることもできない。だからこそその人にとっても宝物となり得る。
一流のフィギュアスケートの選手たちを見ていると、技術の習得よりも、個性の表現に苦闘の原点があるように思える。持って生まれたものがごく自然にあふれ出てくるのではなく、努力の果てにようやく結実した一粒の結晶こそが、本物の個性なのだと彼らは教えてくれる。」
努力して始めて見えるものがあり、溢れてくるものがある。それこそが本物の個性なのだと思う。最近は、教育において努力をするということをあまりに軽視している気がする。それでは本物の個性が出ない気がする。
相変わらず優しさあふれる良いエッセイだった。
2022-08-14 07:06
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