SSブログ

善悪の彼岸 道徳の系譜 [哲学 ニーチェ]


ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈11〉善悪の彼岸 道徳の系譜 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: フリードリッヒ ニーチェ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1993/08
  • メディア: 文庫



ニーチェの『善悪の彼岸 道徳の系譜』を読み終わった。普通の文庫本2冊分なのでかなり時間がかかった。
内容は『人間的、あまりに人間的』『曙光』などとほとんど変わらず、キリスト教批判、真理批判となっている。『道徳の系譜』の方は、今までのアフォリズム形式と違い、論文形式になっているので、論旨を追いやすい。どのように現在の道徳が作られてきたかということが論じられておりそれなりに興味深い。
いかに印象的なフレーズを挙げておきたい。

『善悪の彼岸』
●〈誠実〉とは何かという問題について、おそらくいまだなんぴとも十分に誠実であったことがない。
⇒私が常に言っていることと完全に一致している。「誠実に~」とか曰わっている人間ほど誠実でない人間はいない。
●真の哲学者は、命令者であり立法者である。
⇒今までの伝統や慣例、型をあるがままに受け入れず、自分で考え行動するべきだということだろう。これも常日頃から私が考えるところと一致している。
●この過程(近代的理念)は、~中略~概して人間の均等化と凡庸化が作り出され―有用で、勤勉で、いろいろと役に立つ器用な蓄群的人間が生まれてきている~
⇒まさに今の日本の状況だ。ものを考えられない凡庸な人間、蓄群がうようよしている。そのことに気がつかないから更に悲劇だ。いや気づかないからこそ蓄群なのだろうが。
●生こそは権力への意思
⇒これはこのあとのニーチェの思想につながっていくんだろうと思うが、先ほどの真の哲学者は、命令者であり立法者であると同じことなのだと思う。
●もっとも偉大な出来事ともっとも偉大な思想は、もっともおそく理解される。
⇒現状に対して否を突きつける人間はその社会からは嫌われる。しかし、メタレベルで見ればそれがいいはずなのだ。なぜなら、変えていこうという意思のないものほどくだらないものはないからだ。

『道徳の系譜』
●道徳における奴隷一揆はルサンチマンそのものが創造的となり価値を生み出すようになったときにはじめて起こる。
●貴族的人間は〈よい〉〈優良〉という基本概念をまずもって自発的に、すなわち自分自身から考えおこし、そこからしてはじめて〈わるい〉〈劣悪〉という観念を作り出すのだ。
⇒これはかの有名な「ルサンチマン」の説明なのだが、蓄郡は強者に対して恨み(ルサンチマン)を抱き、そのシステムを壊そうとしてキリスト教道徳を作り上げたが、この出発点はあくまでもルサンチマン(つまり相手に対する嫉妬感情)からなのだ。それに対して強者は自分で〈よい〈わるい〉の基準を作り上げて弱い者たちを〈劣悪〉と呼ぶ。そのほうが正しいあり方と言えるのではないだろうか、という提言だ。確かに完全に納得できるわけでもないがその通りだと思う。
●法律の制定があってはじめて〈法〉と〈不法〉というものが生じるのだ。
⇒本当にそのとおりだろう。つまりは伝統や慣習を作り上げ、それが法として定着し、現状に甘んじる人間ばかりになってしまうことに対する批判なのだ。

かつてある本で、ニーチェの思想がナチスのユダヤ人迫害の理論的バックボーンになったと読んだことがあったのだが、今まで読んだ中では一切そんなことはなかったのだが、『善悪の彼岸』の中で、諸民族の混淆を問題視する箇所が出てくることは出てくる。更に、蓄群は自分では何も考えられないので絶対的権力者を渇望するというエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を彷彿とさせる一節も出てくる。そういった意味で、あらゆる思想を当てはまることができてしまう、力強さと危うさがニーチェの思想にはあるのであろう。

かくいう私も、ニーチェが批判するキリスト教思想・プラトン思想にはかなり共感を持っているが、ニーチェの思想にも共感できるところが数多い。
しかし、ニーチェの本を読んでいて、ニーチェ思想は実はプラトン思想と同じことをいっているのではないかと
ずっと感じていた。

プラトンは、イデア界という真理世界を前提に、そこへ向かってひたすら努力し続けられる人間、批判精神を持ち続けられる人間こそが金の人間、哲学者であり、権力者になるべき人間であり、ほかは銀銅の人間なのだと言っている。
ニーチェは、真理などというものがあると想定するから軟弱な人間が生まれてしまうのだから、現状を常に批判的に見、自分自身で考え、道徳を自ら作り上げていける人間こそが超人であり、そうした人間は生を肯定し、権力への意思を持っているのであって、ほかの人間たちは蓄群だと言っている。

すごく単純化するとともに私が日本語訳の本から読み取ったところを述べただけなので、専門家やもっと詳しく彼らの思想をしる人たちにとっては違うというかもしれないが、私はそう読み取った。

結局現状を常に批判的に見て自分で考え行動していくべきというところは一致しているのではないだろうか。さらに、ニーチェが言う「真理などというものはない」というものもそれ自体が「真理などというものはないという真理」になっているのではないだろうか。だからこそ先に挙げた、「真の哲学者は~」というところで「真」という言葉を使わざるを得なくなってしまうのではないだろうか。まあ訳語の問題もあるので、ニーチェが実際どのような単語を使っているかはわからないが。

しかし私の抱えていたこの疑問はこの本の最後のところで解消された。
「無条件的に誠実な無神論は、見た目にはそう見えるほどあの理想と対立したものではない。むしろそれはあの理想の最後の発展段階の一つ、あの理想の論結形式かつ内面的帰結の一つにほかならない」
つまり、プラトン思想、キリスト教思想の先に、ニーチェの求める超人思想があるということなのだと思う。

まあ本当に難解なのでどこまでニーチェが言いたかったことを理解しているかはわからないが、久しぶりに深く考えながら本を読んだ気がする。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0