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国家の神話 [哲学書]


国家の神話 (講談社学術文庫)

国家の神話 (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2018/02/11
  • メディア: 文庫



大学時代、ゼミで、どういう文脈だったか今や覚えていないが、「カッシーラー」という名前が出てきて、興味を持ち、大学の生協で岩波文庫の『人間』という本を購入。かなり小難しい本なのかと思って読み始めたが、思っていたより読みやすく、その分厚さにもかかわらずあっという間に読んでしまった覚えがある。それ以来、彼の著作である『シンボル形式の哲学』と『認識問題』はずっと読みたいと思っているのだが、そのあまりの量に今まで読めずに来ている。

そんな中、昨年だが一昨年、宮田光雄ブームが自分の中でやってきて、そのとき彼が翻訳しているこの本がamazonのオススメで表示され興味が湧き購入。しばらく寝かせていたが遂に順番が巡ってきてこの度読んだ。昨年の12月に読んだ『ボンヘッファー』に続きかなりの名著だった。

この『国家の神話』は簡単に言ってしまえば、何故ドイツ人が、もっといえば、理性的であるはずの人間が「ナチス」に権力を掌握させてしまうような事態に陥ってしまったのかということを、「理性」と「神話」という観点から描いた作品である。

第一部で、「神話」とは何かということを定義し、
第二部で、「政治学史」において、代々の哲学者、著作家たちが、「理性」と「神話」をどう位置づけてきたか、もう少しいうと「形而上」と「形而下」をどのように考えてきたか、
第三部で、何故ナチス・ドイツが生まれてしまったか、その現代的源泉を、英雄崇拝者「カーライル」人種崇拝者「ゴビノー」、そして結果的に、歴史の中に英雄と優秀民族を位置づけた「ヘーゲル」、この三人を詳しく論じた後、最終的に現代のナチスを生んでしまった政治状況を論じている。

すごくわかりやすいのだが、まとめようとすると、非常に難しい。宮田光雄の解説でも、「全体としてみた場合、カッシーラーの神話にたいする態度は必ずしも明確ではない」(p.576)と述べている。一つ一つの言いたいことはとても明確なのだが、全体としての主張を読み解こうと思うとかなり難しい。これは、私の好きなテリー・イーグルトンなどにも言える傾向である。

印象的な言葉を拾いながら、すこしでもカッシーラーの論理を辿ってみたい。

第一部
pp12~13
「われわれの文化生活の現状を眺めてみると、ただちに、異なった二つの分野の間に深い間隙が存在していることに気付く。政治的行動ということになると、人は、あらゆる純理論的な活動で認められる法則とはまったく違った法則に従うかのように思われる。自然科学の問題や技術上の問題を解決するのに、政治的な諸問題の解決に際して推奨され、また使用されるような方法でやろうとは、何人も考えないであろう。前者の場合、合理的な方法以外のものは、決して用いようとはされない。」
p56
「神話は深く人間本性に根ざしており、それは基本的な、制御しえない本能ーその本質や特性はなお規定されないままであるがーに基づいている。」


この二箇所は、最終的に、理性的になったはずの人間が、非理性的な政権を受け入れてしまったのだが、それは人々が政権の提示する神話を受け入れてしまったせいであるのだが、では、なぜ非合理的な神話を理性的な人々が受け入れてしまうのかという、問いに対する答えを前もって第一部で提示している箇所と言える。


p58
「ヘーゲルのように、理性を《本体的力》ー《世界の主権者》というように語るのは馬鹿げている。真の主権者ーつまり、自然界や人間の生活がその周囲を回転している中心点ーは性的本能である。ショーペンハウアーが言ったように、この本能は、ここの人間を種の目的を促進するための道具とする、種の守護神なのである。」

カッシーラーは第三部でヘーゲルの考え方を批判するのだが、この部分もその前フリと言える。つまり、人間というものは理性的な存在なのだが、やはり理性的なだけではなく、本質的な部分では本能に従って生きている。そしてその本能は神話とつながっているということなのだろう。


p.66
「神話的思惟や神話的想像力の動機は、ある意味において、つねに同一である。人間のあらゆる活動や、そのいずれの文化形式の中にも、《多様なものにおける統一性》が見出される。」

これも最終的に、人々が何故ナチズムのようなファシズム、全体主義の中に組み込まれていった、いやその全体主義を主体的に作り上げていったかの説明である。多様な人々を統一するための手段として神話が用いられたということだ。


p.82
「死の原因を尋ねることは、人類の第一の、またもっとも切実な問いであった。死の神話は、いたるところでー人間文明の最低の形式から最高の形式にいたるまでー物語られている。~中略~ 議論の余地がないように思えるのは、宗教がそもそものはじめから《生と死についての》問いであったという事実である。」

これはあまり主題と関係ないところかもしれないが、「宗教=生と死についての問い」というのは非常に完結で良く出来た答えであるように思える。



第二部は、「プラトン⇒中世国家⇒マキャベリ」と論を展開していくのだが、マキャベリの新しさは、形而上と形而下を同じ原理で動いているものと考えたところにあるというのが非常に斬新であり、カッシーラー特有の論だと思うのだ。それを軸に以下の言葉を拾っていきたい。

p115
「彼(プラトン)が求めるのは、最善の国家ではなく、《理想》国家である。~中略~経験的な真理と理想的な真理との本質的な差別を強調することが、プラトン認識論の根本原則の一つである。」

つまり、形而下(現世)的な世界で考えることと、形而上(神)的な世界で考えることを明確に区別したということであり、プラトンが伝えたかったことは、実際の政治をどう動かすか、ということではなく、理想の政治はどのようにあるべきか、ということだったということだ。

p.122
「プラトンは、『パイドン』において、因習的な道徳の規則をすべて受け容れ、小心翼翼とあらゆる成分法規に従うということだけで、自分を正しく、正当なものと考えるようなタイプの人々について、軽蔑した皮肉な調子で語っている。これらの人々はおとなしく悪気のない奴らであるが、より高い、真に自覚的な道徳の見地からすれば、彼らはほとんど何らの価値もない、と彼は述べている。」

この世の人間の90%以上は、このような人間であり、日本の権力者(学校組織の校長なども含む)の98%もこのような人間であろう。このような何らの価値もない人間たちが、権力者になれる日本社会が良くなるはずはない。

つぎからが中世のアウグスティヌスになる。プラトンは神というものを想定せず、理想(イデア)を形而上的なものとしておいたが、アウグスティヌスはそのかわりに神を形而上的なものとして想定する。しかし二人に共通しているのは、形而上と形而下は分けている点である。

pp134~135
「プラトンの説によれば、善のイデアに到達し、その本質を理解するためには、人は《さらに長い回り道》~中略~を選ばなければならなかった。アウグスティヌスは、この長い迂遠な道をとることを拒否する。キリストの啓示が、それよりもさらにすぐれた、より確実な道を彼に教えてくれたのであった。」
p138
「ギリシアの思想家たち、ソクラテスやデモクリトス、プラトンやアリストテレス、ストア派やエピクロス派の人々が展開した倫理体系はひとつの共通した特徴をもっている。それらはすべて、ギリシア思想の同一の原則的な主知主義の表現にほかならない。われわれは合理的な思惟によってこそ道徳高位の基準を見出すべきであり、そしてこれらの基準にその権威を付与しうるのは、理性であり、ただ理性のみである。こうしたギリシア的主知主義と比較して、預言者の宗教は、その深い徹底した主意主義によって特徴づけられる。神とは一個の人格であり、そしてこれはひとつの意志を意味している。論証や推論といった単なる論理的方法をもってしては、この意志を理解することは出来ない。~中略~神と交わるただひとつの方法は、祈祷や犠牲ではなく、神の意志に服従することにほかならない。」

ここはわかりづらいが、確かに神に頼るということは、神話(儀式)などに頼ることにつながるように見えるが、そうではないということが言いたいような気がする。プラトンとアウグスティヌスは形而上の者として、イデア(理性)と神という違うものをおいたが、それでも形而上と形而下を分けているという点では同じだということなのだろう。

p.181
「中世国家理論は、二つの前提、つまりキリスト教の啓示の内容と人間の本来的平等というストア的観念に基づく首尾一貫した体系であった。」

このあと、これは実質的な意味においてはそれはまったく基礎薄弱のように見えたと書かれているように、現代のアメリカ社会のように単なるお題目に過ぎなかったのであろうが、これはこれで興味深い。中世というと封建主義という平等からは程遠い社会をイメージするが、ナチス・ドイツや帝国主義日本を世界的な観点から見た時と比べれば、はるかに平等をもとに動いていた社会なのだろう。

pp184~185
「プラトンは、その理想国家の正しさを賞賛しただけでなく、さらにその美しさをも賛美した。~中略~こうした国家間は、初期のキリスト教思想には容認し難いものであった。国家は、ある程度までは正当なものとみなされたけれども、それに美を帰することは決してできなかった。国家を清らかな、汚れなきものと考えるわけにはいかなかった。」

ここもカッシーラーが本当に意味したいことは私にはわからないが、国家を常に相対的に見ていたという意味で、1940年前後の全体主義とは根本的に違った、つまり世界全体を平等主義的に見ていたということが言いたいのだろうと思うのだ。

そしていよいよマキャベリ論に入る。カッシーラーはマキャベリとコペルニクス・ガリレオの同一性を面白い視点から論じる。

p.227
「アリストテレスの宇宙論体系は、コペルニクスの天文学体系にとって代わられた。後者には、もはや《高き》世界と《低き》世界の区別は認められない。あらゆる運動は何であれ、地球の運動も天体のそれも同一の普遍的法則に従うのである。~中略~世界は同一の無限の神的精神によって満たされ、生かされた無窮の全体にほかならない。宇宙のどこにも特権を有する場所はなく、《上》や《下》といったものは何ら存在しない。政治の領域でも、封建的秩序が解体して、崩壊し始めた。イタリアでは、新しい全く別の方の政治体が現れた。」

つまり、ルネサンスに入り、形而上と形而下の違いがなくなったということである。そしてマキャベリの新しさは、プラトンやアウグスティヌスと違って、理想の国家像を提示するのではなく、現実的に政治をどのように動かしていくべきなのか、という道徳云々を無視した、つまり形而上的な視点を完全に形而下的視点に組み込んで『君主論』を展開したことにあるとカッシーラーはいうのである。

p.263
「彼(マキャベリ)は様々な統治形態を脅かす、起こりうるあらゆる危険を予見して、それにたいして備えをする。彼は支配者に、その権力を確立し、維持し、内的な軋轢を避け、謀反を予知して防ぐために何をなすべきかを説く。」
さらにカントの言葉をひいてカッシーラーはマキャベリの考えを続ける。
「医師がその患者を徹底的に健康にするための処方箋と、毒殺者が確実に人を殺さんがための処方箋とは、いずれもその目的を完全に遂げるのに役立つという点では、同じ価値のものである。」

つまり、マキャベリは、その『君主論』の中で、理想の道徳的に美しい(形而上的)国家像を描いたのではなく、現実的に政治をなす上であるべき(形而下的)国家像を描いたのである。これをしっかりと認識しないまま人々は『君主論』を読むので、マキャベリに対して批判的な見方をするのだと説く。

p.266
「マキャベッリの政治学とガリレオの物理学は共通の原理に基づいている。両者とも自然の均一性と同質性という原理から出発する。自然はつねに同一であり、自然現象はすべて同じ不変の法則に従っている。これはやがて、物理学や宇宙論において、《高き》世界と。《低き》世界の差別を破壊するにいたる。」

プラトン、アウグスティヌスと形而上・形而下と分けていたものが、マキャベリによって、同じものとみなされるようになる。このあと、理性を重視する啓蒙主義がやってきて、そしてその後ロマン主義がやってくる。このロマン主義が全体主義の源泉であるといいたいのであろう。

p.310
「彼ら(ロマン主義者)は、、歴史のいずれの時代も固有の権利をもち、固有の基準に従って測られねばならないことを説くだけでなく、はるかに徹底した見解を抱いた。《歴史法学派》の創始者たちは、歴史が法の源泉であり、起源そのものだと言明した。歴史に勝る何らの権威も存在しない。法や国家は人間によって《作られ》ることはできない。それは何ら人間の意志の所産ではなく、したがって人間の意志の管轄下にあるものではない。~中略~人間が法を作り得ないのは、あたかも言語や神話や宗教を作り得ないのと同様である。」

ここは非常にわかりづらいが、恐らく、人間の理性や神ではなく、悠久の歴史そのもの、つまりつねに存在する神話が権力を支えるものということなのだと思う。それは人間がどうこうできるものではない、つまり人々はそれに完全に同調し、自分を一体化させるしかなくなる。まさに万世一系の天皇を頂点とする戦前の日本の精神構造、いや現在の日本の精神構造そのものである。

p.311
「この形而上学的思想によれば、神話の価値は根本的に一変させられる。啓蒙主義のいずれの思想家にとっても、神話は野蛮なもの、混乱した観念と愚かな迷信の奇妙奇怪な集合単なる怪物にすぎなかった。神話と哲学のあいだには、何ら接触点はありえなかった。~中略~ロマン主義者に目を移すと、こうした見解は根本的な変化をこうむっている。これらの哲学者たちの体系において、神話は最高の知的関心の主題になるだけでなく、また畏敬と崇拝の主題ともなった。」

ロマン主義によって、今まで野蛮で混乱したものであった神話が崇拝されるようになった。つまりは、自分の頭(理性)で考えることなく、ひとつのものに自分を預けてしまうような精神性の基礎を築いてしまったのである。


第三部から現代の全体主義の大元である、英雄主義(カーライル)、人種主義(ゴビノー)、歴史主義(ヘーゲル)の分析になる。

p.329
「論理は有益であるが、最善のものではない。論理によっては、人生を理解することはできず、いわんや、その最高の形式たる英雄の生活は理解し得ないであろう。」

これはカーライルの言葉であるが、こうした思想が、英雄(ヒトラー、天皇)崇拝を生んだということであろう。

p.466
カッシーラーはヘーゲルを痛烈に批判して言う。
「彼(ヘーゲル)はつねに《現実的》なものと《腐った現存在》しかもたないものとを明確に区別した。しかし、こうした区別を、我々の政治的・歴史的生活にどのように適用しうるであろうか。歴史的世界において、何が実体的であり、または偶有的であるのか、または現実的・永遠的であるのかを、いかにして知りうるのであろうか。この問いに対して、ヘーゲルの体系はただひとつの回答を与えうるにすぎない。世界史とは世界の審判である。この最高の法定ーその判決は不可謬で取り消し得ないものであるーに訴えるということのほかには、いかなる手段も残されていない。《民族精神》でさえ、この審判から逃れることはできない」

ヘーゲルは、世界史上、弁証法を繰り返しながら、最もすばらしい文明を築き上げたのがヨーロッパ文明であると説く。それは世界史が証明しているという。これは批判は可能だが、あくまで主観なので反駁することができない。まさにこの思想こそがナチスを許容する人びとの精神性を生み出したというのであろう。
私は、ヘーゲルを賞賛する多くの人々に次の言葉を聞かせてあげたいと思う。

p.467
「ヘーゲルの論理学や哲学は、合理的なものの勝利を告げているように思われた。哲学がもたらす唯一の思想は単純な理性の思想、つまり世界史が我々の眼前に理性的な家庭として現れるということである。けれども、ヘーゲルが自らは意識しないで、人間の社会的・政治的生活のうちにかつて現れたもっとも非合理的な力を解き放ったということこそ、彼の悲劇的な運命であった。」

私は、伝統や慣習を盾に、物事を変えなかったり、その通りにしか物事を動かせない人が大嫌いだ。そうした権力者が許せない。しかし日本社会というのはそういうところだ。日本のコミュニティの多くはそういうところだ。理性が全てではない。しかし、ある程度理性的な視点で物事を見ていかなければ世界は良くなっていかないのではないだろうか。なぜ人々は政治ということになると、理性ではなく、神話的な視点でものごとを見てしまうのだろうか。それが人間の根本にあるものだからだろうか。。。。

p.478
「何ら特別の異常な努力や、特別な勇気とか忍耐を要さないような仕事の場合には、すべて呪術や神話がまったくみられない。しかし、もし企図されたことが危険で、その結果が不確かな場合には、つねに、高度に発達した呪術やこれと関連した神話が現れるのである。」
だから、権力者たちは、理性をもって物事を考え、意思決定ができないのであろう。

p479
「静穏で平和な時代、相対的な安定と安寧の時期には、この合理的な組織を維持していくことは容易であり、それはあらゆる攻撃から安全であるように思われる。しかし、政治においては、完全な均衡が打ち立てられることは決してない。~中略~人間の社会生活が危機におちいる瞬間には、つねに古い神話的観念の発生に抵抗する理性的な力は、もはや自己自らを信頼し得ない。このような時点において、神話の時機が再び到来する。」
大変な時こそ、人々が自由から逃走し、全体主義に走るのはまさにこの理由によるのであろう。

p.487
「同一の儀式を絶えず、一斉に、一本調子に遂行することより容易に、われわれの能動的な力、判断力や批判的な識別能力を全て眠らせ、そしてわれわれの人格意識や個人的な責任感を取り去ってしまうものはないであろう。」
仏教のお坊さんで人格意識の欠如した、責任感のない人を結構知っている。これは、ひたすら一本調子で、どんな時でもおなじようにお経を読む、せいがあるのかもしれないと妙に納得した。

最後は、エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』を彷彿とさせる言葉で締めくくりたい。
p.493
「人間がただその生来の本能に従うにすぎないなら、彼は自由を求めて努力しようとはせず、むしろ隷属することを選ぶであろう。」


非常に非常に刺激的で面白い本だった。
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