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不協和音 [哲学書]


不協和音―管理社会における音楽 (平凡社ライブラリー)

不協和音―管理社会における音楽 (平凡社ライブラリー)

  • 作者: Th.W. アドルノ
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 1998/02
  • メディア: 文庫



アドルノ作『不協和音』を読み終わった。前回の『音楽社会学序説』と基本は同じで、現在(当時)の大衆の、商業主義に毒された受動的な音楽受容を批判した著作。

第Ⅰ章 「音楽における物神的性格と聴取の退化」でポピュラー音楽やジャズなどの軽音楽だけでなく、クラシック音楽も商業主義に犯され、音楽の聴き方が受動的になっていると批判する。コンサートで演奏される曲は有名曲ばかりであり、演奏なども感覚的に訴えるものを良しとする傾向があるのだと。
「冗談でなく、自分がトスカニーニ演奏会の切符のために支払った金を消費者は崇めるのである」という表現はまさに現在の日本の聴衆に当てはまる。普段ろくにクラシック音楽など聞かないのに、海外の有名オケや演奏家がくるとこぞって聴きに行く。美術館などでも同じ傾向にある。

第Ⅱ章 「操られた音楽」も基本は同じ。国家や企業に管理された音楽を無批判に受動している聴衆は結局も物事を批判的に考えられなくなってしまう、と警告している。ひたすらリリースされる同じような音楽をひたすらi-podなどにダウンロードし、ひたすら聞き流し続ける日本の大衆にまさに当てはまる。

第Ⅲ章 「楽師音楽を批判する」も安易な伴奏などで皆で楽しく歌いましょう的な音楽サークルを批判したもの。次の言葉は心に響く。
「大抵の若い人たちは~中略~水準の高い室内楽演奏に似たことをやろうとする集中力、内的な自由と独立とを獲得することができないのである。」
真面目に行うことを格好悪いこととし、時間のかかることを無意味とし、複雑なことを避けさせ、お手軽で楽しい(Fun)ものこそ素晴らしいのだという社会を作ってきた日本社会。その日本社会はまさにここであげられているような人間を作ってしまっているのではないだろうか。

第Ⅳ章 「音楽教育によせて」も痛烈だ。
簡単に習得できるようなことばかり教育し、幼稚な楽器では表現されえないヴァイオリン・ピアノ・チェロなどを用いた曲を教えないことを批判する。「全体を直観させることから出発して、部分を展開させる」ことをさせないというのもその通りだと思う。音楽は全体を通して音楽であり、芸術なのであって、演奏者にしろ聴衆者にしろやはり全体を捉えながら部分に落とし込んでいかなければしょうがないと思うのである。これも音楽教育だけでなく、日本の教育全体に足りないことだ。

第Ⅴ・Ⅵ章 「伝統」「新音楽の老化」がこの本の白眉であろう。
アドルノの目指す弁証法的な音楽のあり方がここで示される。伝統(テーゼ)は常に新しいあり方(アンチ・テーゼ)の批判を受けながら、さらに新しいもの(アウフヘーベン)にならなければならない。しかし、シェーンベルクなど、12音階技法を提示した新音楽を作り上げた人々も、後期には批判的なやり方で音楽を作り上げることができなくなってしまった、とかなり手厳しい。
とはいえ、くだらない形だけの伝統にとらわれることの多い日本社会に投げかけることは多いのではないだろうか。 
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