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家父長制と資本制 マルクス主義とフェミニズムの地平 Part2分析編 [学術書]


家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2021/10/28
  • メディア: Kindle版



Part2でも印象に残った部分をまとめておきたい。

p.231
「「家」制度を封建遺制と見なす考えは、第一に近代百年(正確には明治三十年代からせいぜい半世紀あまり)の「伝統」を、不変の歴史的伝統と錯覚するあやまちに陥っていることから、第二に、武家的な「伝統」を日本社会全体の「伝統」ととりちがえることから、来ている。第三に、近代を「個人主義」の時代と額面どおりにとらえる近代主義者の思い込みがる。「家」を前近代、「個人」を近代の産物と信じて疑わない人々は、「家と近代的自我との葛藤」を好んで近代人の心理的な主題にする。日本の近代小説が「私小説」の名のもとにくり返し描いてきたのはこの主題だった。~(中略~) 島崎藤村といい、太宰治といい、私小説作家たちはいずれも例外なく彼じしん家父長の立場にいる男性であって、その家父長の支配下で呻吟する女や子どもではない。彼らが主題にした「家」制度との葛藤とは、「家と近代的自我との葛藤」などではなく、実のところ「家長責任を背負いきれない弱い自我の悩みや煩悶」であった。そしてこの「家長責任から逃避する未成熟な自我」は、そのことによって家長支配のもとに置かれた妻や子どもをたっぷり傷つけており、かえって自分の加害性に無知かつ無恥であるという「目からウロコが落ちるような」発見に導かれる」

これは本当に「目からウロコ」であり、的確な分析である。戸籍制度のしろ、天皇制にしろ、日本社会というのは「家」制度を残したい社会であり、男が常に優位に立っていたい家父長制社会なのだと、ここまで生きてきて思う。本当に最近になって若干崩れつつあると思うが、政治の世界を見ているとそれが強固なのがわかる。


p.249
「高度成長期は、男にとってはいわば「一億総サラリーマン化」の完成、女にとっては、「サラリーマンの妻」=「奥さん」に成り上がる夢の完成であった。しかし誰もが「サラリーマンの妻」になった時、この成り上がりはその実、女性の「家事専従者」への転落を意味していた。六十年代の高度成長期をつうじて、日本の社会は、滅私奉公する企業戦士とそれを銃後で支える家事・育児に専念する妻、というもっとも近代的な性別役割分担を完成し、これを大衆規模で確立した。フェミニストはこれを「家父長制」と呼ぶが、この「家父長制」はまったく近代的なものであり、封建遺制の家父長制とは質を異にしている。」


p.271
「日本の資本制は、だからと言ってアジアの安い労働力を利用することをギブアップしたわけではない。彼らは、移民労働力を日本に入れる代わりに、外国人労働力を彼らの居住地で利用するという選択をした。それが合弁企業や多国籍企業による現地生産方式である。それによって、企業は現地の安い労働力と原材料を利用した上で、産業廃棄物による公害というコストを支払わずに製品だけを手に入れるという芸当をやってのけることができる。日本の資本制が採ったオプションは、コストをミニマムにしてプロフィットを最大にするという、まことに「合理的」な選択だった。」

ファスト・ファッションなどで、自分もこの恩恵を受けてきただけに非常に心痛む話だったが、本当に日本という国はあくどい国だなあ、と思う。


p.304
「今や、この「核家族の働く母親」を救済する究極の解決策は、伝統的な三世代同居への回帰にこそあると考える人々がふえている。三世代同居をしさえすれば、育児期の女性は後顧のうれいなく働きつづけることができるし、それどころか一家に主婦がふたりいる葛藤を避けるには、働きに出たほうが良い。他方将来の老親介護の心配もない。「三世代同居」は「家族の危機」の特効薬と信じられている。いずれにしても、この「解決策」の中で、二つの再生産労働、育児労働と老親介護労働とは、祖母という名の女と母という名の女の間の世代間交換として、ただ家族の女性メンバーの間でだけ、やりとりされている。大家族回帰派が、その万能解決策の中で示しているのは、再生産労働を女の肩にだけ背負わせるという、断固たる決意である。」

これも女性蔑視の発言を繰り返す政治家たちが、伝統回帰を進めようとする理由なのだろう。本当に無責任極まりない人たちだと思う。

pp.312~313
「あらゆる育児科学は、したがって科学の装いを持ったイデオロギーである。「子供の発達」をテーマにしたどんな学問的な研究もこのイデオロギー性から自由ではない。まったく対立した育児法や育児観が、「子どものため」という観点からともに正当化される。そしてそれは論者の立場によってバイアスがかかっている。母による専従育児がいいと思う論者はデータからそういう結論を導き出すし、逆に共同保育がよいと考える論者は、それを立証するようなデータを集める。」

これは育児に限らず、教育のすべての分野において言える。教育に直接携わっている私の周りにも「エビデンスを出せ」とか言う人がたくさんいるのだが、その「エビデンス」はあくまで自分のそうだと思う結論に導くために持ってきた偏ったエビデンスであり、しかも教育というものは何が成功か、などというものは短期的な視点でわかるものではない。それをわかった上で教育・育児は行うべきだし、科学的なデータを収集し活かすべきだと思うのだ。


p.328
「「主婦労働」とは「主婦がする労働」のことだが、必ずしも「家事労働」を意味しない。逆に「家事労働」は必ずしも主婦がする必要はない。つまりここでは、「家事労働」を当面たまたま担当している「主婦」という名の女の、労働力としての質の差がものを言う。高卒でスーパーの店員をやっている女性と大学院の数学科出でコンピューターのソフト開発をやっている女性とは、家事労働者としては等価だが、「主婦労働者」として市場に出たときには、労働力の価格に差がついてくる。~(中略)~ つまり、夫のシングルインカムで暮らし、伝統的な性役割分担を守る中流の家庭と、男女平等なーありていに言ってしまえば男も女も平等に家事労働負担から免れたーダブルキャリア=ダブルインカムの上流家庭とに分解する。」

p.351
「資本制社会は生活のために生産があるのではなく、生産のために生活があるという転倒化した社会であることを、まず確認してかかる必要がある。」

楽しく充実した生活をするために、皆(男女)が支えあってお互いを尊重して生きられる社会が作られて欲しいと心から願う。
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