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不惑のフェミニズム [学術書]


不惑のフェミニズム (岩波現代文庫)

不惑のフェミニズム (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/05/18
  • メディア: 文庫



1980年代から2000年代までの30年間に亘る、上野千鶴子が各所で発言してきた発言を一冊にまとめたもの。新聞や雑誌等に掲載されたものが多く、一つ一つが短いので非常に読みやすい。しかもある程度大まかな年代順に並んでいるので、フェミニズムが社会でどのように受け入れられどのように批判され弾圧されてきたかがわかってかなり興味深かった。

私は1978年生まれで、この本に掲載されている一番早いものが1983年ということで自分の成長とともに、フェミニズムを振り返るような感覚で非常に楽しめた。

特に安倍が政権をとって超保守主義、超国家主義のまるで戦前・戦中のような様相を呈するようになる2000年代の発言を集めた、「3 バックラッシュに抗して 2000年代」が非常に読み応えがあり、2022年の現在もこの流れは続いていることを再認識させられた。

p.9
「わたしは啓蒙がキライだ。他人から啓蒙されるほどアホではないし、他人さまを啓蒙するほど傲慢でもない。フェミニズムの運動は、自己解放から出発したはずなのに、いつのまにか「すすんだワタシ」が「おくれたアナタ」を啓蒙するという抑圧に転化してしまった。」

前半は私も同じ気持ちだ。教師という仕事をしていてもこれは思う。後半も、よくある現象だ。キリスト教しかり、マルクス主義しかり、「~教」や「~イズム」と名前がつき、組織が確立されればされるほど、組織は硬直化し、抑圧的になる。


p.17~18
ここで、おんなの運動が実績を作り上げて要因をいくつか、上野千鶴子は挙げている。
①ピラミッド型からローリング・ストーン型へ
②直接・参加民主主義
③スモール・イズ・ビューティフル
④「いま・ここ」での解放
⑤同質性より異質性
⑥自発性と創意工夫
⑦情報の集中を避ける
⑧役割分担の流動化
⑨ハレの場をつくる
⑩仲よしクラブより苦楽を共にした仲間
これは全て素晴らしく、組織の硬直化を防ぎ、つねに組織を行動に駆り立て、前へ進ませるものだ。わたしも自分が属する組織ではなるべく上記のことを心がけているつもりだ。


pp. 46~47
「妙なもので、上司と部下、教師と生徒の間では、いつでも下位に置かれた方が上位にいる人間の状況や欠陥をよく見抜く。上に立ったとたん、まるで逆光で世の中を見るみたいに、周囲も自分のこともよく見えなくなるものらしい。いつも底辺にいる女は、スポットライトを浴びた権力者たちのみっともなさやこっけいさをよく知っているから、自分が同じ立場に立つかもしれないことに敏感だ。しかしこれは、よほど注意深くしていないと持続できる態度ではない。男たちの価値観は、まるで重力のようにそこら中に充満しているから、ちょっと気をゆるめるとすぐに巻きこまれてしまう。」

自分もこれから先、常にこのことは気をつけて生きていきたいと思う。


pp.128~129
「フェミニズムは、社会的弱者の運動である。女にとっくに「実力」があるなら、こんな運動をするまでもない。わたしは客観的にはエリート女だが(なにしろ大学助教授だからね)、自分が恵まれた特権的少数者の中にいることぐらい自覚している。自分がやれたから、あんたにもやれるはずだと言うのを、ほかならぬスーパーウーマン・シンドロームと言うのだ。エリート女とエリート主義者とはちがう。自分の立場とは違う人々に想像力を欠いた時にだけ、エリート女はエリート主義者になる。」

私の周りにいるエリート主義者も同じ考えを持ち、人の心を平気で踏みにじる。そして踏みにじったことに気がつかず、強者の論理をふりかざす。


pp.167~168
「女性に対する暴力と環境に対する暴力とはふかくつながっている、という事実であった。戦争と強姦という肉体に対する直接的な暴力、自然破壊という「体外環境」「体内環境」双方の汚染をつうじての生命への暴力、そして女性の「生存経済」からのひきはなしと労働市場からの排除という構造的な暴力・・・・・・。
 それらは「進歩と開発」の名において現在も進行中である。シンポジウムの最後に、「持続可能な発展」と「持続可能な社会」とのちがいについて、緊迫した議論のやりとりがあった。社会の「持続可能性」と「発展」とはあいいれない、「持続可能な発展」とは論理矛盾にほかならない、という指摘に、誰もが直面している問題の大きさに目のくらむ思いをした。」

あまり意識してこなかったがこれは非常にするどい指摘だと思う。日本が環境に意識した社会にならない理由は、日本のマッチョイズム、家父長制的体制のせいなのだと気づかされた。


p.205
「セクハラの定義の被害者基準(ある行為がセクハラであるかどうかは、被害当事者が判断するという基準)から言えば、加害と被害の深刻に置けるこのジェンダーギャップこそ、解き明かされなければならない問題といえよう。」

p.212
「ちなみに東京大学のある部局では、総長からの要請を受けてさっそく苦情相談窓口を設置したが、それは各研究室の長がそのまま相談窓口の担当者になる、というものであった。対応がおざなりだと言うだけでなく、これほどセクハラについての認識不足をあらわしているものもない。かれら組織の長こそがもっともセクハラ加害者になる蓋然性が高い人々であるというだけでなく、直接の利害関係のある上司に、セクハラ被害者が相談を持ち込むとはほぼ考えられないからである。」

p.215
「調査委員会は双方の当事者からの事情聴取にもとづいて、加害者・被害者双方の言い分のうち、一致したものだけを事実と認定するというおどろくべき報告をおこなった。したがって被害者が申告するような事実はない、としたうえで加害者と木される教官には処分なし、さらに教授会を会議という非公式の場に変えたうえで当該の教官に始末書を書かせるという「穏便な」処置をとった。

p.216
「第三は、調査結果の事実認定の問題である。加害・被害両当事者の言い分のうち、両者の一致した部分だけを事実と認定するという態度は、一見中立的に見えてそうではない。セクハラのような権力関係を背景にした被害については、「中立的」であることはただちに「強者の立場に立つ」ことを意味する。」

わたしの属する組織がまさに上記のようなパワハラ対策を行っている。私は何度も上記のようなことを提案しているのだが、全く聞く耳を持たない。何が問題かを理解できないのであろう。


p.337
「闘って獲得したものではなく、与えられた権利はたやすく奪われる。闘って獲得した権利ですら、闘って守りつづけなければ、足元を掘り起こされる。」

これも今の組織にいて、日本という社会にいて日々感じることだ。


p.411
「フェミニズムは論争をおそれない思想だった。それだけ多様で多彩だったからだと思う。フェミニズムが多様な解釈を許容し、一枚岩でなかったことは、フェミニズムの思想としての活力と成長の条件だった。だからこそフェミニズムには今日に至るまで、固定的な教理もなければ、正統・異端もなければ、除名も排除もない。」

これも素晴らしいと思う。

p.380
「女のひとは(女に限らず日本にひとは)早々と、安直にラクになりすぎるような気がする。身の丈の幸せと、お手軽に和解しすぎるような気がする。安直に手に入れたものは、それだけのものでしかないことに、あとになってわたしたちは気がつくだろう。」

これも良い言葉であり、多くの人に読んでもらいたい言葉だ。

とても読みやすく、今の自分を省みるのに良い本だった。
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