ナショナリズムとジェンダー [学術書]
再読
偉そうだが、私が上野千鶴子という人を高く評価することになった作品。
慰安婦問題を中心に、女性の戦争責任など、様々な問題を扱った作品で、とても考えさせられ、自分の行動や言動を省みることを強いる作品。
p.84
「「女性」こそは近代=市民社会=国民国家がつくりだした当の「創作」である、と。「女性の国民化」ー国民国家に「女性」として「参加」することは、それが分離型であれ統合型であれ、「女性≠市民」という背理を背負ったまま、国民国家と命運をともにすることにほかならない。」
女性の軍隊参加を扱った部分だが、女性が、男性兵士と同じように兵士として働くのか(統合型)、後方支援のような形で働くのか(分離型)どちらにせよ、「二流市民」として働きながらも戦争に巻き込まれていることに変わりはないし、戦争に積極的に参加していることにほかならない。上野千鶴子氏も書いていたが、「戦争」というものすべてを否定することからしか、新しい社会は生まれえないのではないか。
p.140
「「慰安婦」との「交情」をなつかしげに語る元日本へにとっての「現実」と、「慰安婦」経験を恐怖と抑圧として語る被害者の女性にとっての「現実」とのあいだには、埋めがたい落差がある。関係の当事者の一方が、他方とこれほど落差のある「経験」を持っているとき、両者が「ひとつの経験」を共有していると言えるのだろうか。だが、そう考えれば、「真実」をめぐる闘いは、永遠に決着のつかない「神々の闘争」にしかならないのだろうか。」
これは現代のセクハラ・パワハラ問題と根は同じだ。結局裁かれるべき側が権力を持っており、判決をコントロールできる側にあるのだから、やられた方が不利なのは目に見えている。こうした構造を改善しようとしない日本社会の後進性は明らかだ。
p.161
「被害者が「わたしは性行為を強制された」「わたしは強姦を受けた」という被害の「現実」を証言する際に、物証をともなう立証責任が問われる。実証主義の考えかたでは、当事者の手記、日記、回想録、口述史等は、そのあいまいさや主観性、思い違いなどによって、文書資料を補完する二次的な資料価値しか認められていない。だがここで言う「文書資料」とは権威によって正当化された史料、支配権力の側の史料の別名である。支配権力の側が自己の犯罪を隠蔽したり正当化したりする動機付けを持っているところでは、この史料の「信憑性」もまた問われるべきであろう。」
上記にも書いたが全くその通りだ。私は何件かパワハラ事件に関わったが、結局権力者側の言い分だけを事情聴取し、「パワハラは認められない」ということになる。これは本当におかしいと思うのだ。
pp.199~200
「国民という集団的アイデンティティの排他性を超えるために呼び出されるのが、他方で「世界市民」や「個人」あるいは「人間」として、という抽象的・普遍的な原理である。あらゆる国籍を超えたコスモポリタン、普遍的な世界市民という概念もまた、危険な誘惑に満ちている。それはあらゆる帰属から自由な「個人」の幻想を抱かせ、あたかも歴史の負荷が存在しないかのように人をふるまわせる。「国民」でもなく、あるいは「個人」でもなく。「わたし」を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、人種、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。「わたし」はそのどれからも逃れられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特権化や本質化である。そうした「固有のわたし」ー決して普遍性の還元された「個人」ではないーにとって、どうしても受け入れることのできないのは「代表=代弁」の論理である。」
これを読んだときは感動的だった。わたしもぼんやり考えていたことが素晴らしいまでに言葉にされていると思った。
p.227
「クリスチャンは「神の国」の住人になることを約束されている。それが彼らの殉教を支える。どこの国でも、抑圧的な国家体制にもっともよく抵抗しえたのは「国家内国家」をつくりだしたキリスト教徒と教会であったことを、わたしは過去の歴史から知っていた。その点では、護国宗教と化した仏教は、あまり誇れる過去を持たない。」
p.244
「歴史のなかで、過去は選択的記憶になり、つごうの悪いことは忘却されがちだが、被害者はそれを忘れていない。和解は、被害者の嘆きと怒りを受け止め、それに向き合ったところからしか生まれない。」
本当にそう思う。
再読だったが、やはり素晴らしい本だった。是非多くの権力者に自分ごととして考えながら読んでもらいたい本だ。
2022-11-23 05:52
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