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ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想 [学術書]


ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想 (岩波現代文庫)

ボンヘッファー 反ナチ抵抗者の生涯と思想 (岩波現代文庫)

  • 作者: 光雄, 宮田
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2019/07/18
  • メディア: 文庫



作者の宮田光雄さんは、私が卒論を書く際、考えをまとめるうえで、非常に参考にさせていただいた人であった。その人が訳している、新教出版社から出ている『ディートリヒ・ボンヘッファー』という本をかつて読んだ事があった。正直、ヒトラー殺害を企てたものの計画段階で失敗に終わり、何もすることなく死んでしまった人、という以上の印象しかなかった。

しかし、宮田光雄氏本人が書いたこの本が、岩波現代文庫から出されたので、もう一度ボンヘッファーなる人物と向き合ってみようと思い購入し、遂に自分の中での順番が巡ってきて、この12月に読んだ。ボンヘッファーに対する見方が180度変わった。本当に素晴らしい人物であり、私が日頃生きる上で大切にしていることを大切にし、さらにそれを実践していた人なのだということがよくわかった。

あまりにも素晴らしい言葉が多いので紹介するのも大変だが、いくつか紹介したい。

p.10
「彼は、ナチのユダヤ人政策に反対して、教会の取るべき三つの行動可能性について論じています。
 第一に、その政策が合法的な国家にふさわしいかどうか、国家の責任を問いかけることです。
 第二には、国家の政策の犠牲となった人びとに対して、彼らを助けるために奉仕の義務を引き受けることです。
 しかし、彼が第三番目の可能性として、「車輪の下敷きとなった犠牲者を助けるだけでなく、みずから車輪の下に身を投じて」、車そのものを阻止することを教会の責任範囲に上げているのは、きわめて重要です。」

我々は言葉ではいろいろ言うが、結局行動に移せない。しかし、失敗に終わったとはいえ、彼は実際多くの人の命を救うために国家の転覆を図る行動に出た。ここに書かれている思想は、三浦綾子の『塩狩峠』にも通じる。キリスト者として人間として生きるとはこのようなことなんだと、改めて思った箇所である。

p.36
「重要なのは個別の真実の言葉ではなく、つねにその全体が問題なのだ。逆説的な言い方をするなら、正直な者が嘘をつく方が嘘をつくものが真実を語るよりも、いっそうベターなのだ。」

これも非常に含蓄に富んだ言葉である。若干曲解してしまえば、表向きの言葉よりも、それを語る主体つまり本質的な部分が美しいほうが遥かに良いということだ。形が重要なのではなく、中身こそが重要なのだということを訴えたかったのではないだろうか。

p.70~
ナチ支配下の知識人

ここからナチ支配下の知識人をあり方を批判するのだが、非常に非常に理解できるし、現代の知識人たちにも通じるものが多々ある。

①「理性的な人びと」=「最も良い意図を持ちながら、現実をナイーブに見誤り、支離滅裂に陥った世界を、いくらかの理性でふたたびつなぎ合わせることができる、などと考える。」ナチ政権と協力しながら、何とかそれを良い方向に導いて、カタストローフを防ごうとする。しかし、彼らは「眼力不足」のゆえに失敗する。「そこで彼らは諦めて脇へひっこむか、ふらふらして、いっそう強い方に屈服するのである。」

これは、よくあるタイプだといえる。「自分が組織を変える」などと言いながら結局時が経つにつれてその組織にどっぷり浸かってしまう人間たちである。

②「倫理的な熱狂主義者」=「このような人は「原理の純粋さによって、悪の力に対抗しうると考える。しかし、彼は牡牛のように、悪の力の担い手に向かう代わりに、赤い布切れに向かって突進し、そのために疲れ果てて倒れてしまう。」

いわゆる「原理主義者」。理想が高すぎて、そしてその理想だけを追い求めて現実と折り合おうとしない人間。これもよくいる。

③「良心的な者」=自分の良心に照らして、その時々に具体的な決断をしていこうとする人びとです。彼は「決断を要する緊急事態の圧倒的な力から身を守ろうとして孤独な戦いを戦う。」しかし、自分自身の良心によるほかには、どこからも支えとなる助言を与えられることがありません。~中略~「彼に近づいてくる悪の上品で魅惑的な無数の変装が、彼の良心を不安にし、不確かにする。」その結果、「良い両親」つまり、疚しくない良心の代わりに、「言い逃れる良心」を持つことで満足する。

一見良い人そうなのだが、日和見主義的で、結局状況に応じて対応するため本質的な解決が出来ない人たちだ。これも非常に多い。こうした人間に対してコメントした彼の言葉は我々の言葉を刺す。

p.73
「ボンヘッファーは、こう結論しています。「良心だけに自分の拠り所を置こうとする人は、悪しき良心(良心の疚しさ)の方が欺かれた良心よりもためになるし、力強くもありうるということを、決して理解できない。」

日和見主義であること自体が、良心の疚しさを伴っていない、ということを理解できない。つまり日和見主義であることが良心なのだと信じて疑うことなく生きている人たちなのだ。

④「「義務」に従うもの」=「とまどうほど多い」

これはまさにアイヒマンだ。そして日本の組織の中に何と多いことか。安倍首相の秘書や側近の官僚たちもまさにこうした人間たちだろう。

他にも二点挙げられているが割愛する。

p.78
「愚かさは悪意よりも、いっそう危険な善の敵である。悪に対しては抗議することができる。それを暴露し、やむをえない場合には、これを力ずくで妨害することもできる。悪は、少なくとも人間の中に不快さを残すことによって、いつも自己解体の萌芽をひそませている。愚かさにたいしては、どうしようもない。」
「自己の先入観に矛盾する事実は、端的に信じる必要はないとされる―このような場合に、愚かな者は批判的になる。―その事実が避けがたいものであっても、それは、単純に無意味な個別的ケースとして排除されうるのである。その場合、愚かな者は悪しきものと違って自分自身に完全に満足している。」
明白な事実をつきつけられても、例外的ケースとして切り捨て、あくまでも自分の正当性を信じ込む。その信念に矛盾する事実を指摘されると、かえって、「批判的」=攻撃的になる、というのです。

これは私が働く組織のトップである。あまりにも愚かすぎて何を言っても聞かないし、愚かなので自分が愚かであることに気がつけず、愚かさを指摘されてもその愚かさを認められないのだ。それを端的に言っている。

p.79
「愚かな者は、しばしば頑固であるが、だからといって、彼が自立的であるということはない。このことを見誤ってはならない。愚かなものと話していると、われわれは、その人自身、つまり、彼の人格と関わりをもっているのではなくて、彼の上に力をふるっているスローガンや合言葉などにたいしているような感じを受ける。」
 じっさい、この点に関連して、ボンヘッファーは「愚かさは本質的には知的な欠陥ではなくて人間的な欠陥である」という注目すべきテーゼを打ち出しています。

とりあえず、素晴らしい言葉が溢れているが、いろいろありすぎるので今日は時間がないので、この辺でやめておく。

p.216
「この課題は、イエス・キリストが到来したことを知っているすべての者に、無限の責任を負わせるものである。飢えている者はパンを、家なき者は住む家を、権利を奪われているものは正当な権利を、孤独なものは交わりを、規律にかけている者は秩序を、奴隷は自由を必要としている。飢えている者をそのままにしておくことは、神と隣人とにたいする冒涜である。」

この言葉は、チェ・ゲバラは、「社会で不正が行われていることに対して怒る人は、我々の同士である」という言葉を思い出させる。自分の幸せでなく、社会全体の幸せのために行動することこそがキリスト者であり、人間なのである。

p.220
「《自然的なもの》は、それが堕罪後の現実である以上、神との直接性の中に生きる原初のままの《造られたもの》とは同じではありません。他方では、神による《被造性》という事実にかわりない以上、一般的な《罪のもとにあるもの》として否定さられるわけでもありません。《自然的なもの》は、堕罪後も神によって保持されている生命のかたちであり、キリストの到来、すなわち、義認と救いと更新とに向かって開かれています。これにたいして、《不自然なもの》は、キリストの到来にたいして目を閉ざし、生命の形を否定するものです。」

これは非常に難しい言葉だが、キリストの存在を感じながら、キリストの示してくれた生き方(本質的な部分で)を実践していくべきだということなのだと思うのだ。

p.221
「ボンヘッファーによれば、《自然的なもの》を破壊する《不自然なもの》は、《生命主義》と生の《機械化》という二つの形をとって現れます。前者は、地上の生命を絶対化して自己目的とする中で、他の生命を破壊し、生命に仕える基準ないし限度を失い、ニヒリズムに陥ってしまいます。後者においては、生命は組織の中の利用価値という観点からのみ捉えられ、目的のための手段とされて、その自己目的性を失ってしまいます。いずれも、生命に対する《不自然な》破壊に至りつかざるをえないのです。」

これはまさに、神というバックボーンを失った現代人たちの人間破壊、環境破壊に警鐘を鳴らしている箇所と言えるであろう。

p.233
「善とは、現実性をもって存在する生命、すなわち、その根源・本質・目標において存在する生命であり、換言すれば、「キリストが私の生命である」という言葉の意味における生命である。善とは、生命の性質ではなく、《生命》そのものである。《善くある》とは《生きる》ことである。」

これは結構厳しい言葉である。逆に言えば、《善くない》状態とは《生きていない》状態と言えるからである。しかしこれほどの厳しさで常に人生に向き合いたいとは思う。

p.247
「責任を負う行動は、自分の行動が究極的に正当であるかどうかについての知識を断念する。神が人間となり、また神が人間となりたもうたということを見つめつつ、すべての人格的・客観的な状況を責任的に判断しながらなされる行為は、それを実行する瞬間に、ただ神にすべてを委ねる。~中略~」このいっさいの事故性とかを断念したものの謙虚さと自制、神を信頼するゆえの落ち着きと勇気―こうした逆説的な結びつきこそ、ボンヘッファーが責任を負う行動として抵抗運動に参加することのできた秘密なのでした。

結局人間には自分の行動が本当に正しいのかはわからない。しかしわからないからこそ、現実の状況を見つめ、自分の判断・行動に自分で責任をとり、実行していく。本当に素晴らしい人物は常に謙虚さがあるのである。


次は私がこの本の中で最も心に残った一節である。
p.288
「われわれはー《たとえ神がいなくとも》ーこの世の中で生きなければならない。そして、まさにこのことを、われわれはー神の御前で認識する!神ご自身がわれわれを強いて、この認識にいたらせたもう。このように、われわれが成人することは、神の御前における自分たちの状態の真実な認識へとわれわれを導くのだ。神は、われわれが神なき生活と折り合うことのできる者として生きなければならないということを、われわれに知らせたもう。」

現代の我々は神を実感することはほとんどない。しかし神がいない状態であるかのように強く生きることを神が我々に強いているのだ。この逆説的な考え方を心にもって神なき現代を生きるか否かは、我々が正しく生きられるかに大きく関わってくるのではないだろうか。この認識がない人間が神に頼ろうとすると、例えば新年だけに行く初詣、何故か行われる七五三のお参りなど、ボンヘッファーの言う次のような状態に陥ってしまうのだ。

p.293
「人間の宗教性は、困窮に陥った時に、彼をこの世のおける神の力に向かわせる。[そこでは]神は《機械じかけの神》なのだ。」

簡単に言えば、困った時の神頼みなど、神を信じての行動でも何でもないし、全く無意味だということだ。


そしてボンヘッファーは、パリサイ人的な宗教人、つまり形だけにこだわり中身を考えない人間を批判する。
p.309
「彼がナチ体制にたいする同調と妥協を認めるところには《宗教》があり、ヒトラーにたいする抵抗に加わったところで《非宗教性》に生きる人々に出会ったのです。ボンヘッファーが『獄中書簡集』において《非宗教的》な言語で将来に対話することを望んでいたのは、こうした人々ではなかったでしょうか。」
「《キリスト教的本能》のようなものが僕を宗教的な人間よりも無宗教的な人間の方に多く引きつけるのは何故か。しかも、まったく伝道的な意図をもってではなく、むしろ《兄弟として》と言いたいくらいなのだ! 僕は、宗教的な人間に向かっては神の名を口にすることをしばしば恥ずかしく思う。ーなぜなら、僕にはこの場合、神の名が何となく偽りの響きをもつように思われるし、自分自身がわれながら何かj不誠実に思われるからだ(とくにひどいのは、他の人たちが宗教的用語で話し始める時で、そのとき僕は、ほとんど口をつぐむ。何だかもやもやした感じになり、不快になるのだ)。ーそれに反して、僕は、無宗教な人に対しては、時折、まったく休んじて自明なことのように神の名を口にすることがある。」

これは私も実感する。仏教などはとくにそうだが、坊主ほど、言葉だけで、まったく行動が伴っていない。こうした人間を私は軽蔑する。

p.323
「自分が他者のために何か意味のある存在でありうると感じることほど、人を幸福にする感情はほとんどあるまい。」

本当にそう思うのだ。結局人は人なくして生きられない。そうした時最も幸せなのは、人が自分がいることによって幸せになってくれる時なのではないだろうか。

最後に感動的な言葉を紹介して終わりたい。

p.390
「われわれがキリスト者であるということは、今日では、ただ一つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと人びとのあいだで正義を行うことだ。」

これは先にも言ったチェ・ゲバラにも通じる言葉だ。常に社会の正義のために行動し、その正義感を絶対的なものとして振り回すことなく、謙虚に静かに真摯に行動したい。

本当に素晴らしい本であり、ボンヘッファーは素晴らしい人物である。
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