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詩をどう読むか 第一章 批評の役目 [学術書]


詩をどう読むか

詩をどう読むか

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/07/13
  • メディア: 単行本



昔から「詩」というものが好きだった。子供の頃「朗読教室」のようなところに行っていたことがあり、そこで工藤直子さんの『のはらうた』の中から結構多くの詩を朗読していたし、学校で習う詩も結構好きで、小さい頃は自分で書いてみたりもしていた。

しかし成長するにつれ散文、普通の小説を読むようになり、「詩」というものをどんどん読まなくなっていった。しかしずっと憧れがあり、英詩も、イギリス文学や映画で引用されたり使われたりすると、是非読んでみたいと思い、名詩選のような本を買ったりするのだがやはりほとんど読まず終わってしまう。

10年前くらいに、イーグルトンの書いたこの『詩をどう読むか』を偶然近くの図書館の新刊コーナーで発見し、借りてみた。

全く歯が立たなかった。全く内容が入って来ず、すぐに諦めてしまった。

それからずっと英詩を読みたいと思いつつもここまで来て、ことし偶然この本を思い出しもう一度読んでみようと思った。

イーグルトンの本は何冊か読んでいたし、原書でも一冊読んでいたので読めるかと思っていたがやはり甘かった。かなり難しい。しかも長い。

とりあえず第一章だけ読みたので、心に残ったフレーズを何個か書いておきたい。

p.21
「偉大な文献学者フリードリヒ・ニーチェはものをきちんと読み取る能力の価値を説いてやまなかった。彼は「遅読」の教師を名乗り、これはスピードにとりつかれた時代の本性に刃向かうことだと考えていた。ニーチェにとって、精読は近代性に対する批判なのだ。言葉そのものの感触や形に注意を払うことは、言葉をただの道具として扱うのを拒むこと、ひいては、言語が商業と官僚主義のせいで、薄っぺらな紙のように磨り減った時代を拒むことだ。」

p.37
「「経験」そのものが世界から消滅しかかっているという警告は、ハイデッガーからベンヤミン、さらにはその後の世代に至るまで、たえず発せられてきた。仰天すべきことに、この惑星で危機に瀕しているのは、環境や、病気と政治的弾圧の犠牲者や、企業のパワーに抵抗する命知らずの人々だけではない。経験そのものが、存亡の機に直面しているのだそうだ。こうした絶滅の脅威は比較的最近のもので、チョーサーやサミュエル・ジョンソンには、ほぼ無縁だっただろう。この理論にしたがえば(すぐあとで見るように、これはまったく一面的な見方だが)、近代は人間から多くのものー神話、魔法、血縁関係、伝統、連帯などーを奪い去ったばかりか、今ではついに、人間から人間そのものを剥ぎ取るに至ったという」

pp.38~39
「経験はもう目の前に置いてあるーピザのように出来合いの経験、大岩のようにごろりと「客観的」な経験が。われわれは、それをただありがたく頂戴すればいいのだ。いわば、経験がふわりと空中に浮かんでいて、人間主体がやってきてそれを受け取るという格好だ。ナイアガラの滝やダブリン城、万里の長城が、自分で我々の経験を代行してくれる。どれも解説とセットになっているので、面倒や手数が大いにはぶけるというものだ。大切なのは、その場所ではなく、それを消費すること自体である。」

pp.39~40
「パックツアーに組み込まれたこれらの場所すべてに共通するのは、ただそれらが「体験」されるという事実だけなのだから、それらは商品と同様、たがいに平気で取り替えがきくことになる。かつて経験は、その豊かな独自性、一回性のすべてを挙げて商品形態に抵抗する方法だったのに、今では、たんなる新手の商品形態に成り下がってしまった。」

p.47
「詩の目的の一部は、そうした失われたものの回復に努めることにある。何でも瞬時に読み取れてしまう世界にあって、われわれは言葉自体の経験をなくしてしまっていた。そして、言葉の感覚をなくすということは、言葉よりずっと多くのものとの接点を失うことだ。われわれは言葉をおおむね実用的な目的で使っているために、言葉の新鮮味が失われ、その力が殺がれてしまった。~中略~詩は、言葉をただ消費するだけではなく、それと格闘することを求めるのであって、このことはとくに近代詩にあてはまる。近代詩の悪名高い難解さは、詩がするりと喉を通りやすいことに対する詩の側からの抵抗と、大いに関係がある。」

「英語は、ただのコミュニケーションの道具だから」「文法なんか気にせず、だいたい分かれば良い」「自分の必要とする情報だけを取り出せれば良い」などという言葉をよく英語教育で耳にするし、最近の「大学入試共通テスト」はまさにこの哲学のもと作られている。わかい英語教員も見事にこの思想を肉体化させている。

どこかの学校の校長が、修学旅行前の朝礼で「修学旅行に行って素晴らしい感動体験をしてきてください」と言っていた。非常に違和感があった。感動とは、個人がするものであり、「どこかに行く」という行為は、用意されているものを「感動」するためにするものではない。イーグルトンのこの部分を読み、その校長の話が蘇ってきてしまった。

これらを読んだだけでもイーグルトンは素晴らしいなあ、と思う。

今回は最後まで読みきれるのだろうか・・・。

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