クラテュロス [哲学 プラトン]
ソクラテスとヘルもゲネス、クラテュロスが、「名前の正しさというものは、それぞれの有るものにたいして、本来本性的に[自然に]定まっている」かどうかを論じた作品。
今回再読なのだが、前回も感じたのだが、やはりあまり面白くない。
あるものに対して、名前がついているのだが、そもそも言語が違えば付いている名前も違うわけであって、それが本性的に定まっているのかどうかを論じること自体がナンセンスな気がするのだ。この辺の言葉の違いなどにも触れてい入るのだが、正直良くわからない。
議論は、ギリシア神話の神々に付けられた名前はそれぞれの神の特性を表しているかどうか、といった話になり、この名前はこの語源を持っているなどとなるのだが、ではその語源がそもそも何でそういう名前になったのか、ということには言及されない。これは「神の存在証明」であったり、「卵が先かにわとりが先か」とか『ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環』で論じられたものと同じで、結局は証明されようがないというか、議論の行き着く先がないものである。名前を付けるのは法律家である、といった話も出てくるのだがそれもよくわからない。
最後はイデア論的なことになっていくのだが、あまり成功しているとは思えない。
とてもchallengingなテーマを扱っているとは思うのだが、はっきり言って議論が空回りしてしまうテーマで面白くないと思う。
プラトンの中ではかなり残念な作品と言える。
2023-02-16 11:41
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