SSブログ

緑の家 下 [文学 その他]


緑の家(下) (岩波文庫)

緑の家(下) (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/08/20
  • メディア: 文庫



『緑の家』下巻を読み終わった。

上巻ではかなりわかりづらかった全体の話の流れが、読み進めるうちに段々とわかってきて、最終的にエピローグで主要登場人物がある程度「緑の家」を中心に一堂に会し、全体のストーリーをまとめる感じにはなる。

しかし、やはりその場面でも、時間が行ったり来たりするので、わかりづらい。結局最後まで全体像はぼんやりしたままだ。とはいえ、今までバラバラだったピースが埋まりつつあるので、抜けてしまっているピースを埋めるために、もう一度最初から読み返したいと思わせる小説ではある。

この下巻の解説を読むと、この物語は5つのストーリーを軸に話が展開されているとあるが、正直私は2つのストーリーしかまともに負うことはできなかった。

①ボニファシア(ラ・セルバティカ)
インディオの娘として密林で生まれる
 ↓
白人達の治安警備隊&シスター達に、文明化教育をするという名目でさらわれる
 ↓
修道院で大事に育てられる
 ↓
修道院にいるインディオの娘たちを勝手に逃がす
 ↓
逃がしたことがバレて怒られ、最終的には修道院を追い出される
 ↓
ラリータという男をとっかえひっかえして生きている女性のもとに落ち着く
 ↓
そこで、軍曹リトゥーマと出会う
 ↓
リトゥーマの故郷のピウラの街に来て結婚
 ↓
DVに会う
 ↓
リトゥーマは逮捕され彼女の前からいなくなる
 ↓
リトゥーマの部下(?)だったホセフィに誘惑され不倫関係になり、その後ラ・セルパティカという名前で「緑の家」という娼家で働き、どうしようもない男たちを養う


②ドン・アンセルモ
(恐らく)密林で生まれる
 ↓
ピウラの街にふらっとやってきて住み着く
 ↓
「緑の家」という娼家を建てる
 ↓
捨て子である事件で目と耳がきかなくなったアントニアを「緑の家」に連れて行き、彼女を愛するようになり、子供を孕ませる
 ↓
その子どもが産まれるときにアントニアは亡くなる
 ↓
「緑の家」によって街の風紀が乱れている、と普段から感じていたガルシーア神父によって「緑の家」が焼かれる
 ↓
その後放浪の楽士として、バンド仲間とハープを弾きながら生計をたてる
 ↓
アントニアとの間に生まれた子供ラ・チュンガが成長して、「緑の家」を再建する
 ↓
「緑の家」でなくなる。

恐らく、この物語は密林で生まれた女と男が、紆余曲折を経て、大都会の退廃の象徴のような「緑の家」で出会い、男は死んでいくという大きなストーリーなのだと思うのだ。そこに様々などうしようもないゴロツキが関わっていく物語なのではないだろうか。

この小説、最終的に作者リョサが伝えたいのは、「密林の素晴らしさ」なのではないだろうか。田舎と都会の対比で、田舎・密林は、非近代・非合理・非文明的なものとみなされ、開発され、現代人の感覚からすると綺麗なものとされているが、それは本当に正しい方向性なのか。白人的な見方からすると、正しいとされる考え方が、本当に正しいのか、それは例えばこの本の中に出てくるゴロツキや娼婦たちの生き方をただ提示することによって、疑問を投げかけている気がするのだ。

この本に登場する人物は男も女もキリスト教的観点からすると、退廃的で非道徳的でどうしようもない。しかし、皆愛すべきキャラクターであり、それぞれが常に前を見て生きている。

つまり、密林と都会、原住民と白人(キリスト教徒)、未開人と文明人などを対比させることで、人生の価値とは、自然と人間が共生して生きるとは何か、ということを問うた作品なのではないだろうか。

その意味で、同じ作者の『密林の語り部』と近い世界観を感じるのだ。

p.427
ガルシーア神父が語る言葉
「以前、悪魔は〈緑の家〉にしかおらなんだが」とガルシーア神父は空咳をしながら言う。「今では至るところにはびこっておる。男まさりのあの女の店にも、街路や映画館にもな。ピウラの町全体が悪魔の住む家に変わってしまったんじゃよ。」
p.447
ドン・アンセルモとボニファシアの会話
「あなたもむこうのお生まれなんですか?密林には木がうっそうと茂り、鳥もいっぱいいますわ、わたし、密林が大好きなんです! それに、人間もむこうのほうがずっといいですわね。」
「人間はどこでも同じだろうが」とハープ弾きが答える。「密林はたしかに美しい。むこうのことはすっかり忘れてしまったが、あの色だけは今でもはっきりと覚えているよ、ハープを緑色に塗ってあるのは、そのせいなんだよ。」

会話の最中に、改行したりすることなく、いきなり話が過去に飛んだり、いろいろな挿話が順不同に出てきたりするこの作品、恐らくアイルランドの作家James Joyceの『ユリシーズ』を意識して作られたのではないかと思う。『ユリシーズ』が、たった一日の出来事を「意識の流れ」によって辿った作品であるとしたら、何十年もの長いスパンを、『客観的な流れ』によって辿った作品であるといえる気がする。

解説の初めにも同じようなことが書かれているが、『ユリシーズ』『失われた時を求めて』以降、小説はないとよく言われたりするが、まさに『ユリシーズ』を継承しながらも『ユリシーズ』を超える小説、つまり「全体像が見えづらいけど見えなくない、長期的スパンを扱った、何度も読みたくなる」小説を目指していたのではないかと思うのだ。

大傑作とは言えないが、とても興味深い知的な作品であることは間違いない。またいつか機会があれば、メモでも取りながら再読したい。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。