蜂蜜と遠雷(下) [文学 日本 恩田陸]
『蜂蜜と遠雷』を読み終わった。下巻は第二次予選後半から最後まで。
この本のテーマであろう、「音楽とはそもそも自然の音を模したものだった」ということと、「人の内面そのものが音として表れる」ということが、繰り返し色々な人の視点で語られるところが素晴らしかった。音は聞こえてきていないのに、文章を読んでいるとまるでその音楽を聴いているかのような錯覚に何度も陥ってしまった。それくらい真に迫った文章だった。
そして、俗にいう「クラシック」音楽は、昔の人の音楽を演奏すること、と現代は捉えられているが、当時は「流行」音楽であり、演奏家であると共に作曲家だった。それが何故現代はなくなってしまったのか、というのは私が常々考えてきたことだ。ビリー・ジョエル、ポール・マッカートニーなど、ポップスの作曲家がクラシック寄りの曲を演奏しても、あまり話題にならない。辻井伸行が自分の曲をちょこっとアルバムにいれたりはしているがやはりそこまで話題にならない。
リストやショパン、メンデルスゾーンのような素晴らしい才能を持った演奏家兼作曲家を私も待望している。
ちなみに、この本はとっても素晴らしく感動したのだが、二点だけ不満がある。
p.408~p.409の栄伝亜夜と風間塵が、ラフマニノフのピアノ・コンチェルト第三番の話題をするところで、「ピアニストの自意識ダダ洩れ」という表現が出てきて、その「ダダ洩れ」の意味が分からない塵が亜夜に意味を聞いたところ、「演奏が終わったら教えてあげる。演奏中に意味考えてみてよ」と亜夜が答えるのだが、結局、演奏が終わった後の二人の会話はこの本では切られてしまっている。ここはどういう会話をしたのか、塵が演奏からどのような感じを受け取ったのかはぜひ読んでみたかったところだ。
さらに、ここが一番の不満なのだが、栄伝亜夜の最後の演奏プログラム、プロコフィエフのピアノ協奏曲第二番の演奏の詳細がバッサリ切られて書かれていないことだ。彼女の演奏が始まるところから、物語は一気にコンクール終了後の、審査員二人の会話に飛んでしまい、唐突に終わる。最後の場面を書くのが面倒になったのか、色々な余韻を残したかったのかは分からないがかなりここは不満が残る。
栄伝亜夜の演奏を詳細に描き、演奏後の亜夜、塵、マサル、奏の会話をリラックスした感じで描き、いよいよ順位の発表・・・そしてここで一気に審査員の二人の会話に飛ぶ、という流れが自然なのではないだろうか。
関係ないが、私は推理小説などで犯人を最初に誰かに言われてしまうことにあまり抵抗がない。物語の結末が見えていても十分楽しめるのだ。だが、この小説は最後まで、最終的な順位を知りたくないと思った。それくらい物語に入り込める、素晴らしい小説だったと思う。それだけに、最後は非常に非常に残念だった。
2021-07-16 06:54
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