ソクラテスの弁明 [哲学 プラトン]
プラトン全集〈1〉エウテュプロン ソクラテスの弁明 クリトン パイドン
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2005/01/25
- メディア: 単行本
今まで何度この本を読んできただろう。大人になってから読んだ本でもっとも読んだ回数が多い本かもしれない。長さもちょうどよく、内容は凄まじく濃く、深く、考えさせられ、読後に「善く生きなければならない」と自分を奮い立たせることができる古今東西の中でも一位二位を争う名著だ。
ある意味、先日読み終わった上野千鶴子の思想「生き延びるための思想」と逆を行く発想を持った作品と言える。「自分の信念のために、正義や徳のために死ぬ思想」書と言えるかもしれない。
矛盾に感じるかもしれないが、上野千鶴子にもプラトンにも私は共感する。そして上野千鶴子にもゲバラにも共感する。そうした意味ではイエス・キリストという人はとても偉大だったのかもしれない。
p.79
「多くの人たちの中傷と嫉妬が、~中略~ 他にも多くのすぐれた善き人たちを罪に陥したものなのでして、これからもまた罪を負わせることになるでしょう。それがわたしで終りになるようなことは、おそらく決してないでしょう。」
p.84
「世にもすぐれた人よ、君はアテナイという、知力においても、武力においても、もっとも評判の高い、偉大なポリス(市民国家)の一員でありながら、ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことに気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮と真実には気をつかわず、たましい(いのちそのもの)を、できるだけすぐれたよいものにするように、心を用いることもしないというのは、・・・」
pp.84~85
「つまりわたしが、歩きまわっておこなっていることはといえば、ただ次のことだけなのです。諸君のうちの若い人にも年寄りの人にも、誰にでも、たましいができるだけすぐれたよいものになるよう、ずいぶん気をつかわなければならないのであって、それよりも先に、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことをきにしてはならないと説くわけなのです。」
p.88
「もしわたしが、もっと前に、政治上のごたごたに手をそめようと企てたのならば、わたしはとっくに身を亡ぼし、あなたがたのためにも、私自身のためにも、なんら益することがなかったでしょう。~中略~ 諸君なり、あるいは他の大多数の人たちなりに、正直一途の反対をして、多くの不正や違法が、国家者家のうちに行われるのを、どこまでも妨げようとするならば、人間だれも身を全うするものはないでしょう。むしろほんとうに正義のために戦おうとする者は、~中略~ 私人としてあることが必要なのでして、公人として行動すべきではないのです。」
p.106
「わたしが敗訴になったのは、不足は不足でも、言葉のそれではなくて、厚顔と無恥の不足したためなのだ。」
今でも十分に通用するこれらの言葉。日本の腐りきった政治家、経営者たちに読ませたい。
歌曲① [ディーリアス 声楽曲]
1. 夕べの声
★★★★★★☆☆☆☆
少し浮遊感のあるピアノ伴奏と歌で始まるが、サビに向かって暖かい雰囲気となる。全部で三番まであり、最後は少し感情的に盛り上がり、暖炉のそばであったまっているような雰囲気で終わる。
2. 夏の夜、水上で歌える
★★★★★★☆☆☆
合唱曲?ジブリの歌のような感じ。ヴォカリーズ?
3. 夏の夜、水上で歌える
★★★★★★☆☆☆☆
今度はテノールがメロディを歌い、後ろでコーラスが色を添える。ソロは楽しげだが、コーラスは不安げ。面白い。
4. さすらい人の歌
★★★★★☆☆☆☆☆
アカペラの男性合唱曲?面白くはあるが、そこまで美しいメロディではない。
5. 家路に向かって
★★★★★★☆☆☆
オーケストラ伴奏による、ソプラノ・ソロ曲。クラシック映画のエンディングのような美しい曲。
生き延びるための思想 [学術書]
アメリカの9・11、日本の3・11を受けて、女性兵士の問題、対抗暴力の問題、原発の問題などをフェミニズムの視点から扱った、論文や講演集。
はじめに、に記された次の文章がこの本の全てだと言えるし、私が非常に共感する考え方でもある。
p.ⅵ
「戦争を含めてあらゆる暴力が犯罪だ、と言うことができなければ、DV(ドメスティック・バイオレンス。夫や恋人からの暴力)すら解決することができない。そしてもし、DVをなくすことに、わたしたちが少しでも希望を持つことができるなら、国家の非暴力化に希望を持ってはいけないだろうか。」
絶対的平和主義みたいなことを言うと、暴力に対してはどう対抗すれば良いのか、戦争を仕掛けられたらどうするのか、という質問を必ずしてくる人がいる。それは逃げるしかないし、そもそも誰もが暴力を振るわない世の中、世界にしていく努力を重ねることが人間的な行為なのではないかと思う。理想論なのかもしれないが、理想を設定することからしか、進歩していかないのでは、と思うのだ。
p.113
「だが、暴力で破壊できるようなモノや肉体は、実際のところ制度の代理人にすぎず、制度そのものではない。革命左翼の政治経済分析から標的とされるグローバルな帝国主義という「敵」は、たとえ世界貿易センタービルを倒壊させたとしても、びくともしないシステムそのものだ。」
根本的なシステムを変えない限り、社会は変わらない。これは暴力に限らず、日本に巣食う家父長制などもすべてそうだ。言葉を少し改めさせたりしたところで、根本的な考え方やシステムを変えない限り世の中は変わらない。
p.146
「家父長制の聖域を侵そうとする動きは、かならず手痛い反撃にあう。とりわけ日本のように社会の変化の遅いところでは、新しい主張がじゅうぶんに理解され根づく前に、その足をすくうような反動的な言説がばっこする傾向がある。」
p.154 中井久夫さんという人の言葉。
「戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚感をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。戦争が要求する苦痛、欠乏、不平等すら倫理性を帯びる。
これに対して、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むき出し、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和な時代は戦争に比べて大事件に乏しく、人生に個人の生命を超えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。」
恐ろしい程に的を射た言葉だ。結局多くの人が刺激を求め、自分と違う人間を排除しようとする。こう考えると、現在のなんでもアリ、人を傷つけて何とも思わない人間がはびこる刺激を求め続ける人が集い、刺激を与え続けるネット空間などは戦争状態だとも言える。
p.156, 157
「平和とは日常茶飯事が続くことである。」
「過ぎ去って初めて珠玉のごときものとなる」(のが、平和だ、)
私がもっとも大切にしているものこそ、日常だ。
p.168
「「シンボルとしてのヒロシマ」とは、もちろん「敗戦のシンボルとしてのヒロシマ」のことである。「シンボルとしての」という言い方には不快感を持つ人もいるかもしれない。たとえば「配線のシンボルとしてドイツには何があったか」と比べてみると日本とドイツの違いが鮮明に浮かび上がる。敗戦ドイツのシンボルはアウシュヴィッツであった。したがって戦後ドイツは加害者性から出発するほかなかったが、他方戦後日本の出発点は「受難のシンボルとしてのヒロシマ」だったから、日本では「加害者性」の代わりに「犠牲者性」が構築された。
背後にあったのは一億総懺悔の無責任体制である。」
これも私がずっと言い続けてきたことだが、どうしても日本の平和・戦争教育は、感情的な悲惨さを強調することに終始し、冷静に論理的に平和を構築することからかけ離れたものだが、その原因はこの辺にあるのではないだろうか。
p.196
「わたしの答えはハッキリしている。暴力に「よい暴力」も「悪い暴力」もない。暴力は暴力、認めることはできない、これしか答えはない。」
わたしもこの本を読んでこの考え方は強く持った。(それでもゲバラは好きだが・・・)
p.314
米谷ふみ子さんの言葉「政府と企業とメディアがつるむと、その国は滅びる」
「そのとおり、この国は滅びへと向かっています。
「原発安全神話」は最初から疑われていました。「神話」というのはもともと根拠のない信念集合のことをさします。原発は危険だと、誰もがうすうす知っていた。でなければ、なぜあんな辺鄙な土地に原発を立地するでしょうか。それだけでも安全神話を疑うには十分な理由でした。」
p.320
「原発の「絶対安全神話」は、「信州不滅神話」と似ています。「新風神話」とも呼ばれました。両方共思考停止と愚かさが招いた破局です。」
原発再稼働に動いている今、是非多くの人に読んで欲しい文章だ。
最後にとても勉強になった言葉。
p.347
「「先生、問題って何ですか?」という問いに対して、わたしはそのとき、こう答えました。「問題って、あなたをつかんで放さないもののことよ」と。」
そういえば、私のゼミの先生も同じようなことを言っていた気がする。