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映画を早送りで観る人たち [その他 本]


映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~ (光文社新書)

映画を早送りで観る人たち~ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形~ (光文社新書)

  • 作者: 稲田 豊史
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2022/04/12
  • メディア: Kindle版



最近仕事場で、映画を早送りで観る人が多いということが話題になることが多い。英語の授業で単語の意味を調べさせる時、紙辞書はもちろん、電子辞書すら使用せず、ネットで単語を入れ調べる生徒があまりにも多いこともよく話題になる。さらに言えば、単語を調べるならまだよく、文章そのまま翻訳させる生徒も多い。

そんな話題が良く出ていた時、この本の広告を電車で見つけ興味を持って読んでみた。

筆者はそうした人々に違和感を持ち、おそらく初めは否定的にそうした人々について論じていたが、色々調べていくうちにインターネットという科学技術と人間の欲望、そうしてこうしたものがつくり上げた社会が、このような人々を生み出したという結論に達している。

正直私は、映画を早送りで観る人たちに対して何も思わない。というか否定的には捉えない。最終的に筆者も述べているように、時代の変遷とともに映画の見られ方や音楽の聴かれ方なども変わってきているので、時代に合った見方が為されているのだろうとしか思われないからである。「アダージョ・カラヤン」というCDが数十年前に売り出され大ヒットしたが、これなんかもいいとこどりだし、映画に限らず、本にしたって、すべてが全体を見ずつまみ食いしてエッセンスだけを取り出そうという考えで世の中動いている。大学入試共通テストの英語の問題もこの考えでつくられているとしか思えない。

こうした一つ一つの事象があることは別に構わないし、様々なものをこういった形で享受していくのも構わない。しかし社会全体としてこうした方向が正しいのだという形で進んでいくことにはやはりまずいのではないかと思ってしまう。特に教育という分野においては、時間がかかっても回り道してもじっかり考えるということが根本にあるべきなのではと思ってしまう。

p.237
「他人に干渉しない。すなわち批判もダメ出しもしないし、されることもない。これは一見して「他者」を尊重しているように見えるが、そこには「自分と異なる価値観に触れて理解に努める」という行動が欠けている。単に関わり合いを避けているだけだ。
 それゆえに、自分とは考えの違う「他者」の存在を心の底から許容できない。
 ~中略~
 これは多様性には程遠い。むしろある種の狭量さだ。Z世代が得意だとする「多様性を認め、個性を尊重しあう」には、「異なる価値観が視界に入らない場合に限る」という但し書きが必要なのかもしれない。」

まさしくこの文が私の違和感を表現していくれていると思う。結局色々なものをつまみ食いしている人々は全体を見ることがなく、良いものも悪いものある全体を全体としてみようとせず、自分の気に入った部分だけを全体とみているので、真の意味で他者を受け入れることが出来ないのだ。

これは完全に教育の失敗だと思う。インターネットが主流になろうが、個人の趣味嗜好でどういう形でそれを享受しようが、それに逆らう形で教育を進めることはいくらでも出来るはずだ。コロナも含め、億万長者たちの金もうけのために人間がどんどんダメになっていっている気がする。
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