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教育のリーダーシップとハンナ・アーレント [学術書]


教育のリーダーシップとハンナ・アーレント

教育のリーダーシップとハンナ・アーレント

  • 出版社/メーカー: 春風社
  • 発売日: 2021/01/08
  • メディア: 単行本




古本屋で見つけて、かなり悩んだ末購入した本。

ハンナ・アーレントには昔から興味があり、様々な本を読んできた。そして彼女の説を教育と絡めて考えられないか、ということは10年以上前から自分も思っていたことで、色々と考えるきっかけになればと思い購入。

「リーダーシップ」という言葉はプラスのイメージで語られることが多いが、ここではかなり否定的に捉えられている。ELMA(Educational Leadership, Management and administration)という、すごく簡単に言ってしまえば、教育行政において、指揮系統をピラミッド型にし、中間管理職のようなものを多くつくり、教育界に市場原理・資本主義原理を導入し、教師・子供たちを競争させ、目に見える教育の成果を上げていこうというものっぽい。

この言葉を私はこの本で初めて知った。この本はイギリスに関する本みたいだが、状況はもろに日本にも当てはまる。何故この本の日本語訳が出されたのかも理解できる。

p.47
「思うに、世紀の初めから私たちが生きてきた一連の危機が何かを教えてくれたとすれば、判断を間違いなく行う一般的基準などないという単純な事実である。何かしらの確からしさをもって特定の事例を包含していく一般的法則などないのである。」

これはベトナム戦争の真っ只中の1966年にアーレントが述べた言葉らしい。教育にまさに当てはまる言葉であり、恐らく半分以上の教員はこの非常に単純な事実が分かっておらず、これをやれば子どもは伸びるはずだし、結果を出すはずだと信じて疑わず行動している。

p.53
「テクストというのはそれ自体で価値はない。それを苦労して獲得し、読み、それを用いながら思考し、その結果として行動するという人間の政治的実践によって重要なものとなる。ある観念、ある本、ある講義というのは、それを重要と認識し、時間と注意を必要とみなす他者の賞賛によって、地位と特異性を得る。興味深いのは、アーレントがマルクス主義のような「主義」に至ることはなかったということである。」

イエス・キリスト、孔子、釈迦は皆、自分で書物を書き残さなかった。アーレントは書き残したとは言え、後にもあるが、自分の思考を文章化しただけであって、絶対的なものを示そうとはしなかった。まさにそこに、アーレントが教育の文脈で読まれる意味があるのだと思う。つまり、ゴールのない、思考し続けることの大切さ、行動し続けることの大切さをアーレントが教えてくれる。


p.84
「歴史的・政治的に思考する者は、証拠をただ集めるというよりも理解を追い求めようとする。
  理解とは、正しい情報や科学的知識を手に入れることとは異なり、はっきりとした結果を決して
  もたらさない複雑な過程である。それは終わりのない活動である。その活動によって、私たちは、
  絶えず続く変化と変動の中で、現実と自分自身との間の折り合いを付け、両者を和解させる。」
先に述べたことと同じだ。終わりのない活動を教育は行い続けているのだが、それが分からず教育に携わる人間がなんと多いことか。


p.89
「リーダーとしての研修と承認を受け、リードしたり、リーダーシップを発揮したりする人々や、「労働人員」一般から切り分けられたチームとして働く人たちを採用することが、教授と学習を改善するという嘘である。」
民間人校長というのがもてはやされて何年も経つが、やはり教育は教育のプロが行うべきであり、管理職であろうが、やはり教育的視点を持った人間が教員の中に入って行うべきなのだろうと思うのだ。


p.100
「思うに、問題解決の専門家は、ELMAが教授と学習を改善するもっとも重要な手段であるという考え方を追求しながら、子どもたちとその学習に対して貢献すると見せかけ、少数の選ばれた大人に目を向けて問題の対処にあたっていた。TLP(国境を超えたリーダーシップのパッケージ)を受け入れることによって確実となったのは、教授と学習が商品になったということである。」
最近の教育改革が全く子供の方をみず、産業界の意向ばかり気にしているのと全く同じ状況だ。教育も学習も子供もすべてが商品なのだ。


p.103
「市場の持つ魔力に学校を委ねるならば、アメリカの学校は改善することはないだろう。」
まったくその通りだ。教育とは市場原理に左右されないからこそ価値があるのだ。そのことをあまりにも現代社会は忘れてしまっているのではないか。


p.108
「私は、アーレントの歴史的・政治的な思考を「一つの原因にのみ基づく説明」を拒絶する手段として使用する。それによって「全体主義の支配とかつてないほどの罪へと向かう道筋についての理解を生み出す。」ことにもなるだろう。」
先にも書いたが、教育とは、「何かを行えば必ず予想した結果が出るものではない。」そんな単純なものであれば、人間の教師などいらない。


p.132
「私の課題は、全体主義がなぜある特定の時代にドイツやソビエト連邦で起こったのかを理解することだけではない。そうした状況がつねに存続しているということを認めることもまたー結晶化されていることが分かるときには、もう手遅れであるかもしれないがー私の課題なのである。」
それは私の課題でもある。そして自分の属する社会が全体主義的にならないよう、不断の努力を続けることも私のやるべきことである。


p.134
「教師と子どもたちは、みずからの言葉によって教育について語ることが許されていない。彼らは「改善」、「効果」、「付加価値データ」を前にして発言できないである。要するに、NPM(および新たに出現しつつあるニュー・パブリック・リーダーシップ)の再編と再培養によって、英国国家の中で潜在的な形で強行されている全体主義的な状況の結晶化が、イングランドの学校を方向づけ、全体主義の傾向を生み出しつつある。」
そして日本でも生み出しつつある。


p.141
「イングランドで公式に是認されているELMAへの取り組みは、諸々の人間関係を破壊するものである。その結果、職務や専門的経験に対して共有された道筋をたどることで人々を結びつけてきた非公式の紐帯が根絶やしにされている。ビジネスとしての学校では、あらゆる面で業績を配送し、それを身をもって示すということに全ての人が巻き込まれている。そのことが意味するのは、諸々の関係性が、信頼できる協力というよりもむしろ「協働」として知られるような取り引きや計算された交換関係に基づいているということである。」
私が教師を始めた20年ほど前は、教師たちが様々なつながりのもと、議論し協力して教育を作り上げていた。しかし今は決められたことをひたすらこなす機械のような存在になってしまっている気がする。


p.158
「だが実のところ、学校は学習者としての子どもたちよりも、市場化と利益追求型の発展の方を優先させる人々のなす決定に対して専門的な正統性を与えている。どちらの学校も学校改善に取り組んでいると思い込み、みずからの実行していることが子どもたちのためになると言い張るかもしれない。けれども実際は、教育の機会をテストと説明責任の体制に置き換えている。」
これもまさに日本の今の状況だ。東京都の高校入試に使用されるスピーキングテストなどもこれの代表だ。ベネッセにただ金を回すためだけに行っているに過ぎない。


p.161
「結局、ELMAが拠って立つのは、外的に是認された方法で物事を成し遂げているかどうかで賞賛のゆくえが決まってしまうということである。そこでは、外部から認知され是認されるということが、とめどなく続く決して満たされることのない生き残りの過程をつかさどっている。」
p.166
「子どもたちが世界を理解できるようになるための責任を大人たちは引き受けていない。それどころか、教育を経済上の生産性に関するものと捉えるような、狭く技術的な取り組みを大人たちは子どもたちに対して行っている。」
日本の数多ある私立の学校も同じ状況だ。


p.181
「英国の歴代政府は、イングランドのきわめて重要な政策戦略として、失敗に焦点を定めてきた。たとえば、学校の失敗、校長の失敗、教師の失敗、そして子どもの失敗である。様々な解決策が〈労働〉という形態をとり、そこでは教授と学習が、外部で設計された教室実践パッケージの配送や評価へと切り詰められている。そうした状況のなかで学校の労働人員を再構築することが意味しているのは、もはや正資格を有した教師たちがそうした配送を実行する必要はないということである。目標、テスト、情報入力、分析によってデータの豊富な学校を作り出すことは、成績不振を「あぶり出す」ような、業績管理体制を制作することによって、専門的実践が〈仕事〉となりうることを意味していうる。」

これも日本と全く同じ状況だ。次々と欠点を見つけ、その解決に乗り出し、さらに悪い状況を作り出す日本の教育政策。もはや「教育」と呼べるようなものではないのかもしれない。


p.198
「思考とは「まさに生きているという感覚である」がゆえに、人びとは引きこもることを必要とする。思考は〈活動〉との関係が中心となる。つまり、「思考とはつねに秩序から外れたものであり、あらゆる日常的活動を中断させもすれば、その日常的活動によって中断されもする。」
これは素晴らしい言葉だと思う。何でもかんでも実践的なものを求めるが、実践から離れた、秩序から離れた空間に、学校を置いておくことによって、生徒の思考は深まるのではないだろうか。


p.207
「リーダーシップは、公的データとしての全国基準を保護したり強化したりする手段となっており、それゆえに出世第一主義 とこれから排出されてくる次世代校長層の拡大が、明確な政策的戦略となっている。分散型リーダーシップが依拠しているのは、行為者がみずからの意見を述べることができるという印象操作である。しかし実際の権限は、専門的実践について意思決定する正統的な地位をその行為者に保証した者に追従することによって付与される。」
権力者におもねったものだけが出世していく日本のシステムと全く同じだ。これによって組織はどんどんと悪くなっていくのだ。

p.211
「NPM(ニュー・パブリック・マナイジメント)は、一般的には次のようなものによって特徴づけられる。すなわち、市場と競争へのはっきりとした選好があること、民間部門の経営様式を公共部門でもあからさまに推進すること、そして業績に関する明確な尺度と基準を利用することである。」
教育とは本来、ここに書かれているものと正反対のものであるはずだ。ここにかかれていることを推進してきたからこそ、現代の教育の問題が生まれてきてしまっているのではないだろうか。


p.289
「一九八八年教育改革法とは、サッチャー政権の教育改革の基本枠組みを示すために制定されたものである。一九七九年から一九九〇年まで続くサッチャー保守党政権時代には、経済停滞の原因の一つが学力低下による競争力の低下にあるとして、教育と社会、経済の関係が強く意識された。政府、地方教育当局、学校の非効率的な関係が学力低下を生んだとして、中央政府の権限が強化され、また、教育界への市場原理の導入により、学校感の競争を促進し、ここの学校の業績を高めることで教育水準向上を図り、それが英国経済の発展に寄与するという図式が鮮明に描かれる。」
日本はこの道を辿り、教育の混乱を招く。

かなり刺激的な本だった。
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