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家父長制と資本制 マルクス主義とフェミニズムの地平 Part1理論編 [学術書]


家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2021/10/28
  • メディア: Kindle版



あとがきによると『思想の科学』編集部に「マルクス主義とフェミニズム」について書いて欲しいと頼まれ、14回にわたって連載したものをまとめたものらしい。かなりの大著であり、とても難しい本で、その主張を私にはとてもまとめられない。さらに言えば、マルクスの『資本論』はじめ、様々な著書を読んだのは読んだが、世間一般に言われているマルクス主義とはなんなのかイマイチよくわからない。しかし、感情的なフェミニズムではなく、非常に論理的で納得させられる部分が多かった。

とりあえずPart1理論編を読み終わったので、印象に残った部分だけをまとめておきたい。

p.10
「フェミニストが「市場」の外側に発見した「家族」という環境も、「自然」と驚くべき類似性を持っている。「自然」と「市場」との関係および、「家族」と「市場」との関係のあいだには、論理的なパラレリズムがある。「家族」は第一に、性という「人間の自然」にもとづいている。「家族」という領域から「市場」はヒトという資源を労働力としてインプットし、逆に労働力として使い物にならなくなった老人、病人、障害者を「産業廃棄物」としてアウトプットする。ヒトが、「市場」にとって労働力資源としたみなされないところでは、「市場」にとって意味のあるヒトとは、健康で一人前の成人男子のことだけとなる。 ~(中略)~ 女は、これら「ヒトでないヒト」たちを世話する補佐役、二流市民として、彼らと共に「市場」の外、「家族」という領域に置き去りにされる。」

「市場」の外に、「自然」と「家族」という考え方はとても新鮮だったし、その外側からインプットし、外側へアウトプットするという考え方も、何故資本主義が、資本主義を突き進む(否定する人もいるとは思うが)現代日本社会が、環境問題や人権(女性)問題に対して意識を向けないのか、よく分かった気がする。


p.19
「解放の思想は、解放の理論を必要とする。理論を書いた思想は、教条に陥る。女性解放のために理論はいらない、と言う人々は、半主知主義の闇の中に閉ざされる。」

これは平和教育などにも通じると思う。感情に訴えた進めようとする運動は結局感情的対立で終わってしまう。この本がいまだに新鮮さを保っているということは、女性運動というものもいまだに半主知主義の闇の中に閉ざされている部分が多いのだろうと思う。

pp.32~33
「フェミニストの貢献は、性支配の現実を明らかにし、それに「家父長制」という概念を導入したことだが、マルクス主義フェミニストは、この家父長制の分析に、マルクス主義がーまだ!ー役に立つと考える。マルクス主義フェミニズムがマルクス主義的である理由は、家父長制がたんに心理的な支配や抑圧ではなく、それに物質的根拠があると考える「唯物論的分析」による。したがって性支配が、たんにイデオロギーや心理でなくーそれゆえ女が被害妄想を捨てたり男が気持ちを入れ替えれば解決するような心理的な問題ではなくーはっきりとした物質的=社会・経済的な支配であり、したがってこの抑圧を排気するには、この物質基盤を変革する以外に開放がないことを明らかにする。」

簡単に言えば、「家父長制」=「おじさん文化」である。この本だったが、ほかの上野千鶴子の作品だったか忘れてしまったが、彼女はそう書いていた。この部分本当に共感する。私も中学生の頃から、この「おじさん文化」「マッチョイズム」が大嫌いだった。少しずつ、本当に少しずつ、世界は変化しつつあると最近思うだが、やはり日本はかなり遅れていると言わざるをえない。それもこれも皆が心理的な問題にしてしまい、根本的な変革を求めないからなのだと思う。


p.49
「「愛」と「母性」が、それに象徴的な価値を与え祭り上げることを通じて、女性の労働を搾取してきたイデオロギー装置であることは、フェミニストによる「母性イデオロギー」批判の中で次々に明らかにされてきた。「愛」とは夫の目的を自分の目的として女性が自分のエネルギーを動員するための、「母性」とは子供の成長を自分の幸福と見なして献身と自己犠牲を女性に慫慂(しょうよう)することを通じて女性が自分自身に対してはより控えめな要求しかしないようにするための、イデオロギー装置であった。女性が「愛」に高い価値を置く限り、女性の労働は「家族の理解」や「夫のねぎらい」によって容易に報われる。女性は「愛」を供給する専門家なのであり、この関係は一方的なものである。女の領分とされる「配慮」や「世話」が「愛という名の労働」にほかならないことを、アメリカの社会学者フィンチとグローヴズは的確に指摘している。」

これはリベラルな思想を持つ人でも、そして女の人にも内面化されてしまっていてあまりにも当たり前な事実のような感じのものになってしまっているが、こうして書かれるとこれはイデオロギー装置以外の何者でもないと思う。


p.71
「ハートマンによれば、家父長制の定義は以下のようなものである。
  われわれは家父長制を、物質的基盤を持ちかつ男性間の階層制度的関係と男性に女性支配を可能に
  するような男性間の結束が存在する一連の社会関係であると定義する。」

p.72
「 家父長制の物質的基盤とは、男性による女性の労働力の支配のことである。この支配は、女性が
  経済的に必要な生産資源に近づくのを排除することによって、また女性の性的機能を統御すること
  によって、維持される。
 したがって家父長制の排気は、ここの男性が態度を改めたり、意識を変えたりすることによって到達されるようなものではない。それは現実の物質的基盤ー制度と権力構造ーを変更することによってしか達成されない。」


pp.82~83
「それは、家事労働という不払い労働の家長男性による領有と、したがって女性の労働からの自己疎外という事実である。家父長制は、この労働の性別原理によって利益を得ているから、既婚女性は、階級のちがいを超えて「女性階級」を形成し利害を共にする」


p.107
「再生産が生産に抵触するという考えの中には、人々がギリギリの生存ラインで総力を挙げて生産活動にいそしんでいる、という前提がある。「生産力水準の低い社会では」というこの前提は、事実上、石器時代の生産力水準にとどまっている「未開社会」が労働時間のわずかな「豊かな社会」であるという観察によってくつがえされた。技術も生産力も石器時代の水準にある狩猟採取社会の住人たちは、饑餓線上をさまよっているどころか、多くの剰余食物を環境の中に保存して資源を取り尽くさないように配慮しており、一日四時間ーこの労働時間は、何と偶然にも、マルクスが描いた来るべき共産主義社会の一人あたり平均労働時間に一致している!ー生存のための労働に費やすほかは、歌ったり踊ったりだべったりの「社交」や「芸術活動」で日がな一日をすごすことが報告されている。この「豊かな社会」の住人は、産業社会の住人のように資源利用や生産力水準を「極大化」しないように配慮する点で「豊か」なのだ。」

40代中盤になってから読み、こんなことをいうのも恥ずかしい限りだが、非常に学ぶべきことが多い名著だと思う。後半の「分析編」も楽しみだ。
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サヨナラ、学校化社会 [その他 本]


サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

  • 作者: 上野 千鶴子
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2008/10/08
  • メディア: 文庫



今、上野千鶴子の『家父長制と資本制 マルクス主義とフェミニズムの地平』を読んでいる。岩波現代文庫から出ている作品をなるべく出版された順に読んでいるのだが、結構難しい。ある人の本を読むと、その人のほかの著作も読みたくなる。そこで軽い感じでさらにある程度面白そうなこの『サヨナラ、学校化社会』という本を読んでみた。

東大で教えるようになって、東大生の普通さに驚いたこと、学校化社会、つまり「未来志向」「ガンバリズム」「偏差値一元主義」といったもの批判、自分が今までの大学でどういうことを教えてきたか、(フィールドワーク・KJ法)、自分の今までの人生、これからの学び方、などが書かれており、結構興味深く読んだ。

彼女の程の知能とバイタリティがあるからこそできることなのだなあ、とは思うのだが、あまり上から目線は感じられず良かった。

p.34
「言語的なメッセージの読解力が低い人たちは、言っている相手が本気かどうか、そういう言語外のメッセージを読み取ります。そういう人たちに認めてもらうということはなかなか大変なことで、私はそのころ、「犬と子どもと学生サンは騙せまへん」と言ったものです。反対に東大生は権威ー活字で書かれたこととか教壇で語られること、ブランドのある人が言ったこと、そういうものに深くとらわれているということが見えてきます。」

普段東大に合格していく生徒たちを教えていて、東大に受かる子が、権威に深くとらわれているとは思わないが、子どもたちが言語外のメッセージを読み取り、こちらの本気度をよく見ているというのは共感する。だから権威ある人の軽い言葉は彼らの心に響かないのだ。

p.147
「私はいま、「小さな政府」「小さな学校」ということを唱えています。大きな政府など、もういらない。大きな政府を望むのは、政府に信頼をもつ国民だけです。日本政府にだれも信頼などもたないから、こんな政府に巨額な税金を預けるつもりはまったくない。~中略~
 おなじく大きな学校もいりません。小さな学校でたくさんです。知育・徳育・体育などといわず、学校は分相応に知育だけをやればよい。学校的価値を分相応に学校空間に閉じ込めて、その価値は多様な価値の一つにすぎないという異なるメッセージを、制度的に保証していくしくみをつくるべきだと思います。
 それは多元的な価値を作り出すことです。学校ではない空間ー「共」の空間を生み出すことにつながります。「共」もしくは「協」の空間とは、パブリックでもなくプライベートでもなく、コモンな空間のことをいいます。子どもたちには、家庭でも学校でもない、コモンの場が必要です。」

完全に同意はしないが、子供に対して、多元的な価値を示すことは重要だと思う。


p.165
「「この分析能力の差は、なんでつくか知っているかい?教養の差や。新聞を読みなさい。本を読みなさい。テレビのニュースを見たらいいよ」と。そこではじめて彼らのなかに、知識や教養にたいする動機づけが生まれます。」

大学時代、なんで教授はこんなに深く物事が考えられたり、分析できたりするんだろうと思っていたが、それはやっぱり教養の差だったのだと思う。

p.193
「三十歳をすぎて生まれてはじめて外国に出たわけですが、言葉ではものすごく苦労しました。語学というものは、そこにいて空気を吸っているだけで、一年とか二年とかしたらぺらぺらしゃべれるようになるものだと思ったら大まちがいです。」

p.195
「言葉はそこで生き抜く必要なる人が、必死で身につけるものです。必要のない人には、ことばを身につける理由も必然性もありません。」

これが日本人が英語ができない理由の全てだと思う。くだらない英語教育改革をやめてもらいたい。

色々と学べる本だった。
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最果てアーケード 長編⑮ [文学 日本 小川洋子 長編]


最果てアーケード (講談社文庫)

最果てアーケード (講談社文庫)

  • 作者: 小川洋子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2015/06/12
  • メディア: Kindle版



ある町にあるアーケードの大家さんの娘が主人公。彼女が16歳の時、町の半分が焼ける大火事があり、その時父親は死んでしまったらしい。アーケードも焼けてしまったらしいが、すぐに町全体とともに再建され今も彼女はそこに住んでいるらしい。

そのアーケードの中にある、いろいろなお店のエピソードを綴った作品。これも一続きの長編の形はしているが、短編集の趣が強い。小川洋子さんの作品はこういう短編があるテーマで結びついた長編の形をしたものが多い気がする。

1.衣装係さん
レースを専門に売るお店に来る、劇場の衣装係をしていた女性の話。彼女はよくこのお店で買い物をし、それを主人公が彼女の家まで届け、そこで簡単なお話をするうちに、彼女のいろいろな過去が分かっていくという話。最後衣装係の女性は死んでしまい、それを発見するのが主人公なのだが、何故か悲劇めいた感じはない。

2.百科事典少女
このアーケードには何故か、図書室のようなところがあり、アーケード内で買い物をした人は誰でも利用できるものらしい。主人公の友人で、買い物はしていないのだけれどよくこの図書館を利用する女の子(Rちゃん)がいて、彼女はよく百科事典を開いていた。最後の「ん」の項を見るのを楽しみにしていたが、内蔵の病気に罹って死んでしまう。その後この子の父親がやってきて、百科事典を「あ」の項から一つ一つノートに書き写していく。女の子が楽しみにしていた「ん」の項にある。「んごま」という南アフリカの太鼓の項を書きおわると、その人は姿を見せなくなる。

3.兎夫人
義眼屋にやってくる、夫人の話。彼女は「ラビト」という兎?の義眼を作りたいとやってくるのだが、いつも買わずにおしゃべりだけして帰っていく。しかも店主の青年が、実際作るのであれば実物の兎が見たいので連れてきてくれといっても、連れてこない。
ある日、義眼屋の青年は結婚のため店をお休みする。その日に夫人がやってきてしばらく店の前で佇んでいる。その後彼女はやってこない。

後日談が何とも印象的・・・
「ラビトというあだ名の男の子が、Rちゃんと同じ病院で、同じ頃死んだ、という話を紳士おじさんから聞いたのは、兎夫人が姿を消したあと、随分経った時分のことだった。

4.輪っか屋
ドーナツ屋にやってくる、元体操オリンピック選手を名乗る女性の話。彼女はドーナツを買って、店主とおしゃべりをして帰っていく。二人は婚約する。しかし、図書室に置いてある百科事典のセールスマンとの会話をきっかけに、この女性が元オリンピック選手を騙りドーナツ屋を騙していたことがわかる。そしてこの女性はアーケードから姿を消す。のちのち、彼女は結婚詐欺で刑務所に入っていたらしいという噂を聞く。その彼女が再びこの界隈に姿を見せているらしいという噂が流れ、偶然主人公の女の子は彼女と出くわす。そこで、ドーナツの形の体操技を見せてくれと、頼むと彼女はやってくれる。それ以来彼女はアーケードのそばをうろつくことはなく、ドーナツ屋も静かに営業を続けている。

5.紙店シスター
レターセットや万年筆を売るお店の話。レース屋をしている男性とは姉と弟の関係。お客さんが買った絵葉書から、主人公の絵葉書の思い出が回想される。

主人公の女の子は、病気だった母親のお見舞いに病院へ行っていた。そこで知り合った雑用係さん。彼は一人でひっそりと暮らしていた。彼は郵便の仕分けなどもしていて、その仕分けをしているところに立ち会ったことがあった。雑用係さんにも一通、お姉さんからの手紙が来ていたが、よくよく聞くと、天涯孤独の身の雑用係さんが、自分で自分に宛てた手紙だということがわかる。主人公の女の子は文字も書けないのに、「私、お家に帰ったら、おじいさんに葉書を書く」と言ってしまう。しかしその後すぐに母親は死に、その雑用係さんに手紙を書く事もなく、会うこともなかった。

6.ノブさん
ドアノブ専門店の話。その店には、様々なドアノブがある中、雄ライオン彫刻付きのドアノブ&ドアがあり、そのドアを開けると、小さな空間がある。主人公は、安らぎを得られる場所としてそこに入りこむ。これも小川洋子さんが、テーマの話だと思う。外から隔絶された、静かな安らぎを得られる自分だけの小さな小さな空間。私はこうしたものにかなり共感を覚えてしまう。

7.勲章店の未亡人
勲章、いわゆるトロフィーとかメダル?、のお店の話。表彰式が好きだった店主の男性が死んでしまい、それを引き継ぐ形でやっている未亡人。彼女は勲章の買取はやっていないのだが、なぜだか皆色々持ってくる。ある日、ある詩人の息子が、「親父の形見」といって八角形の勲章を持ってくる。
主人公の女の子は、その詩人の本を借りに、久しぶりに町の図書館へ行く。紙ベースの貸出カードを出すと、古いから使えないと言われ、新式のプラスチック製のカードに変えられてしまう。この最後のやりとりが何ともノスタルジックで美しい。

8.遺髪レース
1で出てきたレース屋にまつわる、死んだ人の髪を用いてレースを編み思い出の品にするという話。この遺髪専門のレース編みと主人公の女の子の触れ合いを描いた作品。

9.人さらいの時計
アーケードの中央にある時計の話。この時計が動くところを見るとさらわれてしまうという伝説があり、皆恐れている。そこから話は転じ、主人公の女の子はいつからか、買い物客のあとをつけるという謎の行動を行うようになる。ヴァイオリンを持った大学の社会学部の助手のあとを付けた時の話。物語に、そのヴァイオリンが絶妙な役割を果たす。若干幻想的な話で、いろいろな要素が混じったストーリーになっている。

10. フォークダンス発表会
最後に16歳の時に起こった火事について語られる。自分の優しさが悲劇を生み出してしまったのではないかと苦しむ主人公の女の子の気持ちが淡々と語られる。様々な登場人物が最後に登場する。

最終章の緊張感と何とも言えない世界観が素晴らしい。最後の章を読むと、もう一度初めから読みたくなる作品。それくらい最後の章はインパクトがある。

ここに登場する人たちは、主人公含めあまり性別がわからない人が多い。話し方も含めすごく中性的な感じで、彼・彼女という代名詞がなければほとんどわからない。これも時代を反映しているのか・・・。
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